わたしの履歴書:vol.2(ブラジル時代)

◆そしてブラジルへ経つ...

 いよいよブラジルへ経つ日、今でも忘れはしない、ドキドキ感とワクワク感でアドレナリンが出まくっていました。高校の同級生に見送りは来なくていいよと言っておきながら、心のどこかで期待していた自分が恰好悪いですね、実際来てくれましたが(笑)。日本のクラブチームの紹介で一旦、同時にブラジルへ経つメンバーと一緒に飛行機に乗りました。飛行機が飛び立った瞬間の気持ちは今でも覚えてます。「あ、やべ、これでいつ帰れるか分からんな、どうしよ(汗)」NY経由サンパウロ行きでしたね。サンパウロからパラナ州まで飛行機、現地までバス。確か48時間くらいかかったと思います。
 


①どれくらい留学するつもりだった?
⇒一応、1年分くらいの生活費と留学先の寮費(食事含む)くらいを支払ってるので、最低1年のつもりでした。

②言葉どうするの?
⇒ブラジルはポルトガル語です。英語はもちろん、ポルトガル語なんて全く知りません。なぜか大丈夫な気がして(アホやと思います)、辞書だけ持って指差して話せばええかなって考えてました。

③当時の状況って?
⇒スマホはもちろん携帯もない時代です。国際電話もめっちゃ高くてコレクトコール(着信側払い)で3ヶ月に1回くらい家に電話してました。連絡手段は基本、エアメール(Eメールちゃいますよ、手紙です)で1週間くらいかかってました。

◆ブラジル生活スタート

 ブラジルについて最初の2週間は同時に日本から留学しにきたメンバーと共にブラジルの生活に慣れます。アテンドしてくれるコーディネーターさんがいて、ブラジル生活での注意事項とか基本的なことを教わります。そこである程度のルールや言葉を集中的に学習しました。(もちろん練習もします)その後、各留学先のクラブチームへ放たれることになります。


 突然クラブの寮に一人日本人が現れるんですが、ブラジル人からしたら下手くそな日本人が何しにきた?俺らの邪魔するな!みたいな空気からスタートです。ブラジルはサッカーで生計を立てられるためにプロになるっていうのが定石です。「プロになれない=生活できない」図式ですのでめちゃくちゃシビアです。ライバルは少ない方がいいのです。まぁ、これに関してはめっちゃ覚悟してたので全然問題なかったです。


 日々の練習はそれはまぁめちゃくちゃしんどいですが、楽しかったです。意外だったのは居残り練習ってあんまりしないんだなと。オフィシャルな練習が終わったら個人練習(自分でシュート練習したり、走り込んだり、筋トレしたりとか)をしない人ばっかでした。僕はオフも練習してオーバートレーニングでコーチに怒られることが多かったですが。(笑)無理やりのオフは街を散歩するくらいしかないので、ブラブラしてると、日本人が珍しいのか現地の子供たちが寄ってきて、「ジャポネース、ハハハ!」て気軽に声かけてくれます。「アリガト」とかそんな感じが多いのですが、なぜかわからないのですが、「バカタレ」って言葉を知ってました。(なんでやねん)そうやって子供たちと話すことで少しずつ言葉を覚えていき、生活にも慣れていきました。とはいうものの、蚊に刺されたりするのは相当苦労しました。サッカー以外での生活はみんな明るくて陽気、細かいことは気にしない、なんとかなるって考え方と、ちょっとしたことでもゲラ笑いするラテンのノリはここで培われたんだと思います。


◆サッカーの厳しさを知る(超挫折)

 そして、本格的に練習を始めていくわけですが、2人1組で練習するのもペアになってくれません。1人余っていても3人組になりやがる!仕方なくコーチとペアになります。練習試合では、やっぱりめちゃくちゃ上手くて最初はスピードとタイミングが全く合わずに一切ボール触れなくて、もう笑っちゃいました。ヤバいと考える前にこんなに上手くなれるんや!って根拠のない伸びシロにワクワクしてました。もちろん仲間はパスくれません。(笑)幼稚園児がサッカーボールを見て走り回ってる感じです。でも、必死で走って、声出して、ちょっとずつ信頼を得ていくといった感じでしょうか。最初の半年くらいは見て学ぶといったのが続いていました。もちろんレギュラーの試合には出れませんし、サブチームの試合に交替メンバーとしてようやく出れるくらいでした。まぁこんなポジティブな僕でも悔しくて挫折感を味わうわけです。そんなんでホントにうまくなれるの?センスないんちゃう?って思われるかもしれません。でも、この努力積み重ねは絶対にムダにならないと信じてコツコツ辛抱しました。


◆ハエが顔に止まってから覚醒!

