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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”…
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#エッセイ

クソジジィから愛

何年か前の10月某日。 まだ午後の授業が終わらないうちに仲の良い同僚から、 ”シマへのお届けものがメールルームに来てたから車の上に置いておくよ” とメールが届いた。(*アメリカ東で教師をしています) 注文していた本か実験の道具か、それとも生徒からの手紙か、なんだろうと思いながら駐車場に向かうと、遠くからも私の車のボンネットに置かれた大きな長い箱が見えた。 開けてみると色とりどりの薔薇の花束が入っている。 9年目の結婚記念日だった。 私はすっかり忘れていた・・・というより

バブルな都会の名無し

私が東京の女子大に進学したときにはもうバブルは弾けていたのだろうと思う。 が、そこを去るまでの短い間に経験したいろいろなことはまさに”バブリー”なものが多かった。 田舎から上京した私は女子大生専用マンションのようなところに入居した。10余りある部屋には田舎者の私でも知っている超有名女子大に通っているお嬢様が住んでいる。私はお嬢様ではなかったがお嬢様のふりをしてそこに暮らしていた。 そこで初めて両親を”お父様、お母様” と本当に呼ぶ人間が存在することを知り、”ごきげんよう”の

記憶の中のギタリスト

現在進行形でとあるギタリストに夢中な私だが(夫ではない笑)、コロラドで大学院に通っていた時のボーイフレンドもプロのギタリストだった。(*現在はアメリカ東に在住です) といっても彼はクラッシックギターが専門で、市のオーケストラとコンサートホールで演奏することもあれば路上やカフェでなどでもよく弾いていた人だった。 初めて会った時も彼は自宅アパートの外階段で上半身裸で長い巻毛がギターに被さるほど頭を下げ、美しくギターを弾いていた。 もう20年会っていないが、時々彼のギターが聴きた

オンボロ車は行くよ

アメリカに来て衝撃的だったのはオンボロ車が普通に公道を走っていることだった。(*現在はアメリカ東に在住です) ボディに傷や凹み、窓ガラスに大きなヒビ、塗装がハゲていたりトランクが閉まらずバンジーコードで留めてあったり、給油口がガムテープで塞いであったりしている。そんな車が降り立ったロスアンジェルス空港からサンディエゴまでの片側3車線、4車線もあるハイウェイにうじゃうじゃ走っていた。 日本で綺麗に洗車されて整備され、中も外側も手入れをしてある車しか見たことがなかった私は本当

チキンサンドにやられた

私はお腹が緩くなることがほとんどない。なので、賞味期限が何年も(笑)切れているものでも開けて匂いを嗅いで、大丈夫かな〜と思えば食べてしまう。夫はすぐお腹が緩くなるタイプで、スパイスがたくさん入ったものは食べないし、なんならインド料理の話題が出ただけでお腹ゴロゴロになるほど香辛料が利いたものが苦手なので、ちょっと期限が切れたものでも躊躇する。(*アメリカ東に在住です) 滅多なことでは腹痛にならず、何かに当たったりしたこともない私は、旅行先でもわりと平気で道端でものを食べていた

パンツ履くの忘れた

ちんまい布一枚なのに履いてないと履いているのとでは心の持ちようが大きく変わってしまうパンツ。パンツがあるとないとでは行動も思考も変わるものだと体験から学んだ。 コロラドの大学でスピーチの授業を教えていたある日、授業が始まる前に落としたチョークを拾おうとして屈んだ。その時に なんかちょっとすーすーするな と思ったのだが、生徒が続々と入ってきたので時間通りに講義を始めた。 私は講義中に教壇にじっと立っていることはない。右に左に前に後ろにとうろうろと歩き回るうちに、大切なことを

”タオル”って何て言うんだろう

スペインのセビリアにある小さなアパートにやっと辿り着いた時はもうすでに夕方だった。 中国を出て、次はどこに行こうかな、と考えた時になぜだかスペインに決めてしまい職を見つけたのがセビリアだったのだが、引っ越しのバタバタとビザやらなんやらの手続きでなんの下調べも準備もせずにスペインにやってきた。 その時のお話はここから↓ 必要なものは現地で揃えればいいや、と軽い気持ちだったのだが、1月のセビリアは私が思い描いていたような”南国の”冬ではなく(なぜだか鹿児島みたいな気候だろう

