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【長編小説】闇袋 第1章

あらすじ
渋谷で雑誌向けの撮影をしていた椎名しいな武生たけおは、写した写真の中に、カメラを見て笑みを浮かべている女に気づく。よく見ると、その女はカメラではなく、椎名を見て丶丶丶丶丶笑っているようだった。
翌日、その女を探し出して問いただしてみると、女は「知り合いの人に似ていただけだ」と言い張る。その女、北川奈乃なのは、数年前から人の心が読める能力を身につけていた。その能力のせいで、彼女は思いもよらない騒動に巻き込まれていく。

 第1章

  
 
 ――2008年9月

 椎名武生しいなたけおは、就職情報誌の編集者から、〝孤独〟をテーマにした写真を依頼されていた。都会の中の孤独を特集することで、十月になろうとしているのに就職活動の動きのにぶい学生や、いつまでも夢にすがりついて離れようとしないフリーターの就職意欲をあおろうという企画だ。
 当然ながら、編集者もそれで就職活動が劇的に活性化するとは思っていない。あくまでもクライアントをとるための企画だ。それは編集長もわかっているし、クライアントもわかっているし、購読者もわかっている。そういったことすべて購読者にバレている丶丶丶丶丶ということもわかっている。みんなわかった上での特集なのだ。
 一見バカげているように見えるが、それを非難したところで返ってくる言葉は決まっている。

「だから何?」

 彼はその情報誌と契約しているわけではなかったが、期待するものを過不足なく撮ってくる安心感からか、仕事の依頼はよくあった。
 雑誌に、とくに時間との競争になる週刊誌の仕事に、人とは違った視点の写真を求められることは少ない。時間がないのにホームランか三振かなんて賭けはできないのだ。
 ヒットでいい。それも適時打タイムリーを確実に打ってくれる選手。いわゆるプロだ。アーティストじゃない。それがカメラマンである椎名武生に求められているもののすべてだった。

 彼は今朝撮影してきた〝都会の孤独〟のポジフィルムを、ライトビュアーにのせて確認していた。まだ午後四時過ぎだったが、遮光カーテンを閉めきっているので部屋の中は暗い。そんな中でライトビュアーを点けていると、強い光を放つ夜光虫を熱心に観察している偏執狂のように見えた。
 彼はマウントに入れられたポジフィルムを、一枚一枚ていねいにライトビュアーに載せていく。すでに出版社とはデジタルデータでやり取りするようになっていたので、わざわざポジフィルムにおこす必要はなかったが、彼にとってはそのポジフィルムでの確認作業が、写真を撮る行為よりも好きな工程のひとつだった。
 マンションの前を走るクルマの走行音、ライトビュアーの蛍光灯のチラつき、傷がつかないように慎重に扱うことが要求されるポジフィルム、そして、何よりも好きな、おろしたての白い手袋の匂い――。
 そういったものすべてこみ丶丶で、彼はとても気に入っていたのだ。だから、いくら経済的とか、便利だからといって、デジタルデータで仕事をすますなんて、とても考えられないことだった。

 今回の撮影場所は渋谷――。
 それぞれソフトボールぐらいの孤独をかかえた若者が集まる街だ。よく知られた場所だと購読者が眼をとめやすいという理由で、編集者のウケもよかった。
 撮った写真は全部で六十枚弱。その中から実際使われるのは、多くて五枚程度。採用分のみ、相応の金額が支払われるシステムになっていた。
 写真は定石どおり、渋谷駅前のスクランブル交差点をセンター街側から駅に向けた構図で始まっていた。三脚を低い位置に固定して、人を見上げるような感じで狙った、通称〝ねずみ〟と呼ばれるアングルで撮ったもの。それも定石だ。脳がんでしまうぐらいオリジナリティの欠落した写真の数々――。
 だから彼も、露出を決め、アングルを調整してカメラを固定してしまうと、あとはろくにファインダーをのぞきもせずに、リモートコードを使ってシャッターを押していた。
 信号が変わって、向こう側の人が歩き出したところで一枚。
 真ん中あたりで人が交差するところで一枚。
 こちら側へ人が渡りきったところでもう一枚。
 最初の方こそ、ファインダーをのぞかないまでも、あふれるような人波をみて撮っていたが、三回目ぐらいからはろくに人波も見ずにタイミングだけでシャッターを押していた。
 往々にして、そうした方がいい写真が撮れる。
 昨夜呑み過ぎたせいで胃の状態がじつに不快そうな中年男も、昨日の彼氏の電話の切り方が気にいらなくて、一晩中悶々として一睡もできなかった若い女性の腫れぼったい顔もそのまま写る。荒れた肌ではなく、荒んだ心がごく自然に写ってしまうようだ。じっさい採用されるのも、そのごく自然な、ある意味〝素の人〟が写っている写真の方が多い。
 意識しないで撮った写真が採用されるなんて、プロのカメラマンとしてはあまり褒められたものではなかったが、ファインダーをのぞき込みながら撮ると、人はカメラに気づいてなくても、誰かに見られているような気配丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶を察知して、どこか緊張してしまうのかもしれない、と彼は考えるようにしていた。

 今回撮ってきた写真もそうだった。最初に人波を見ながら撮っていた写真よりも、タイミングのみで撮っていた写真の方がいいでき映えだった。

 携帯をかけながら、自分のツメを熱心にみている女子高生。
 ――今回の企画には使えないが、とっておこう。

 細いスーツを着こなした若者が、ヒゲの剃り残しを探すのに夢中になって、右手でアゴを突き上げながら顔をゆがめて歩いてくる。
 ――自然な表情がなかなかいい。

 紺のパンツをはいた三十半ばぐらいの女性が、黒のショルダーバックに手をおいて、怒ったように歩いてくる。早朝ミーティングで指摘された内容を、頭の中でなんども反芻しているような顔だ。
 ――普段でもあまり見ないリアルな表情。これもOK。

 黄色に紺の格子の派手なジャケットを着た男が、カメラをぼんやりと見ながら歩いてくる。カメラを気にしているわけではないのだろうが、犬のフンでも見ているような視線。
 ――これはボツ。

