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教育の多様化を怠った教師が変えたもの

現在、教育の場で必須とされ新人もベテランもワークショップに参加したりして磨こうとしているスキルは differentiation (ディファレンシエィション)だと思う。(*アメリカの私立校で教師をしています)

生徒の能力や知識に合わせて授業で使う読み物、教え方、タスクの種類、宿題、達成せねばならないゴールの形や程度、などを変えることだ。

本当は個人に合わせて変える方がいいのだろうが、沢山の生徒がいる教室では大抵が小さなグループごとに分かれて違うタスクに取り組んだり、読む力のレベルに合わせて違う記事を読んだりすることが主だ。
プロジェクトやテストなどのレッスンの理解や応用力を測る時も何種類かを作り、生徒にあった評価方を取る。皆が同じ4択や小論文のテストを受けなくてもいい。

従来、中・高校の授業ではクラス全員が同じ教科書を使い、同じ宿題をし、同じテストを受けていた。みんなが同じものを与えられるのが “公平” だと考えられていたからだ。
だけど同じものを使い、同じ物差しで評価をすると、ついていけずに落ちこぼれる生徒も、簡単な授業が退屈すぎて集中を欠く生徒も出てくる。
スタンダードな資料と内容で授業をすると、それに合わせるため・慣れるため、せっかく持っていた興味、スキルや能力を伸ばすことがないままにいわゆる “普通の” 生徒に育つこともある。

能力を上下で表すのは好きではないが、私は授業で読むタスクを準備する時、上・中・下の3種類のプランを立てることにしている(私の学校では教科書を使いません)。
読解力が学年以上・学年相当・学年以下(もしくはESLの留学生)に分けて、同じ内容だがその難易度(文字数、語彙や表現が変わる)を変えた記事を用意し、質問の内容や形式を変える。

この一つの例だけでも 準備する時間と労力が3倍かかることがわかるが、読む以外にもたくさんタスクはあるし、生徒たちの得意・不得意も変わるので教師にとって differentiation はちょっと恐怖でもある。とにかく時間がかかる。

Differentiationは生徒を知り尽くしていないと出来ない。一人一人の学習能力や語彙力、興味や家庭でのサポート、そんなバックグラウンドを“知りたい”と思い、知ろうと努力する先生だけがちゃんとしたdifferentiationが出来るようになる。
ワークショップなどで様々なdifferentiationの方法を習うことが出来るが、果たしてそれをどの子供にどう使うか、もしくはどう応用するかなどは教師の技量と努力と熱量にかかっている。そしてそんな熱心な先生は残念ながら多くない。

生徒の能力は全く無視して、年齢だけを基準に従来通りの授業をする先生も多い。
そんな先生の大半は “11年生になってこんな本も読めないなんて” とか “このレベルの文章が書けないならこのクラスをとってはいけない” やら “ESLの生徒にはこのクラスは難しい”やら、生徒のせいにして自分の教師としての努力不足とスキル不足を隠そうとする。

左耳が聞こえない生徒がいた。ベトナムからの留学生で毎日の授業は大変だ。
ナットは一番前に座り右耳を私の方に向けて熱心にノートを取っていたが書き取れる量は聴力と語学力のせいで、他の生徒の半分ほどだった。

私は当時9年生の科学を教えており、その週の実験の手順や読み物は前もって彼に渡し、出来るだけ準備をして授業に参加できるようにしていた。それも一つのdifferentiationだ。アメリカ人の生徒たちは実験の手順にある単語でつまずくことはないけれど、ナットには日常に出てこない特殊な単語なので、辞書を引いたり映像を見たりして準備をしてから本番にむかう。テストの時はあらかじめ論文形式の質問に必要な単語を抜き出して、それを使っても良い、というルールにした。

他の生徒たちは “ずるいな、ナットだけ単語のリストを使っても良いなんて” とは言わない。彼らもいろんな形でのdifferentiationを受けているので、贔屓だ!なんて怒ったりしない。
彼の科学の成績はとても良かった。理解せねばならないことはちゃんと理解できていた。“動物が好きだから大学で生物学を専攻したい”と笑った。

10年生に上がり、二学期の半ばになってから10年生の科学担当が私のオフィスにやってきて尋ねた。

ナットは9年生の成績が良かったようだけど、カンニングでもしてたの?
彼、授業中は全く聞いていないし、ちゃんとノートも取れない、テスト問題を読むのにも時間がかかる。これでは10年生はパス出来ないよ。

驚いた私が耳のことや単語の事、事前に資料を渡せばしっかり予習できる事、科学が好きな事、などを話すと彼はこう言った。

シマ先生は甘やかしすぎだ。それじゃ生徒の為にならない。彼だってみんなと同じことをしたら自分は能力が劣っていることが理解できる、現実を見ることが出来るだろう。片耳が聞こえないのは言い訳にはならない。

私はdifferentiationのメリットをたくさん説明したが、その先生は興味を示さなかった。

ナットは放課後の補習を毎日受け、10年生を好成績で終えた。
でも残念ながら大学で生物学を学ぶという目標は変更した。
理由は “もう科学は面白くなくなった”  だった。

あの先生が変えたのは、自分の知識や技術、立ち位置や教育理念ではなく、ナットの将来だった。
そしてその責任の重みを感じることもなく、2年後には “もっと賢い生徒を教えたい” と違う学校へ移った。

ナット本人は彼のことなど忘れているかもしれないが、私は今でも怠慢で傲慢なその先生を恨めしく思い出す。

シマフィー

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