敦煌:鍋の中

21世紀の幕開け、2001年へ年が明けるその時、私は敦煌にいた。 1年間という約束で、アメリカから中国へ一緒に行った彼は上海で働いており、田舎に派遣された私とはひと月に一度くらいしか会えず、寂しかった私はその彼が敦煌の中学校に3ヶ月ほど出向くということになった時に、敦煌まで訪ねて行った。 大学時代に歴史の授業を沢山とったけれど、ほぼ全てがアジア以外の歴史で、中国史といえば毛沢東あたりからのことしか知らない私も、西安には兵馬俑があり敦煌はシルクロードの分かれ道くらいは知って

世界の始まり、海のある小さな町

宮崎県の青島 ここに住んだのは人生の最初の何年かだけだけど、自宅の周りの風景も学校までの道のりも、ピアノ教室やお寺の幼稚園までの風景もよく覚えている。 不思議なものでこの町を引っ越して、その後高校卒業まで暮らした海から遠い町のことはところどころしか思い出せない。 小さい頃に見たものや食べたもの、経験や感情などは”人生で初”のものだからだろうか、私の記憶の中の青島はとても鮮明だ。その後に似たような経験をしてもそれが何度目かであり繰り返したものであるので強い印象がないのだろ

顔で選ばれなかった恋

私は綺麗な顔をした男性が好きだ。綺麗と言うのは人それぞれだと思うので、自分のラインでの綺麗をここに宣言すると・・・ 輪郭や鼻の線がはっきり直線でカクカクしている鋭角的なひと 清潔で長くてサラサラ・ふわふわ・もしくはくるくるの髪の毛が顔にふんわりかかるひと まつ毛が長くてバッサバサのひと やや顔色が悪く寂しそうな、物憂げな表情も様になるひと 口元がキリッと引き締まってて、笑うと歯並びが綺麗なひと どの人種の男性でもこんなタイプに惹かれる。これは多分過去の刷り込みによ

かわいいの基準

東京の女子大に通っていた時のこと。自由が丘のとあるショップのオリジナルトレーナーがクラスで流行ったことがあった。動物の名前とイラストを頭文字でアルファベット順に色々作ってあるものだった。KはカンガルーとかBはベアーとかそんなん。 週末にクラスの友人に誘われてショップに行き、それぞれが気に入った動物のトレーナーを買った。割といい値段がしたような記憶だけれど、友人とお揃いというのも楽しいしクラスのみんなも買うようなことを言っていたからちょっとウキウキしていた。 月曜日の授業に

謎の写真いろいろ:もう忘れたあの場所

私が初めてデジタルカメラを手にしたのは1999年の初め頃だった。コロラドで知り合った当時の彼が持っていたのがSONYが出していたデジタルカメラだったのだが、もちろんSDカードもまだなくて、内蔵メモリ分しか写真を撮れないので毎日写真を撮っては家に帰りパソコンに繋いでダウンロードせねばならなかった。画質も荒く素晴らしい写真は撮れなかったが、”ハイテクやなーーー”と感動したのを覚えている。*SONYのHPに写真がありました↓ 自分で買ったのはもっともっと後で、多分2003年か20

夜中のテレビっ子

私は大体が夜10時を回ってから俄然やる気と元気が出てくる、典型的な Night Owl (ナイトアウル、夜型人間)だ。日本でもそうだったが、アメリカの大学生時代も夜もいよいよ本番になってから、課題に取り掛かったり図書館に出向いたりしていた(大学の図書館は24時間オープンでした)。 当時のことはこちらでも書いてます。 私がアメリカに来たばかりの90年代初めはまだネットも普及しておらず、emailはあったものの学校とのやりとりくらいにしか使っていなかった(そして初めてemai

盗人エイミー

エイミーは出会った時から嫌な感じだった。人当たりも良く、いつも笑顔で、面倒見が良いという周りの評価は知っていたがなんとなく”胡散臭い”感じがして好きではなかった。本能というか、勘というか、経験からくる警報が鳴ったというか、可愛らしい笑顔でも、胡散臭い感じがした。 コロラドの大学に通っていた時に、ボーイフレンドを介して出会ったのだが、最初に会った時から彼女が彼を狙っていたのがわかっていた。あからさまな態度や言葉には出していなかったが、私は知っていた。まぁそれも女の勘だったわけ