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静かな棚田の夜

道に迷った。
そう確信した次の瞬間に、どんな行動を起こしますか?
今なら携帯のGPSや地図を見る、かな。
道ゆく人に聞く、目印を探す、誰かに電話をする・・・そんな選択肢もありますが、あの時道に迷った私にそんな選択肢はひとつもありませんでした。
強いて言えば太陽が出ていたので、東西南北はわかりました。

フィリピンのルソン島、ちょうど真ん中ほどの田舎町からバイクタクシーに乗った私とボーイフレンドのイェンスは棚田を目指していました。
大きなバックパックを背負う私たちに、タクシーの運ちゃんは、そんなに大荷物で大丈夫?と笑いましたが、まだ若かった私たちは へーきへーき!と笑いかえす余裕がその時はありました。

もう20年近く前の話ですので、頼りは一冊のガイドブックのLonely Planetだけ。でもそれ一冊でフィリピンをひと月近くバスや船で旅してきた私たちは特に不安もなしに降ろされた人気のない山道から目の前に続く道を歩き出しました。
タクシーの運ちゃんに一体どれくらい歩くだろうか、と聞くと、
”知らん、行ったことないし”
とそっけない返事しか得られなかったけれど、他にも観光客は棚田を見に行っているだろうからそこまで遠くはないだろうと鼻歌を歌いながらの出発でした。

それなのに、行けども行けども誰にも会わず、荷物は重さを増してきます。
ジメジメした季節でベタベタになった肌にまとわりつくシャツは汗びっしょりで、途中でバッグから新しいシャツを引っ張り出して着替えるほどでした。

と、いきなり左脇の上り傾斜から3人の男性が現れました。本当に目の前に彼らが飛び出てくるまでは風や木の音、ましては話し声などは全く聞こえなかったので、わたしはこの時代に山賊か?とびっくりして小さな悲鳴をあげました。

びっくりしたのは彼らも一緒でしたが、金髪の大きな男性と私が棚田を目指す観光客だとわかったのでしょう、身振り手振りと拙い英語で彼らが出てきた藪を指すと
”こっち、棚田、近い”
と教えてくれました。

イェンスが、やった!近道だ!と喜びその傾斜をどんどん登っていきます。あの3人はビーサンで降りてきたのに、ちゃんとしたトレッキングシューズを履いている私たちはちょっと上の獣道の様な場所に到達するのにずいぶんと手間取りました。
写真で見た棚田は山のてっぺんから見下ろす様なアングルばかりでしたので、このままひたすら上に登ればつくのだろうと思っていたのですが、そこから行けども行けども、どこにも到着しません。

そしてしばらくしてから、鬱蒼と茂る樹木の中で、イェンスが言います。

”道に迷ったのかな?”

それを聞いた時に私は不安よりも先に怒りを感じ、彼を
”そんなこと言わないでよ!近道しようと言ったのはあなたよ!”
と早口で責め立てました。

やったー!近道だー!とはしゃぐ彼に続いた私も喜び勇んでいたのですが、ここでは彼に全責任をなすりつけます。

その後は無口なままひたすら上を目指して歩くのですが、前が開ける兆しもなく、人や動物の声も聞こえず、もう不安でいっぱいです。
このまま歩いて日が暮れてしまったら野宿、そしてお腹が空いているのに持っているのはピーナッツだけ、水も尽きてしまいます。そんなことを思うとますますイェンスが憎らしくなってきます。

イェンスも不安だったと思いますが、殴りたいほど楽観的な表情で大きなカメラで植物の写真を撮りながらの前進を続けていました。多分彼もどうしていいかわからなかったのだと思います。たった一人の旅の友はぶんぶんにむくれて口も聞いてくれないし。

しばらく歩くと、唐突に、本当に唐突に細い砂利道に出て、道の端までそろそろと歩くと美しい棚田が広がっていました。やったーーー、着いたよ!と叫ぶ私が右方向に目をやると小さな掘っ建て小屋でお土産やお菓子を売っている男性が驚いた顔でこちらを見ています。

そんなところを登ってきたの?

コーラを2本買う私を不思議そうに見つめ、ちゃんと道があるのになぜそんな山の中を突っ切ってきたの?と咎める様に聞きました。

コーラは1本3ドル。街で買う値段の6−7倍ですがこんな道を歩いて持ってくるものの価値は跳ね上がるでしょうからいいのです。もし私が担いでいたら一本10ドルで売りたいほどです。貧乏旅行でしたが喜んで6ドル払いました。

その集落にある宿はほぼ頂上にある一軒だけで宿泊料はひとり1ドル。ご飯も一人1ドル。部屋には窓がありましたが窓ガラスはなく、鍵もなく、木の板にペラペラのシーツがかぶせてあるだけのベッドでした。宿泊客は私たち二人だけ。

夕飯前に部屋の前から棚田を見ると小さい子供や豚の親子、鶏や天秤を担いだおじさんが幅20cmほどの畔を行き来しています。こんなにがやがやと賑やかな集落なのに田んぼが見えてくるまでは無音だったのが不思議でした。

山の向こうに沈む美しい夕日を見ながら、イェンスと
道に迷ったままこの夕日を見ることにならずに良かったね
と笑いあい、シンプルな1ドルの夕食を食べ、あとは電気も通っていない集落の夜が更けていくのを静かに見守るだけでした。音楽も人の声も無く、虫の声さえない静かな夜。
どうしても体を洗いたくてお願いしたお湯は大鍋いっぱいで3ドルでした。ガスも水道もない宿のお姉ちゃんが薪のかまどで用意してくれたお湯をばっしゃんばっしゃん浴びたい気分でしたが、お湯が貴重であるのと周りに音がないために、ちょろちょろと背中を流すだけにしました。

ベランダというにはおこがましい廊下に二人で並んで座ると頭上には星がひしめく様に輝き、文明が始まってもう何千年も経つのに、まだこんなに素晴らしく何もない土地があることに感動しました。

薄いシーツの下に潜って目を閉じてから

さっきは山の中で怒鳴ってごめんね、と小さな声でイェンスに謝ると、彼はふふふと笑って

あの冒険があったから今日のご飯は美味しかったし、星も一段と綺麗だし、お湯もあったかかったよね、良かったよね、近道して、と細く囁きました。

何か言いたい私でしたが、静けさを壊したくなくて

いや、迷わずに来れてもご飯は美味しくて、星も綺麗で、お湯も暖かかったよ、迷わん方が良かった。イェンス、呑気過ぎや。お前のせいで死ぬかもしれんかった、アホ。大体お前が物事を進めるとロクなことにならん、これから何事でも決定権は私が持つわ!

と心の中だけで大きな声で悪態をついていました。そんな棚田の夜。


シマフィー

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