 じっさい透明人間が撮ったような写真でないと、まず採用は望めない。それに人物が特定されてしまうのも、クレームの対象になりかねないので、不採用の確立が高かった。
 そうして撮ってきた写真をふり分ける作業をしていると、一枚気になる写真があった。
 他の写真と同じように、信号が青になってから歩きはじめた人波が写っていたのだが――その写真は、こちら側から歩き出した女性のふくらはぎが左隅に大きく写っていて、写真としては使い物にならなかったが――、その写真の何かがおかしかった。どこがおかしいのかうまく説明できないが、見ていると落ち着かない気分になる。他の写真にはない異質なもの丶丶丶丶丶をその写真には感じる。
 彼は次のポジも、ライトビュアーに載せてみた。
 おかしいと感じた写真と同じ人波が、スクランブル交差点の中央あたりまで歩いてきている。こちら側から歩いていった人波と交差するところだ。
 それにもなにかが写っているような気がする――。
 確かめてみると、その次のポジにも同じように異質なものを感じ、それ以後の写真にはなにも感じなかった。スクランブル交差点を撮った写真は全部で三十枚近くあったが、そんな感じを受けたものはその三枚だけだった。
 念のために、センター街やスペイン坂で撮った残りの三十数枚も確認してみたが、異質なものが写っているという印象を受けたものは他には一枚もなかった。
 彼は改めてその三枚だけをライトビュアーに並べてみた。
 なにが違うんだろう?
 はっきりとはわからないが、やはりなにかが違う。どこか異質なものが、この写真の中に写っている。確実に――。
 以前にもそんな感覚を感じたことがあった。
 それは〈家族〉をテーマにした仕事の依頼を受けて、井の頭公園へ行って写真を撮ってきた時のことだ。その時にも、いまとおなじ異質なものを感じた写真が一枚あったのだ。
 池の前に置かれたベンチに母親が坐り、その横に置かれたベビーカーには眠った赤ん坊がいる。そんなよくありそうな光景を撮った写真だ。
 池の強い反射光が逆光となり、ベンチに坐る母親も、横に置かれたベビーカーもシルエットになって写っている。その日は日曜日ということもあって、公園は家族連れで賑わっていたが、そんな中で、赤ん坊が寝ているわずかな休息のひとときに、母親がひとりで池の水面をじっと見つめている――。
 少し前に幼いわが子を亡くしていた彼は、そんな光景が妙に気になってシャッターを押したのだ。採用不採用に関係なく、撮る前から気に入る写真になる予感があったが、その写真をライトビュアーにのせて確認している時にも、いまと同じ異質なもの丶丶丶丶丶を感じたのだ。気に入っていた写真だけに、なんども見返してみたが、不思議に〈家族〉というテーマにそぐわないような気がしてならない。
 それは陰鬱な印象を受けてしまいがちなシルエット効果のせいとか、写真の中に父親の姿がないということではなく、なにかがおかしい丶丶丶丶丶丶丶丶という印象がどうしても拭えない。
 そうしてよくよく調べてみると、原因は写真の右隅の方に半身だけ写り込んでいた鳩の屍骸だった。死後ずいぶんと経過しているのか、身体がしぼんでしまって羽根にも精気がなく、ほとんど土と同化するぐらいになっていたが、それが写っていることによって、〈家族〉というテーマにはそぐわないものになっていたのだ。
 彼は迷わずその写真をボツにした。
 じっさい、鳩の死骸が入らないようにトリミングすれば使える写真にはなるだろうが、その異質な〝空気〟を、観る人が察知してしまうような気がした。たとえ鳩の屍骸がまったく写り込んでいなくても、その死が醸しだす〝気配〟を感じてしまう、そんな気がしてならなかったのだ。

 いまも、あの時に似た感覚がある。
 いや、以前よりも強く感じる。
 なんだろう?
 土曜日の朝なのに、地味な背広を着て、どこかの営業へと向かう男たちの姿。そんな中のどこかに何かがある。
 またなにかの死骸でも映り込んでいるのか?
 犬? それとも猫?
 もちろん、そんなものは落ちてはいない。それだったら他の写真にも写っているはずだ。
 人――? 
 人波の中の誰かがおかしいという気がする。
 彼はルーペを取り出して、黙々と歩いている人波の一人ひとりを入念に確認してみた。男も女も女子高生も親子連れの子供もすべて――。
 そうして見つけたのが、ひとりの若い、二十歳を過ぎたぐらいの女性だった。
 ベースボールキャップを目深にかぶっていたから気づかなかったが、人波がカメラに一番近づいてきている三枚目の写真を確認している時に、彼女がカメラよりもちょっと上、つまり、〝俺〟を見ているのに気づいた。カメラのレンズを見ている視線はよく見かけるが、その後ろに坐っているカメラマンを見ていることは少ない。
 だが、改めて一枚目の写真からよく見直してみると、彼女は一枚目の写真からすでに〝俺〟を見ていた。
 一枚目ではネクタイをいじっている男の背後から、二枚目では母親の手に引かれた女の子の横を歩きながら、そして三枚目では歩くにつれて首を曲げてまで〝俺〟を見ていた。
 目じりと口の端だけをわずかに動かして、うっすらとほほ笑んでいるようにさえ見えた。それが笑顔なら、ゾッとする笑顔だ。どうみても親しみを込めたものには感じられない。
 状況を知らないと、なにもない虚空を見つめているような視線――。しかし、そこには〝俺〟がいる。その視線の先に〝俺〟がいるのは、〝俺〟が知っている。

 とりたてて目立つ顔立ちというわけではなかったが、あらためて見ると印象は強い。一度見れば、なかなか頭から離れないパワーがある。彼女であれば、歌舞伎町の派手なネオン街を背景にもってきても、視線は彼女に集まるだろう。そういう強さを持っていた。どんなに美しい娘でも、その強さがないとモデルはつとまらない。
 髪は普通に胸元までの長さ。細身だが、ややふっくらとした印象。色白。服装は黒地に白い花柄のチュニックに細めのブルージーンズという、渋谷ではたいして目立たない輸入雑貨店の店員みたいな服装。
 そんな平凡な容姿に、平凡な恰好をしているのだが、いまではどうして最初に気づかなかったのか不思議なくらいよく目立った。見るたびに迫ってくる強さを感じる。もう周囲の人波が目に入らないぐらいだ。
 でも、なぜだ?
 どうしてこの女は俺を見ているのだろう。
 顔見知りかとも思ったが、見覚えのない顔だった。彼女だったら見覚えがないと感じた場合は、まず会ったことがないと考えて間違いない。忘れるわけがないのだ。どこで会ったのか思い出せないにしても、会ったことを忘れてしまうようなタイプではなかった。

