見出し画像

パラフィン紙のカバー

最近毎日のように聖職者と言われる職業の人間が
犯罪で捕まったという報道を目にします。
2014年に事務所のサイトで書いた古いブログですが
ちょっとアップしたくなりました。


 今年の春先にふらっと入った古本屋で藤原新也の「たとえ明日世界が滅びようとも」が目に止まって購入し先日やっと読み終えた。3.11に関する文章が多かったせいかもしれないが今まで読んだ彼の本の中では最も濃厚な読後感だった。 

 短かめのエッセイが多い藤原氏の本は毎回興味深い内容なのだが、読みやすいので今までは短期間に一気に読んでしまうことが多く、しかし読み終わってみると一体何を読んだのか記憶が曖昧になることがあった。今回は2~3話読んではやめて時間をかけて読んでみた。理由は今回の本の内容のせいあるが、購入した本が帯もそのままにパラフィン紙で丁寧で包んであったこともあった。

 アマゾンで簡単に本が買えたり、どっちが付録だかわからないような雑誌が反乱する時代に、たかがパラフィン紙のカバーが妙にうれしく感じた。アマゾンから送られてくる段ボールの梱包を解き接着剤で雑に貼り付けられたビニールパックの本を剥がす時に感じる寒々しさとは真逆な感じだ。

 本屋が生き残るのは大変だとは思うが、このパラフィン紙は僕にとったらどんな販促物よりも効果があった。その包み方の丁寧さにその本屋の主人の人格が滲み出ているようでそれも一緒に購入した気分とでも言うのか。本にカバーを付けるのは嫌いだが今回はそのまま読み始めた。そしてパラフィン紙が一気にではなくゆっくり読めと言ってるように感じた。パラフィン紙を通して店主が間接的に言っているのかもしれないが。

 アマゾンは確かに便利だが、小さな古本屋でこんな風に本との出会いがあることにあらためて実店舗の誠意を感じた。

 読み始めて「痛みの記憶」でめずらしく涙がこみ上げてきた。氏の中学時代の先生で、気弱で地味で真面目な古沢先生の話だった。ある日、ワルだった藤原氏が堂々とカンニングをしているところを先生が見つけピンタした。その時、古沢先生の目には涙が浮かんでいた。生徒をピンタしたことがなかった古沢先生の唯一のピンタを受けた藤原氏の痛みの記憶。同窓会でその古沢先生が既に亡くなっていたことを友人から聞くと同時に、彼の本棚には藤原氏の本がずらっと並んでいたいたということを聞く。
切なくも、心に沁みる話だった。

 今年の春、入学式で先生が自分の子供の入学式を理由に勤務先の学校の入学式を欠席したという話を何かで知って飽きれたが、どんな先生よりも古沢先生のような人こそ「先生」であるとあらためて思った。否、先生である以前にひとりのまっとうな人間であると。

 そして生真面目なパラフィン紙のカバーと古沢先生がシンクロしたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?