見出し画像

努力が報われるのは10年後の法則

高校生を教えているとプロとして悩ましい壁にぶち当たることが多い。(*アメリカの私立校で歴史を教えています)

教えていることがすぐに直接何かに役だったり、知識のおかげで得をしたり、お金が貰えたり、そんな目に見える形になってすぐに現れるわけではない。生徒たちは読むのも書くのも面倒くさがるし、授業中にどんなに楽しい講義をしても、彼らが家に帰ってからもっと調べてみようとか深く理解しようと時間や努力を割くことはまれだ。

私は生徒たちには歴史や科学や文学などの教科としての知識だけでなく、学習スキルや教養や文化や道徳なんかも同時に学んでほしいので、授業の準備にめちゃめちゃ時間をかける。1時間の授業のために何日も下準備をしたり計画を練り直したりするのも日常的にやっている。それでも時々、私の時間や努力は無駄なのかもしれん、と心細くなることがある。

どんなに努力をしても、時間を使っても、練りに練って課題を作っても、自分の”パフォーマンス”の評価は今すぐに見えるものでもない。授業が楽しいとか先生のクラスが好きとか、そんなフィードバックが来ることはあるが、それは表面的な評価であり自分が深いところで意図した学びのステップや知識の広がりについての生徒たちからの評価はすぐに見えることはないのだ。

大体5-10年後くらいに私の努力は報われる。

彼らが大学や大学院に進んで、専門分野の論文や発表に取り掛かるときに ”あ、これシマ先生の授業で何回もやった” と思う機会が来ることがある。そしてその機会があった子供はその時に連絡してくる。

”先生の授業でやった文章分析、卒論で役に立った”

”10年生で習った効果的な研究論文の書き方、大学院でも使ってる”

”プロジェクトでやった批判的思考の練習のおかげで難しい文献も楽しく読めている”

”あの時のディスカッションで学んだ異文化交流についての知識に社会人になって助けてもらってる”

大学での専攻が何であれ、私の授業で使っていた・習ったスキルやプロセスが時々役に立ってる、と報告してくれる生徒たちのおかげで、私の現在の努力は報われていることがちゃんとわかる。

これからもこのまま努力すればいいのだ、5年後にやっと今私が努力していることは報われるのだ、今心細くても大丈夫なのだとちょっとほっとする。

今日は社会人3年目のD君からこんなメールが来た。

”大学卒業するちょっと前に、先生の授業で習ったラピスラズリの話(ルネサンス期のウルトラマリンという顔料についての授業)をバーで隣に座ったラピスのネックレスをしていた綺麗な女性にした。そしたら面白いことを知ってるのね、教養があって素敵!って褒められて付き合うことになって、来月結婚する。”

あの授業、面白くするためにウルトラマリンを使った絵画を何枚も探して、大きな世界地図に宝石が辿る道のりを描き、実際のラピスラズリも買ってきて砕いて見せ、頑張った授業だった。

あぁ、今やっとあの私の努力が報われた!D君はちゃんとその知識を大切なことに使ってくれた。

ありがとう、ラピスの女性!お幸せに、D君!

シマフィー 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?