 紅茶はとっくに冷たくなっていた。いつものように香りを楽しむのも忘れて、彼は考え込んでいた。
 しかし、どれだけ考えてみても、なにもわからなかった。
 思い過ごしだとも思えない。ずっと俺を見ていたことも、見ながらうっすらと笑みを浮かべていたことも気に入らないのだ。
 昨日の彼の恰好は、長そでの黒いシャツに薄手のウールジャケット、それにリーバイス。
 若い女性から見ても、笑われる恰好とは思えない。なのになぜだ・・・・。

 人目を気にするとやってられない仕事だが、街で写真を撮っていても、不思議と視線はカメラマンには集まらないものだ。みんな見るときはカメラを見ている。正確にはカメラのレンズを見ている。
 彼らにしてみれば、それが〝目〟なのだろう。正面から写真を撮られたとしても、十秒もすればカメラマンの顔なんて憶えてもいないのだ。
 だから彼は、自分が知らないうちに、知らない女性の被写体になっていることは落ち着かなかった。これまで数え切れないぐらいの人々を被写体にしてきたが、自分が被写体になるのは耐えられなかった。いまこうして自分の部屋にいても、逃げ出したくなる。
 彼は冷めてしまった紅茶を一気にのみ干した。


 

 翌日、椎名は昨日とおなじ場所に坐って、女を待っていた。落ちつかないので、目の前にカメラを三脚に固定して置いていたが、孤独をテーマにした仕事は昨日の分で充分だったので、シャッターを押すつもりはなかった。
 女が写っていた写真の順番から考えて、撮ったのは十時過ぎだろうと彼は推測していた。まだ三十分ある。
 しかし、もう九時前からその場所に坐り、信号が青に変わるたび押し寄せてくる多くの人波から片時も目をそらさなかった。今日は日曜日ということもあって、昨日に増して人出が多かったが、女を探しだすことだけにずっと神経を集中させていた。

 東京に出てきて十四年。フリーのカメラマンとして五年。生活に馴れてよどんでしまうには永くない年月だ。いや、自分の才能を見限るには、といった方がいいかもしれない、と彼は思い直した。
 最近、それを強く思う。自分の才能の限界が見えていなかったからこそ、あんなに突っ走ってしまったのだ。それで失ってしまったものはあまりにも大きい。

 妻と息子――。

 息子は生後八ヶ月のときに他界した。去年の十二月だ。雑誌の大きな企画に夢中になってしまって、息子のことを可愛いと思うヒマもなく突っ走っていた時期だ。
 死因は〈乳幼児突然死症候群〉。
 育児ノイローゼになって、赤ん坊の顔にわざと布団をかぶせて窒息させたのでは・・・・という、妻に向けられた疑惑の目。無言で責めてくる氷のように冷たい空気――。
 まだ『乳幼児突然死症候群』というものが世間的にそれほど認知されていなかったことで妻は苦しんでいた。それでも彼は妻を守ることなく走りつづけていた。自分の才能を開花させるというありもしない夢を追って――。

 息子の死から三週間後、妻がいなくなった。今年の一月のことだ。彼女は実家にも友達の家にも立ち寄っていなかった。誰に相談することもなく消えてしまった。それでも彼はまだ走ることをやめなかったのだ。
 彼女から記入済みの離婚届が送付されてきたのは一週間前のことだ。消印は神戸。彼女には馴じみのないはずの街だったが、だからこそ、その場所を選んだのかもしれない。そんな気がした。
 中には妻の署名と印鑑が捺された離婚届と、薄い便せんに書かれた短い手紙が入っていた。

 お元気ですか?
 突然いなくなってしまってごめんなさい。
 でも、あの時の私にはそうするしかなかったと、
 それはいまでも信じています。
 後悔はしていません。
 それだけでなく、
 あなたと結婚したことも、
 吉生よしおを産んだことも、
 後悔はしていません。
 後悔はすべて吉生を育ててあげられなかったことに尽きます。
 私は今でもそれだけを強く悔いています。
 恐らくそれは生涯続くでしょう。
 ごめんなさい。
 この手紙の意味はわかっていただけますね。
 くれぐれもお身体には気をつけて――。

 あっけないぐらい簡単な手紙だったが、彼女にはそれが精一杯だったのだろう。武生に向けた恨みつらみを何百枚も書いた上で、結局はこの一枚に集約したのだ。そんな気がした。
 それまでひたすら突っ走っていた彼にブレーキをかけたのはこの手紙だった。息子の死も、妻の失踪も歯止めにはならなかったのにもかかわらず、その短い手紙がようやく彼にブレーキをかけたのだ。
 理由は簡単だった。
 その手紙には、高校を出てすぐに上京し、撮影スタジオのアシスタントに就職したのち、雑誌のブツ撮り専門のカメラマンに誘われて弟子入りし、やがて、たいしたあてもなく独立。ほんの少しの才能も持ち合わせてないくせに、一流と錯覚していた男に向けられた、皮膚を剥ぐような現実がまざまざと書かれてあったからだ。

 以来、彼は走ることをやめてしまった。
 オリジナリティーという幻想をて、アーティストという夢想を見限った。そして編集者がのぞむ写真を撮ってくる、いわば便利屋稼業に徹することにしたのだ。
 そうすると、想像以上に楽になった。
 世間への不満を感じることもなくなったし、同業者に対するどろどろした嫉妬もきれいに消え去ってしまった。おのれを知ることで、自分から入りこんでいた小さな箱から開放されたのだ。
 その見返りとして襲ってきたのは、それまでの生活に対するどうしようもない悔悟の念と、けっしてやり直しがきかない無情な現実が目の前に残っているだけだった。

 彼は寝室に、はじめて妻と息子の写真を飾った。
 ようやくひとりでお坐りができるようになってきた息子を前に坐らせて、妻が両手を取ってバンザイをさせている写真だ。それも武生がいないときに、妻がセルフタイマーをつかって写した写真だった。
 カメラマンを亭主に持つ妻が、そんな方法でしか息子の写真が撮れないことに、腹立たしささえ感じた。実際のところ、彼が写した妻と息子の写真が一枚もなかったのだ。産まれたときも、その後の成長過程も、まったく眼中になかった。そう、まさしく突っ走っていたから――。
 そんな話ってあるか?
 彼はその写真を手にとって、声に出してそう言ってみた。
 そんなひどい話ってあるか?
 え?
 そんなむごい仕打ちってあるか?
 なにとち狂ってたんだ、お前は――。

