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袖振り合うも多生の縁

noteでコメントをしていて気づいたことがあって、記事に残しておこうかと思いました。コメント中に考えがまとまることもあって・・・
noteはやっぱり面白いですね。
個人の見解です。
法事のことや死に関することを書いています。気が進まないなーという方は、ポチッと閉じてください。ちょっと加筆して、これまた長い!3839文字。お暇な方、気になる方は、お付き合いください。

この夏、母の三回忌を迎えた。

私は宗教に世の中に無頓着で、三回忌が亡くなった年の2年目にあたるとは知らなかった。3回目の命日ということらしい。

三浦春馬さんの三回忌のことがニュースで取り上げられていた。
「もう、三回忌になるのか・・・」胸がギュッと苦しくなった。

三浦春馬さんには、ご縁というか何というかを勝手に感じている。
めったに録画しないのに、その中に彼はいて、消せずにいる番組がある。
とても久しぶりに買った雑誌に、彼の対談が掲載されていて、今も手元に残している。
俳優さんとして知っていた。特に好きだったわけではないけれども、彼の死はそんな私にさえも、ズッシリと悲しみが重く心にのし掛かる、そんな出来事だった。

三浦春馬さんの訃報を知ったのは、母と最初で最後の温泉旅行をしている時だった。
「え???あの俳優さんが亡くなったの?」楽しい談笑の中、その場が一瞬凍りついた、ように思った。皆がショックを受けていた。

あの時、母はどんな心境だったのだろうか。
残り少ない人生を覚悟して、死についてどう思っていたのだろうか。

三浦春馬さんが亡くなって、同じ年の8月に母も亡くなった。
三浦春馬さんと母の死がつながってしまうのだ、どうしても。

「え、まって、三回忌って事は母も三回忌なの???」
実家での法要は母に任せっきりだったし、母のことは、すっかりと姉に任せっきりの末っ子な私だった。
すかさず夫に聞いてみた。
「今年、母の三回忌って知ってた?」
「知ってたよ。コロナだし、どうするのかな?って思っていたよ」と夫。
「姉、三回忌って知っているよね?姉も知らないってことは、ないよね?」ちょっと不安になった。

「姉、今年、母の三回忌って知っていた?」
はぁ???何いってるのあんた???三回忌、間際のこの時期に???今更???って顔で呆れられた。
「だってさ、2年目なのに三回忌っておかしくない?来年だと思っていたよ」
「常識でしょ、他所で言わないでよねー。恥ずかしいから」
はい。すみません。
姉が知ってて良かった三回忌。
姉はなんだかんだ長女なんだな、頼りになる長女なんだな、と改めて感心した。
まぁ、私が無知なだけなんだけど。
流石に自分の無知を恥じた。

親不孝、不精な娘です。

私の中に母が亡くなった悲しみは、今はもうない、と思う。
悲しみを咀嚼して消化してしまったのか、追い立てられる日常で忘れてしまっているのか、母のことで涙することもなくなっていた。ふいに涙が出ることはあっても、それは悲しみというよりは感謝の涙だと思う。

今年は法事はなし。暑い時期だし、喪服着たり親戚付き合いとか、法事って面倒なんだよな、そもそもコロナだし。
自分で全て手配するわけでもないのに、親不孝、不精な娘はそんなことを思っていた。

「三回忌って法事って何でするんだろう?」

いつも毎日、常日頃、母のことを考えている。
父のことやご先祖さまのことは忘れがちだけど。
お墓に魂はないって聞いたし。

「何で法事って必要なんだろう?」

コロナで三回忌は極々身内、家族だけで行う事になった。
「三回忌って必要なのかな?」夫に聞いてみた。
「必要でしょ!」
「そうか、そうだよね・・・」何だか釈然としない。

暑くてジメジメする日に喪服を着て、お寺さんに行く。
慌ただしく前日に喪服の用意をして、夫が「ズボンきつい!」とか当日に言い出して、ストッキング履いたのいつぶりかしら?私。幸い私の喪服はジャストサイズのままだったが、息子もなかなか着替えてくれないし。はぁー法事って・・・母の命日が土曜日で、学校や仕事を休まずに済んだのは良かったのか。
そんな憂鬱の中、お寺さんに行く。

いつも母のお墓参りや法事の時には、必ず雨が上がる。
雨予報でも、晴れ間が見える。
晴れ女。
気分も一緒に晴れていく。
今年も一週間雨予報だったのに、太陽が燦々と輝いている。
「やっぱり晴れたねー」
黒いアゲハチョウがひらひらと飛んでいた。
実家の庭にいつも来ていたっけ、クロアゲハ。
母が喜んでいるのかも?
懐かしいなーと見つめていた。