 このままではマズイ、練習だけして日本に帰ることになったら、ただ単にブラジルへ旅行しに行ったことになってしまう!と焦りが出始めました。そしてある日の練習の朝、みんなで準備体操してるときです。プィ~ンとハエが僕のおでこに飛んできてピタッと止まったんです。それをみたチームメンバーが大爆笑!それからというもの、何ヶ月もそのネタで大爆笑されて、最終的にはイラっとするんですが。(笑)そのおかげ(?)で皆と打ち解けて、パスも出してくれるようになりました。なんてブラジル人は単純なんだ。それならもっと早くカブトムシでもおでこにつけて練習したら良かったって後悔しました。要するに僕もギラギラし過ぎてたんでしょうね。もっと仲間と共にって気持ちを大事にしないとなぁって気付いた瞬間でした。


 それがきっかけだったかは覚えてないですが、そのころに僕のプレースタイルを自分で大きく変えたんです。(詳しく話すとサッカーコラムになってしまうので、タイミングがあれば)あ、そういえば僕のポジションお話できてなかったのを思い出しました。(汗)中学はFWでしたが、ずっとMFがやりたくてやってましたが、ブラジルに来て「お前はFWだ」と言われそこからずっと攻める人です。そのプレースタイルに変えてからボールがどんどん来るようになりましたし、ゴールも取れるようになりました。まさしく覚醒です!自分でもビックリするぐらいです。チームメンバーにも、どうしたん?めっちゃ上手くなったやん?って褒められて(もちろんポルトガル語ですよ)上機嫌でした。そういうときってどんどん好転しますね。レギュラーチームの試合にも出れるようになりました。実はそこでも超挫折したんですが、レギュラーチームの試合に初めて出たときも、何もできずに涙しました。ちょっと上手くなったつもりだったのですが、また鼻を折られました。そこでも自分のスタイルを崩さず辛抱していると、ついていけるようになった?って感覚です。


◆そして帰国

 そこから順調にいき、プロ契約?のようなものをして頂きました。そのときの報酬はほんと1日のごはん食べられるくらいしかなく、寮費用は別途必要でしたので、自分の資金は逆に減っていく一方でした。試合にも出られるようになったものの、生きていくための資金が足りず、やむなく帰国を選択せざるを得ませんでした。ここまで、約1年半でした。その間、いわゆるドーハの悲劇もあり(リアルタイムで見れなかったのです)Jリーグも始まったことですし、まぁ帰って日本のプロテスト受けるかなぁって感じでした。


◆まとめ:ブラジル時代

 ほんと貴重な経験ができました。まずは愚痴ひとつ言わずに送り出してくれた両親に感謝です。そして、段取りして頂いたクラブチーム、関係者の方々、留学先のチームメンバー、スタッフ、寮の食事を作ってくれたおばちゃんたち。そしてこんな僕のファンになってくれたブラジルの子供たち。数えきれないくらい沢山の方々の支えがあってこの経験ができたんだと、だいぶ後になってから気付きました。(情けない)改めてこの場をお借りし、お礼させて頂きます。本当にありがとうございました。

 普通に大学に行ってサッカーバカになるよりは、よりサッカーバカになってとことん突き詰めた、一番上のレベルを体感できたのは非常に有意義でしたし、色んなメンタルの部分を鍛え上げることができました。相当なことがあってもへこたれない、明るく前向きにポジティブに楽しむってことを吸収できました。もちろんサッカーのスキルは相当自身がつきました。結局この経験は、後の僕の人生への影響がものすごくあるわけなのです。

 若い方々に提言しておきたいことはひとつです。

夢があるなら行動した方が良い!

この一言に尽きます。その行動が失敗に終わったとしても必ずどこかでその経験が武器になるときがきます。なくてもそれを無理やり武器にすることです!ある意味良いネタにするんです。


そして私は社会人になっていくのです。。。


vol.3へ続く。。。


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