 彼はスクランブル交差点を渡る人波に向けて、とくに意味もなくシャッターを押していた。ニコンF3のシャッター音が好きなのだ。キャノンに比べて冷たい感じがいい。鋭利な刃物で氷を削っているような感じがする。
 それはまさに死と隣りあわせの戦場を削りとるようにして撮ることが似合っていた。こんな渋谷のような光景ではしまりがない。鋭利な刃物でアイスクリームをすくって食べているようなものだ、と武生は人波に目をむけたまま思わず笑ってしまったが、それが今の自分の生活だと思うと、その笑顔もさっと風が吹いたように消えてしまった。

 写真の女が現れたのは、予想していたよりも少し早く、九時五十分過ぎだった。
 写真のときと違って、白いTシャツに黒のジャケットを羽織っていた。今日はちょっと大人びていて、雑貨屋の店員には見えない。どちらかというと、百貨店のジュエリーショップが似合いそうだったが、そんな格好でも、昨日と同じベースボールキャップをかぶっていた。
 武生が女に気づいたときには、すでにスクランブル交差点の中央を横断しているところだった。
 やはり写真のときと同じように、センター街の方向へと渡ってくる。
 実際に近くでみても見覚えのない顔で、女の方はなにも気づいていないようだった。昨日、俺を見て笑っていたことなんて、まったく記憶にないかのようだった。
 武生は急いで三脚をたたみ、それを右手に持ったまま空のカメラバッグを右肩に引っかけて女の後を追った。

 こんな時間なのに、すでにセンター街には人が溢れかえっている。彼は女を見逃さないように、五メートルの距離をあけずについていった。
 なにかとんでもない間違いをしているような気もする。勝手な思い込みで、この挙動不審な行動。そんな考えが思い浮かぶたびに、武生は女の、あの笑顔とはいいきれない表情を思い浮かべた。
 あれは普通じゃない。偶然撮れた一瞬のものでもない。彼はそう自分に言い聞かせていた。
 女はセンター街を抜け、東急ハンズの方向へ向かった。少し人通りが少なくなってきたので、間隔を八メートルぐらいにあけた。
 それにしても、女がどこに向かっているのか興味が湧いた。
 昨日に続いて今日も同じ時間に出勤か?
 土曜、日曜ともにこの時間に出勤してくるなんて、やっぱりどこかの売り場関係だろうか・・・・。
 背の高さは百六十にちょっと届かないようだが、容姿は文句ない。長い脚も、どこか少年を思わせるスレンダーな身体も魅力的だった。個性的な化粧品のモデルなら充分こなせるだろう。
 そこまで考えたところで彼は苦笑した。苦々しい思いだった。そんな素質を見抜いたところで、どうにかなるものでもない。俺にどうにかできるものでもない。そんな力も仕事も、今の俺にはまったくないのだ。
 彼は歩きながら三脚を脇でもって、タバコに火をつけた。かつてはキャメルを二箱吸い、粋がってタバコの投げ捨ても平気でやっていたが、今ではそれがハイライトマイルドになり、小さな灰皿もしっかりと携帯していた。
 そうやって何もかもが社会に適応できるようにならされていく。均一に、少しのでこぼこ丶丶丶丶もないように――。
 実際、俺の場合はそれに気づくのが遅すぎたのかもしれない、と彼はぼんやりと考えながら、八メートル先を足早に歩いていく女の姿を、片ときも目を離さずに追っていった。

 北川奈乃なのは、男の狙いが自分にあることを知って愕然としていた。
 うかつだったのだ。昨日、カメラをかたわらに置いていたあの男は、まったく別の方向を見ていたのに・・・・。
 それに安心して〝さぐり〟をいれたのがいけなかったのだ。

 奈乃は数年前から特別な力をもつようになっていた。
 彼女はその力を〝さぐり〟と呼んでいた。簡単にいえば人の心が読めるのだが、超能力をあつかったアニメみたいに、会話でもするような感覚で人の考えていることが頭の中で聞こえるのではない。
 彼女の場合はもっと不鮮明で、のぞく丶丶丶感覚に近かった。人の心の中から記憶の袋を取りだし、それを開いて中をのぞき見る丶丶丶丶丶ような感じだ。
 そのために、その行為を行ったときには、なんとも言えない罪悪感を感じてしまう。罪悪感そのものはそれほど大きなものではなかったが、こっそりと他人の秘密をのぞき見るという行為が、やはりいつまで経ってもなじめなかったのだ。
 だから彼女も最近はむやみに人の心を〝さぐる〟ことはしていなかったが、昨日、スクランブル交差点にカメラを向けてぼんやりとシャッターを押す男をみて、こんな男はいったいなにを考えているんだろう、とふと思ったに過ぎなかった。そしてすれ違う前に、彼の心の中から袋を取りだし、それを開いてのぞいてみた時には、すでにセンター街へ入るところだった。
 想像もしていなかったが、男の袋の中身は空っぽだった。
 ぼんやりしている人には〈今日は蕎麦気分か? ん? 違うか?〉とか、〈ナニ? あんな服、どこに売ってんの?〉といったそのときの漠然とした思考が入っていることがほとんどだったが、なかには〈手を使わないで耳の後ろが掻けるかどうか・・・・〉なんてじつにくだらないことを本気で考えている人がいたりして――その人の顔を見ると、思いっきり顔を歪めて耳の後ろを掻こうとしていたので思わず笑ってしまったが――、それが面白くて奈乃はその〝ぼんやりしている人の袋をのぞく〟ことが結構気に入っていたのだ。だが彼の場合、そんな面白袋がなかったどころか、袋の中にはなにも入っていなかった。それも珍しいことだ。
 これまでのところ、そんな経験は認知症だった祖父と、高校の教頭先生、それに深夜に母親と乗ったタクシーの運転手ぐらいしかいなかった。さすがにその運転手には奈乃が一所懸命話しかけていたが、それ以外にのぞいた袋が空っぽだった経験はない。