少し待ち時間があって、境内に入る。
お経がはじまって、和尚さんの柔らかな声が静かに響いて、心地よい。
「いい声してるなー」
不謹慎なこととは思うが、静かな面持ちでいながらも私は、お寺の金色の装飾や絵付けが綺麗でいつもキョロキョロしてしまう。
伊丹十三監督のお葬式って映画があったけれども、「厳粛な中、お葬式って本当は、みな、何考えてるんだろう?」そんなことを考えたりもする。
悲しみが深い時には、そんなこと考える余裕はないのだけれども。

法要が終わると和尚さんが説法をしてくださる。
いつも、とても良い話をしてくださるのだが、感動して泣いたりするのに、残念ながらすぐに忘れてしまう。
「ご先祖さまの供養、お墓参りをすることは、今の自分に感謝することでもあるんです。生まれてきてくれてありがとう。命をつないでくれてありがとう。」
ご先祖さまは、あなたのことをずっと見ていてくれている。
あなたは一人じゃない、そんなお話だったように思います。

「何だか泣けてきた」姉が涙を拭っていた。

亡くなった方を思って暗くて寂しくて「自分は一人だ」と悲しんでいる時に、綺麗なお月さまを見て、明るく輝く美しい光に、「お月さまはいつも見ていてくれる。自分は一人じゃない。いつも明るく照らしてくれている」故人は月になっていつも見ていてくれる。そんなお話もしてくれました。
亡くなった方は、お月さまになるのかもしれない。
お月さまが出ている時は、「息子、ばぁーばが見てくれてるよ。綺麗だね」そんなことを息子と話しています。

一人の人間、その背後には無数のつながりがある。
それはご先祖さまだけではなく、家族や友人、夫や息子、優しかったあの人、嫌いだったあの人、面白かったアイツ、苦手だったアイツ、ただただすれ違って出会って消えていった人、たくさんの出会いがあって、たくさんの経験があって、今ここに私がいる。

法要の最中に、後でガサゴソと音がする。誰かが入ってきた足音。
「あ、おばさん間に合ったんだ」
叔母は隣県にすむ母の妹、仲の良い姉妹だった。コロナで一周忌にも来れなかった。今朝、「こんな時だけど行こうかと思う」と姉に連絡があったようだ。来てくれたことが嬉しくて、泣きそうになる。
きっと母はもっともっと喜んでいるだろう。

「そうか、お墓参りをするってことは、ご先祖さまの供養や亡くなった方を思うことだけではなく、今の自分を受け入れて、今ここ、今ここにある自分に、ご縁に、感謝するってことでもあるのか。」なんだか腑に落ちた。

お墓参りは、供養としてではなく色々なことに感謝するために参りたい。

「三回忌、必要だね!来てよかったよ、お母さん。面倒臭い!って思ってごめんなさい」墓前で手を合わせた。
和尚さんのお話に感動したし、叔母との再会もとても楽しい時間だった。おまけに叔母は美味しいお昼ご飯もご馳走してくれたのだ。

母や父やご先祖さまのおかげさま、ありがとう、お母さん。
今度からは、ありがとうを伝えに行くからね。


袖振そでふうも多生たしょうえん

道で人と袖を触れあうようなちょっとしたことでも、前世からの因縁によるものだ。袖すり合うも多生の縁。
[補説]「多生」は、仏語で、何度も生まれ変わること。「他生の縁」とも書くが、「多少の縁」と書くのは誤り。

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街ですれ違う人々、知らない誰かは、実は、前世でお世話になった人かもしれない。そんな思いで世の中を見てみると、人類皆兄弟。
他人は他人じゃなくなって、孤独じゃなくなって、言動や行動に配慮できる、そんな気がします。

noteでの出会いも、本当に感謝することばかりです。
普通に生活していたら、決して出会えない方々ばかりです。

今は専業主婦な私。
実生活では家族としか話さない、引きこもりのような生活をしています。
こんなご時世ですが、友人とも元々頻繁に連絡をしていませんでした。人が嫌いって言うわけではないのですが、人との距離感が遠くて、周りに気を使ってしまい、懐くまでに時間がかかります。
「こんなことをいったら迷惑かな。辛い思いをさせるかな。変な空気になるかな。嫌われるかな。」
色々と考えて結局、本心を言えなかったりします。なかなか腹の中を見せれない、自分で壁を作ってしまう、そんな性格です。実生活で本当の自分をさらけ出せているのは、家族だけかもしれないです。

そんな私ですが、noteではすでに私の方が壁を超えて、私の不安やトラウマのようなことを、本心を腹の中をツラツラとつづっています。

そんな状態で人と出会えること、実生活では難しいから。
そんな状態で出会ってくださった方々に、感謝の気持ちでいっぱいです。

出会ってくれて、本当に、ありがとうございます!

今ここ、今生きてここにある私はご先祖さま、皆様とのご縁でできています。そのことが、素晴らしい!って素直に思えるようになりました。


長々とお付き合いいただき、ありがとうございます!

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