「よくやった、自愛せよ」 その言葉は答案用紙の左隅に赤いペンで書かれていた。それは高校三年生の最後の国語のテストだった。内容はその先生にしてはめずらしく漢字の読み書きだった。僕は97点をとった。漢字のテストで97点をとったぐらいで先生がわざわざ一筆書いてくれることは普通はないことだが、それには理由があった。 その前の年の夏休みのある日、僕は予備校の夏季講習に原付バイクで向かっていた。ちょっと急いでいた。渋滞する車の脇を走り抜けようとしたら、ガソリンスタンドに入るために
テーマを決めて写真を撮り始めると すぐにタイトルを付けたくなる。 しかし結局はタイトル負けして 続かないケースが多いのだけれど。 電線のある風景を撮っていると 「~と電線」というタイトルを 付けてみたくなった。 例えば、「月と電線」「雲と電線」 「カラスと電線」「桜と電線」とか。 「ストッキングと伝線」は好きだけど ちょっと違うかな…。 「脚と電線」も違和感のある組み合わせで なかなか気に入ってはいるが、 一体どうやって撮るのか…。 撮る前からタイトル負けしている。
大学の時の写真部の顧問が大学の近所のカメラ屋のオヤジで 写真部の写真展に来て寸評を言うのだが 風景を撮った写真を見て 「この電線はなかった方が良かったな~」などと言う。 僕たちは何言ってるんだおっさんと言う感じで聞き流していた。 そこにあるのだからしょうがないだろう、現実なんだから。 というのが僕たちの考えだったと思う。 しかし、カンパしてくれるので聞いているふりはしていた。 最近「天と地」という大げさなタイトルを設けて 空や地面を撮っているが、街中で空を撮ると大抵は 張り
雑誌Oyazineを送るとお礼のメールや手紙を いただくことがあります。 僕より年配だとスマホやパソコンを使わない方もいて (当然SNSもやっていない) そういう方からは手書きのお礼状をいただくことがあります。 僕は仕事でパソコンを使うようになってから 当然のように文章の手書きは減り、 さらに手書きの手紙はここ何年も書いたことがありません。 手紙はパソコンで書いて出力しています。 手書きは強いて言えば、 年賀状に添えるあいさつ文ぐらいでした。 いただいた手書きの手紙を拝見し
フリーのカメラマンになって1年目の暑中見舞い。 カメラマンになったら自分の作品も撮ろうと決めていました。 被写体は脚でしたが、スマートな脚ではなく 日本人特有の肉感的な脚を撮りたいと思っていました。 作品として最初に撮った脚の写真と 陶芸用の土の写真を組み合わせて暑中見舞いを作りました。 まだまだ(今でも)外人の細くて長い脚が良いとされていたので 面白いと言ってくれる人もいましたが なんでこんな脚がいいの、と馬鹿にもされました。 でも仕事じゃない自分の好きな写真を撮りた
2017年 自分で発行している雑誌 Oyazine vol.4から 最近雨が降ると事務所の窓から階下の歩道を行き交う人達を撮る。と言ってもみんな傘をさしているから顔や体はちゃんとは見えない。雨の中を移動していく様々な傘の動きに惹かれて撮り始めたのだが…。 足早に歩く男傘、スマホを見ながら歩く女傘、ランチ時は色とりどりの傘が重なり合って移動していくOL傘など、傘の下にいる人によって様々な動きをする。大小の傘が付かず離れず移動していく親子傘などは微笑ましい。宅急便
大学時代は写真部に入っていたので、卒業アルバムの撮影のアルバイトでをやっていた。 ある日、社交ダンス部のスナップ撮影の依頼があって行くことになった。部室は練習場になっていて、その時たまたま練習していた女の娘の脚に一目惚れ、写真はその時にドキドキしながらシャッターを切った1枚だ。社交ダンス部の女の娘はミニスカートで練習していることが多かったが、その中でも彼女のやや肉付きのいい脚が僕の好みだった。女の娘の顔は忘れてしまったが、ハイヒールを履いて踊るその脚は僕の瞼に焼き付
岩手の大学を中退し、実家のそばにあった横浜の美術学校に通いながら、写真雑誌の編集を手伝っていた頃に撮った写真。岩手は特に冬は路面が根雪で覆われるからパンプスを履いた女性はほとんど見かけなかった。編集の仕事でたまに東京に出ると、パンプスを履いた女性が多くて、さすがに東京の女性は垢抜けていると思った。被写体は80年代前半、大手町で出会ったランチタイムに信号待ちをするOL達。 勿論フィルムでの撮影で、自分で現像してプリントした。ピントも露出もマニュアルで、しかもノーファイ
以前、東京杉並の自宅周辺を散歩しながら撮影した「道路標示」をコラージュした写真。「カスレ」具合もそれぞれで、これはなかなかデザインとして面白い。錆と同様にこういう無作為な「カスレ」も好きだ。 この「カスレ」は道路上の小石や空き缶などのゴミと、車やバイク、自転車などのタイヤ、そして人間の靴との共同作業の結果で出来たものだ。犬や猫の爪が作った痕跡もわずかだがあるかもしれない。脚フェチとしたらピンヒールの先端が削った「カスレ」もあるはずだと思いたい。本来の目的からは「カスレ」
大江戸骨董市で若い女性が出品していた手袋。道端に落ちていればきっとゴミにしか見えないだろう。しかし、彼女はそれを板の上にきちんと並べて商品として売っていた。そのくたびれ方から想像すると、どこかの町工場で職人が溶接などで使っていたものだろうか。使い込んで油が染み込み、焦げたり破れたりした「やれ具合」に惹かれて購入した。きっと彼女も「そこ」を買ってもらいたいのだと思った。道具としての役割を全うした手袋は、撮影用の白い紙の上に置かれた途端に、それは手袋から職人の生真面目な人生を
最近毎日のように聖職者と言われる職業の人間が 犯罪で捕まったという報道を目にします。 2014年に事務所のサイトで書いた古いブログですが ちょっとアップしたくなりました。 今年の春先にふらっと入った古本屋で藤原新也の「たとえ明日世界が滅びようとも」が目に止まって購入し先日やっと読み終えた。3.11に関する文章が多かったせいかもしれないが今まで読んだ彼の本の中では最も濃厚な読後感だった。 短かめのエッセイが多い藤原氏の本は毎回興味深い内容なのだが、読みやすいので今まで
満開の花は美しい。それは短い生の頂点であり、その一瞬を越えると花は一気に死に向かう。その儚さが人を惹きつける理由でもある。しかし、死に向かう過程で見せる花の姿もまた美しい。満開の花が正の美とするならば、朽ちていく花の姿には負の美がある。多くの椿は満開を過ぎると花びらを散らさず萼(がく)だけ枝に残して花ごと落下する。落ちた椿は春の雨に打たれながら地面で咲き続け、やがて朽ちて土に還る。その姿は人の目には残酷に写るけれど、それゆえに椿は他の花とは異なる儚さを感じさせる。