 確かに、〝さぐり〟で手に入れた袋になにも入っていないのは珍しいことではあったが、彼女の場合はそれで終わりのつもりだった。たいして気にとめる問題でもなかったし、もともと男に強く興味があったわけでもなかったからだ。
 しかし今日、昨日とおなじ場所に坐っている男の姿を見て、彼女は嫌な予感がした。それは昨日の自分の行動が怪しまれたという心配ではなく、もしかすると自分と同じような〝さぐり〟の力を持った男なのかもしれない、という不安だった。
 まだそんな能力をもった人物に会ったことはなかったが、つねに彼女はその見えない影に怯えていた。そういった能力を持つ人間の出現を、とても恐れていた。それも他人の心を黙ってのぞいている丶丶丶丶丶丶丶丶丶、という罪悪感からきている。
 見知らぬ男がニヤリと笑いながら、「お前も、見えてんだな」なんて言われることを想像しただけで、黙ってみていた罪悪感と恥ずかしさで身がすくむ思いだ。
 だから奈乃は、男の正体を早く知るためにも、いま横を通り抜ける時に細心の注意をはらって〝さぐり〟を入れてみた。
 男はじっと私を見ている。それは見なくても身体で感じる。歩く私の速度に合わせて、わざわざ首を回しながら目で追っているようだ。
 男がそこにいる目的が自分じゃないと思いたかったが、やはり目的は私のようだ。
 不安で胸がザワザワするのがわかる。
 彼女はいつもより力を強く使って、男から三つの袋を手に入れた。
 センター街に入ったところで、男が三脚をたたんで後ろをつけてくるのがわかった。
 奈乃はあわてて袋を開く。もう地に脚がついていなくて、歩いている感覚もなかった。
 とにかく早く袋を開けるのよ! アイツが何者であれ、話しかけられる前に、少しでも心の準備ができるように――。
 一つ目の袋には、
『お、いたいた。アイツだ。ん? 今日は――』
というのが入っていた。
 今日は、何? 彼女はあわてて二つ目の袋を開けた。
『――のジュエリーショップが似合いそうだな。雑貨屋じゃないのか?』
 奈乃は思わず吹き出しそうになった。雑貨屋だって? 私はそんな風に見えてたの?
 三つ目の袋には、
『・・・・て硬い顔してんだ? 昨日笑ってたのが嘘みたいだな。ま、とにかく後をつけてみっか。なんか、刑事みたいだな、こりゃ――』
 笑ってた?
 私は昨日、笑ってたのだろうか。
 そんなことまったく意識してなかったが、とにかく彼女は安心していた。
 別に害のない男だったのだ。
 昨日撮った写真を見て、私に――それも笑う私に?――興味をもったに過ぎないのだ。
 彼女はホッとしながらも、急いで対策を考えていた。
 このまま後をつけられて、自分の行先を知られるのは嫌だった。かといって、男をまいたりしたら、執拗なストーカーに変身してしまうのも怖かった。
 なんといったって、男は〝謎めいた女〟に弱いのだ。世界のどんな七不思議よりも、たった一人の謎の女の方がずっとお好みなのだ。それは彼女が〝さぐり〟で得た知識だった。
 ほとんどの男が、謎に包まれた女をつねに追い求めているといっても過言ではない。自らわざわざ創りだしているといってもいいくらいだ。どんな平凡な女でも、勝手に謎の女に仕立てあげてしまうのだ。
 デート相手の男にまったく興味がなくて、ぼんやりしているだけでも謎の女。
 男の話が退屈すぎてあくびをかみ殺していても謎の女。
 トイレに立ってから三分経っただけでも、謎、謎、謎・・・・。
 まったくおめでたい生き物というほかない。
 だからこの男に対しても、謎の女になるのは危険だと奈乃は考えていた。少しでも謎の匂いを感じとったらどんなにしつこくなるか、それは〝さぐり〟の力を借りなくても経験でわかっていることだった。
 こういう場合は、あからさまにあけすけな女丶丶丶丶丶丶がいい、と奈乃は思った。まったく陰のないあけっぴろげな女。ちょっと脳が足らないぐらいのチャラい女――。
 男を幻滅させるなんて、そう難しいことではない。
 脚を広げて太ももをボリボリとかきながら、大きなアクビのひとつでもしてやれば、動物園でゾウの巨大なフンでも見せられたような顔をして、泣きながら去っていくに決まっている。
 まあ、何もそこまですることもないだろうが、こちらから先手を打ってあの男から謎の女の幻想を断ち切ってしまうことに越したことはない。
 いま男がどれぐらい私の後ろについてきているのかまではわからなかったが、このままがバレるのはどう考えてもマズい。早く終わらせないと――。
 奈乃はあふれんばかりの、見ようによってはバカに見えるぐらいの満面の笑みをつくって、元気よくふり向いた。

