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個人が残す”評価”、早よ禁止になれ

ネット社会になって久しく、世界中の色んな情報が誇張ではなく秒で手に入る昨今。商品のレビューやレストランの星なんかを見るたびに禁止になればいいのに、と思っている。

何かを買う時はアマゾンのレビューを読むし、初めて行く土地で食事に出る時は地図とともに誰か知らん人がつけた”評価”に目を通す。自分もまさに”ソーシャル”な使い方が当たり前になっているのだが、それでも理不尽に悪い評価を目にすると、それを作った人、売った人、はどんな思いをしているだろうかと心が痛くなる。

大量生産されてひとつ百円で売られるものの話ではなく、誰かが時間をかけて開発し、デザインに試行錯誤し、マーケティング方法に悩み、その後にやっと売り出された商品。もしくはファストフードで30秒待てば出てくるものではなく、裏の厨房で誰かが鍋を振り、皿に盛り付け、テーブルまで運んでくる料理。

そんなものにたった一度だけ使った、買った、食べた、客たちが気軽に(プロとしてやっている人もいるのでしょうが)”美味しくない” とか ”大きすぎる” とかの個人的な理由や基準をもとに全世界が目にできる”評価” として残しているのを目にすると悔しくなる。

私がかつて住んでいたコロラド州の大学町に中東のご飯を出す食堂があった。中の席は5−6しかなく、メニューも10種類もなかったように記憶している。店主と息子が二人で切り盛りしていて、朝早くから夜遅くまで開いていた。20数年前の話だが、大学生の間では人気の食堂だった。

今朝方ふと思い出して、そういえばあの店はまだやっているのだろうか、とグーグルで検索してみると、果たして同じ場所に同じ様子で同じ人たちがやっているようだった。

星がふたつついていた。 そして検索のコメント欄には ”料理が出てくるのが遅い” とか ”ウエイターが笑わない” とかの ”評価” が残っており、”もう行かない” や ”マクドナルドの方がマシ” などという悲しい言葉も残っていた。

書いた客は、週に何度もしている外食のうちの一軒だったのかもしれず、自分の好みではなく、自分が ”正しい” と感じている接客や値段設定ではなかったのだろう。でも、この店主と息子にとってはたった一軒の自分たちの店であり、そのコメントは自分たちのプライドややる気や希望なんかを一瞬にしてないものにしてしまう破壊力がある。

私の弟は宮崎の小さな町でパン屋をしている。

朝5時から夜の10時まで立ちっぱなし動きっぱなしで、給料も上がらず、人手も増えず、ひたすら懸命にパンを焼いている。小さな町のばあちゃんやじいちゃん達にも喜んでもらえるように、良い小麦を使い、材料を吟味しながらも、安い値段でパンを売っている。近所の高校生達が買い食いできるように、オシャレなパンやスイーツも極力安くしている。

彼の店の評価に星を3つしかつけていなかったり、”まあまあ” などと書いてあるヤツを見つけると探し出して殴りたくなる。

お前は一度しか食べたことのないパンの裏にどんな努力や苦労があるかを知らないのに、自分でパンを焼くこともできないくせに、金を払った客なのでどんな主観で何を書いてもいいだろうと軽く考えて ”宮崎にしては良い方” などと何の根拠もデータもない意見を残すバカヤロウだ、と殴りたくなる。

日本でもアメリカでも世界中どこでも、レビューという形で残されている”いち個人の意見”は ”評価” として認識・表示されるべきではない。気分や、好みや、タイミングや、天気や、そんなもので左右されている意見を、さも自分に合わせなかった相手が悪いように”評価”してはいけない。

正当な(異物が混入していたとか、ぼったくられたとか)客からのフィードバックは他の客(にならないかもしれない人)に向けてではなく、店側に直接するべき、責任を伴う行為だ。

ネットいじめや掲示板の中傷、個人の鬱憤のはけ口、となんや変わらない商品やレストランの”評価”・・・・早く禁止にならんかな。

デンバーの食堂も、うちの弟も、どこかの開発部の人も、販売員の人も、そんな個人的な”評価”なんか見ないと良いな。見ないでくれ。見らんでいい。

シマフィー 

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