 女が急にふり向いたのをみて、椎名武生は手にもったタバコを危うく落っことすところだった。しかも、とても楽しそうに笑っている。人混みの中でようやく恋人を見つけたみたいに、両手をふって飛び跳ねそうな勢いだ。あの写真の笑顔とはずいぶんと違っていた。
 彼が足を止めて女を見ていると、すこし待ってから女の方から近づいてきた。顔は笑顔のままだ。場違いなぐらいの明るい笑顔だ。その笑顔が俺に向けられているとすれば人違いだろう。そう思った。
 後ろをふり返ってみる。女の笑顔に応える誰かがいないかを探して――。
「違ってたら、ゴメンなさいねー。――私になにかご用なの?」
 女は目の前で立ち止まり、満面の笑みを浮かべながら椎名を見上げていた。とっさのことで声もでない。タバコを吸うのも忘れてただ女を見つめているだけだった。じっさい女が自分に話しかけているのかどうかも、よくわかっていなかった。
「・・・・俺のことを知ってるのか?」
 ようやく武生が反応した。
「まあ、ね」しまった! と奈乃は思った。
 なにを言ってるの! 謎はだめよ、謎は!
 奈乃はあわてて笑顔をつくって、あやふやに返事をごまかした。
 武生はまじまじと女を見つめた。やはり知らない顔だ。絶対見おぼえのない顔だ。 それは間違いない。
「どこで俺を?」
「えーっと。昨日だったかなー。スクランブル交差点で見かけたと思うんだけどぉ」と奈乃はなんとかタメ口を維持した。そっちの方がよりバカっぽい娘に見えるんじゃないかと思ったのだ。本来ならばアニメキャラを演じたかったところだが、そこまで大胆にはできなかった。
 しかし、こうまで背が高いと、どうも苦手よね・・・・、と笑顔で男を見上げたまま、奈乃は考えていた。
 男の身長は優に百八十を超えている。私も女子の中ではけっして低い方ではなかったが、この人を見下ろした感じの威圧感がどうも好きになれなかった。もうそれだけで束縛されているような気分になってしまう。
 あー、早くこの男との話を終わらせたい、と奈乃は心から願っていた。
「いや。それよりも前に、俺を知っていたのかと思って・・・・」
 女はすこし大げさに首をふった。
「ぜーんぜん! あの時がはじめてよ」
「そう・・・・」
 武生は煙をすべて吐き出すぐらいの大きなため息をつくと、タバコを携帯灰皿に押しつけてポケットに入れた。
 こんなことになるとは思ってもいなかったので、武生はどうしたものかと迷っていた。なにかの取材を装ってインタビューをしようか、それとも正直にあの写真に写っていた笑顔について切り出そうか・・・・。
「いまから仕事?」
 そう訊くと、女はおかしそうに笑った。小さな歯がきれいに並んでいるのが見えた。
「まだ学生よ。大学の二年なの」
 ウソよ。でも、見える? そう見える? まだ十七だけど、そう見える?
「学生? この近くに?」
「学校はこの近くじゃないわ。教えないけど・・・・」
「じゃ、用事があったんだ」
「そう、用事があったの」
「これから?」
「そう、これから」
「昨日も?」
「そう、昨日も」
 ねえ、これってバカっぽくない? と奈乃は男に聞いてみたかった。
 オウム返しに質問に応える女なんて、脳みそツルツルのバカ女みたいじゃない?
 それとも、単に扱いやすい女だと思ってしまうだけなのだろうか・・・・。
 それだとまったく意味がない。
 奈乃はどうしたらいいのかまだ判断しかねていた。
「ちょっと時間とれないかな」
 男は申し訳なさそうにいった。
「時間? なんの時間?」
「キミと話をする時間をもらえないかなと思って。もちろんナンパじゃないし、なにかの勧誘でもないから安心してほしい。ほんのちょっと話を聞きたいだけだから――。ダメかな?」
「うーん」
 奈乃は本気で迷っていた。
 なんの話だろう?
 深入りしてはいけないのはわかっているが、ここで拒否してもこの男は納得しないだろう。よけいにしつこくつきまとわれそうな気がする。
 それだったら今、私の謎がこの男の中でたいして大きくなっていない今、すべてを終わらせておくに越したことはないのではないか、と奈乃は考えていた。
 じっさい私にとってこの男が無害なのはわかっているのだ。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ――。
「いいわ」
 奈乃は携帯を取りだして時間を見た。
「十五分ぐらいなら・・・・」
「ありがとう、充分だよ。じゃ、俺の知ってる店でいいかな? 静かなところなんだ」
「任せるわ」
 そう言われて、男は公園通りの方角に向かった。女は斜めうしろに下がって、なにも言わずについてくる。
 最初からこの光景を見ている人がいれば、援助交際の交渉がめでたく成立したように見えるのだろうか、と椎名は想像していた。そう見られてもおかしくないぐらいの年齢差があった。俺が実際の年齢より若く見られ、彼女が少しマセて見えるのを考え合わせたとしても、人は決して似合いのカップルとは見ないだろう。そんなものだ。
「こうしていると、なんか俺って補導員に見えないか?」と言いながら椎名がふり向くと、奈乃はまじまじと彼の顔を見つめてから、ゆっくりと首をふった。
「とても補導員には見えないわ」と笑う。いまにも腕を組んできそうな笑顔だった。
「なんに見える?」
「カメラマン」
 武生は、まだ手にもったままだった三脚を見た。
「じゃ、これを持ってなかったら?」
 女はすこし考え込んだ。
 そして言った。
「刑事」
「うそだろ?」
「ウソ」
 彼はまた吹き出した。
 いったいこの娘はなにを考えているのだろう。
 会ったこともないのに満面の笑顔で近づいてくるし、いま会ったばかりなのに気安く話しているし、話がしたいというだけで簡単についてくるし――。
 カメラを持った奴に悪人はいないとでも思っているのだろうか。それとも、もともと世間に悪人はいないと信じ込んでいるおめでたい奴なのだろうか。
 わからない――。
 理解できない――。
 武生は後ろから誰かつけてこないかと、辺りをうかがってみた。
 それを見てまた女が笑った。
 なんか武生が考えていることを見透かされているような気がして、彼もバツが悪そうに笑った。

 奈乃は焦っていた。男の中で〈謎の女〉が芽生えつつある。どうして男はこうなのだろう。もう腹立たしさを通り越してあきれる思いだった。もっと言葉に気をつけなきゃいけない。でも、しゃべらなければまた謎だ。いったいどうしたものか・・・・。

 ◇

 椎名が選んだ店は、公園通りから小さな路地を入ったところにある『スワン』という名前の古い喫茶店で、外壁は焼きレンガ、窓は白枠という、スイスの高原にあるコテージをイメージしたようなつくりだった。
 ドアを開けると、カランカランと鐘の音がした。
 入って右側の壁沿いに四人掛けのテーブルが二つと、あとはカウンターに五脚のスツールがあるだけの小さな店だった。
 客は誰もいなかった。
 カウンターの一番奥の椅子に五十がらみの女性が腰掛けてテレビを見ていたが、二人を見ると「はい、いらっしゃい」と気だるそうに声をかけて、こめかみを押えながらカウンターのスツールから降りた。
 テレビは点けたままだった。
 テレビでは、元気な男が大きな声で腹の脂肪が落ちる健康器具の説明をしていた。
 椎名は奈乃に、店の一番奥にあるテーブルを勧めた。
「へえー」と店を見回しながら、奈乃が感心していた。
「なに? なにか問題でも?」
「ううん。そうじゃなくて・・・・」
 奈乃は男に顔を近づけて小声で言った。
「渋谷にまだこんな昭和みたいな店が残ってたのね。――昔からよく利用してるの?」
「昔からって、いったい俺のこといくつだと思ってんだ?」
「三十二」
 ピッタリだった。
 椎名はいつもラフな恰好をしていることもあって若く見られることの方が多く、昔から一発で年齢を当てられた経験が一度もなかった。
 女はなにごともなかったようにメニューを開いてのぞき込んでいたが、しばらくして「あっ!」と小さく叫んだ。
「ん? なに? なにか問題でも?」
「え? いえ、なんでもないです」
 危ない、危ない。
 男の中の袋をのぞいといてとぼけるのも難しいものよね、と奈乃は思った。
 もっと慎重に会話をしなくちゃ。
「名前は?」
「よしこ」
「よしこ?」
「そう。前島よしこ。平凡な名前でしょ」
 武生はほほ笑んだだけででとくになにも答えなかった。
 偽名だと疑っているのか? とも思ったが、奈乃はどうでも良かった。この男の疑問が解消されればもう会うこともないだろうし、偽名がとくに問題になるとも思えなかった。
 店主の女が、水をいれたコップおしぼりをテーブルに置いて、すぐにカウンターの中に戻っていった。
 その女性に向かって男がコーヒーを注文する。
 奈乃はレモンティーを注文した。
「キミは紅茶派なの?」
「そういうわけじゃないけど・・・・」
「そう。俺は本当は紅茶派なんだ。前はコーヒーが大好きだったんだけど、年くったのかなぁ。――そういうのって、まだわかんないでしょ」
「そういうのって?」
「年をとったら食の嗜好が変わるっていう感覚」
 奈乃は考えながら首をかしげた。
「だろうね。俺もちっともわかんなかったもん。じゃ、今度は俺の血液型当てられる? チャラいホストみたいな質問で悪いけど、すっごく興味あるんだ」
 ――ABね。
「うーん。O型?」
「ブー。ABだよ。そう見えないだろ」
「そうねぇ」
 奈乃は笑いをこらえていた。
「とてもそうは見えない」
「じゃ、星座は?」
 ――二月十日生まれだから、みずがめ座ね。
「えー、そんなのわかんなーい」
「だいたいでイイからさ」
「おとめ座」
「ブー、みずがめ座」
「そんなのわかるわけ・・・・」
 そこまで言ったところで、奈乃の笑顔が凍りついた。
 この男は、あの忌わしい《《黒い袋》》を隠しもっている。それが見えたのだ。まだ不確かだが、心のずっと奥の方にそれが潜んでいるのがわかる。
 奈乃は息をするのも忘れて、男をじっと見つめていた。
「え? どうしたの? なにか問題でも?」
「――え? いえ。なんでもないです」
 奈乃は小さな声でようやく応えて、コップの水を口に含んだ。
 この男は過去にあった暗い記憶を抱えている。
 私には到底想像もできないなにかを隠し持ってる。
 それはわかる。
 でも一体なに――?

 ◇

 人が持っている袋はさまざまだ。
 さきほどこの男から取りだしたように、新しい記憶とか、とりとめのない夢想の袋は比較的容易に取りだせる。いまの私にとっては、そんな心の表層に浮かんだ袋を取りだす行為なんて簡単なことだ。ひょいと、箱の中からヒヨコをつまみだすような素早さですませることができる。
 難しいのはその奥にひそんだ古い記憶や、けっして他人には見せたくない記憶の袋。
 それはいまでも、目をつむり、意識を集中させた上で、深呼吸を五回するぐらいの時間と、二リットルのペットボトルを唇で持ち上げるぐらいの力を要する。
 その苦労して手に入れた記憶の袋には、想像もつかないものを隠し持っている人が意外に多い。程度の差はあるが、ほとんどの人がなんらかの秘密の袋を持っているといってもいい。
 男の場合はたいていに関するものだが――朝だろうが、真っ昼間だろうが、満員電車の中だろうが、人と話している最中だろうが、常にエロ本まがいのことを考えているから驚きだ――、なかには強暴な感情の袋をいくつも持っている男もいる。
 そんな感情の袋の中で奈乃がいちばん驚いたのは、中学の時に社会を教えていた教師の袋だった。
 その先生はいつも笑顔を絶やしたことがなく、トイレで小便をしている時も笑っていた、と男子生徒が大笑いしていたぐらいだった。
 当然、授業中でも笑顔を欠かさない。まるで笑顔を絶やさないことで教科書にはない明るい社会を体現して見せている、とでもいうようにいつもニコニコしていた。
 しかし、それを学びとる生徒はあまりいなかった。
 ほとんどの生徒が、他の授業ではまじめな生徒までも、うしろの生徒と話し込んだり、あからさまに机に突っ伏して眠ったりと、しだいに増長してやりたい放題になっていった。
 ある日、いつも話し相手になっていたカオリが眠ってしまったこともあって、奈乃は退屈のあまり、その先生に〝さぐり〟をいれてみた。当時はまだ成功する確率も低く、それをするだけでぐったりと疲れてしまうこともあって、あまり実行することもなかったのだ。
 なにしろ、その力に気づいたのも生理がはじまった中一の夏からだったので、それからまだ一年も経っていなかったのだ。赤ん坊がようやくつかまり立ちできるようになった、ぐらいの力に等しい。
 そんな彼女が、その教師の心をちょっとのぞいてみただけで、あっさりと袋を五つも手に入れることができたことに自分でも驚いていた。
 こんなこと初めてだ。
 ベッドの下から千円札が五枚も出てきたような気分だった。
 彼女は口を隠してくすくすと笑った。先生の中には袋がいっぱい詰まっているのね、と言ってやりたかった。
 だが、口笛でも吹きたい気分で開けた袋の中身を見て、彼女は凍りついた。
 とても信じられないことだったが、先生から取り出した袋の中身はすべて、生徒一人ひとりに対して残虐行為を夢想する感情の袋ばかりだったのだ。

 一つ目の袋には、眠っている安藤の(彼は授業がはじまる前からいつも寝ていたので、先生は顔も知らなかったと思うが)、その髪をつかんで、何度もなんども机に頭を叩きつけるシーンが入っていた。
 鼻がつぶれ、歯が抜け落ちてもやめない。安藤は次第に血だらけの物体と化していく――。
 二つ目の袋には、授業中にもかかわらずマニキュアを塗るミカの指先を、ペンチで一本ずつ潰していくシーン。
 彼女は頭をのけぞらせて白目を剥いていた。
 三つ目。
 おしゃべりをやめない大村サトルの口の中に、先生がはき古した健康サンダルのまま足を突っ込むシーン。
「どうだぁ? さっきトイレにいってきたばかりなんだよぉー」と先生が叫ぶ。
 それに対して、
「ぐっぷぷ・・・・」とだけしか応えることができない大村サトルの姿。
 奈乃はまだ持っていた残りの袋を捨てた。
 そんな光景を夢想している男なんていままで見たこともなかったし、第一それは社会・・を教えている先生なのだ。すでにこれまでにもいろんな人たちの心をのぞいてきたことによって人間不信は経験済みのつもりだったが、それはこれまでのと比べてもダイナマイト級だった。
 先生はいつものように、いつもの笑顔で授業を進めていたが、いまはもう紙みたいに薄っぺらな笑顔を顔に貼りつけただけにしか見えなかった。奈乃ははじめて先生の笑顔の本当の意味を知った。
 以来、社会の授業で真剣な表情をかたときも崩さずに話を聞いていたのは奈乃ぐらいのものだったろう。
 おかげで彼女が残虐行為の餌食にされることは一度もなかったはずだ。たとえ夢想にしかすぎないとしても、頭をかち割られるのはあまり気持ちいいものではない。

 しかし、その先生でもまだマシな方なのだというのをずいぶんと後になってから知った。世の中にはとんでもなく暴力的な夢想を抱え込んでいる連中がたくさんいるのだ。
 老若男女に関係なく、すれ違う人をいちいち殴りたおしている男。
 すれ違う男の鼻の穴に箸を突っ込む女。
 そんな狂気じみた夢想をいくつも見てしまうと、じっさいに起った凶悪事件なんて、ほんの氷山の一角のような気がしてくる。
 よくこれで社会の均衡が保たれているものだと感心する。
 もっとも、夢想したものを体内にため込むことができるからこそ、社会の平和は維持されているのかもしれない、と奈乃はそう思うことにしていた。

 だが世の中にはそんな荒んだ夢想の袋よりも、もっと深刻で、おぞましい袋が存在する。心に深い傷を負わせた、けっして思い出したくない暗い記憶の袋。
 奈乃はそれを昔から〈黒い袋〉と呼んでいた。
 それはペンキの黒色みたいな単純な黒ではなく、近くで見るとじつにさまざまな色が混じり合っているが、遠目で見ると黒いという、なんとも不快な色をした袋だった。
 彼女がはじめて黒い袋を見つけたのは――

 ◇

「・・・・ね、聞いてる?」
「え? あ、ごめんなさい。――なんでしたっけ?」
「いや、渋谷にはよく来るのかなと思って」
「そうでもないかな」
 武生はタバコを取り出してから、火を点ける前に奈乃に訊いた。
「いい?」
 奈乃が肯くと、武生はゆっくりとタバコに火を点けた。
「ゴメンね、すぐに済ませるからさ」
 武生は火がついたタバコをくわえながら、ジャケットの内ポケットから奈乃が写っている写真三枚を取り出した。
 昨夜のうちに、自宅のプリンターで、はがきサイズにプリントアウトしておいたのだ。
 写真が大きくなった分、写っている奈乃の様子もよくわかった。
「この写真について訊きたいだけなんだ」
 奈乃は身体をのり出してその写真を見てみた。
 昨日男が撮っていた写真だ。
 そこに自分が写っているのもすぐにわかった。
 奈乃は男を見た。
「で?」
「この時、どうして俺を見てたのかと思ってさ」
 確かに見てる。――でも、返事は慎重に、慎重に、と奈乃。
「別に意識してなかったけど・・・・」
「そう? じゃ、これは?」
 そういいながら、武生は写真をもう一枚だした。
 みると、さっきの写真よりも奈乃がもっとカメラに近づいている写真だった。
 たしかに見ている。
 軽くほほ笑んでもいる。
 奈乃は舌打ちしたい気分だった。
「・・・・そうかしら?」
「ああ、確かに俺を見ている。憶えてないのかい?」
「うーん」
 奈乃はこめかみをさすりながらうなった。
「・・・・うーん」
 武生はなにも言わずに奈乃を見ていた。
「わかったわ。正直に言うけど、あなた、私の知っている人にソックリだったの。彼もカメラマンなんだけど、あなたがあそこで写真を撮っているのを見て、彼を思い出してたの。いま頃なにしてるのかなーって」
「それだけ?」
「それだけよ」
 武生は、タバコのフィルターを強く噛みながら、どうもしっくりこないなぁ、と考えていた。そんな親しげな視線じゃなく、もっとイジワルな、あからさまに人を見下すような目だったのだ。
「その彼って、元彼?」
「ううん。ただの知り合い。どうして? なにか問題でも?」
「プッ」と椎名が吹きだした。「イヤイヤ、そういうわけじゃないんだけど・・・・」
 おそらくそのカメラマンは元彼で、あまりいい別れ方をしなかったのだろう、と椎名。そう考えると、あの視線も、あの笑顔とは言い切れない歪んだ笑顔も、すべて納得いくような気がした。
 武生はタバコをもみ消した。
「なるほどね」と意味深に椎名は笑った。
 男がなんとか納得したように見えたので、奈乃はホッとしてニッコリとほほ笑んだ。
 そうよ。なにも問題なんかないじゃない。
 ――でも、なに? あの黒い袋。ちっとも取れやしない。
 さっきからなんどか椎名の心の中から取りだそうと試みているのだが、表面がブヨブヨしていて、ちっともうまくいかないのだ。空気が半分抜けた風船のような感じだ。
 いまの奈乃は自分が疑われていることよりも、その袋の存在の方がずっと気になっていた。

 ◇

 以前もそんな黒い袋を見たことがあった。
 そう。奈乃がはじめて黒い袋を見つけたのは、中学校の時の女の校長先生だった。
 そのときは人の心の中から袋を取り出したりせずに、気ままに心の中をのぞくだけで済ませていた時期だったが、彼女が校長の心の中をふとのぞいたときに、それまで見たことのなかった黒い袋に気づいた。
 それまでにも校長先生の心の中をなんどかのぞいてみたことがあったが、表面に密集した新しい記憶の袋に邪魔されて、ずっと見えなかったのだ。
 記憶の袋は、新しいものほど透明度が高く、心の表層に漂っている。本人がその記憶を思い返さないとそのまま消えてなくなってしまうが、くり返し思い返すと徐々に白濁化していき、いずれ白い球体になって、心の壁面に整然と収まっていく。ちょうどトウモロコシの実みたいに――。
 校長の心の中はいつのぞいて見ても、新しい記憶の透明な袋でおおわれていた。密集していたといってもいい。それぐらい考えることが多いのか、あらゆることに気を配っているからなのか、漂っている袋の数が普通の人の三倍はあった。
 たまに取り出して見ても、枯れかけた花壇の花をみて『水をやらなくては・・・・』とか、トイレを見て洋式に変更する見積書を思い出すといったとりとめのないものが多くて、校長も大変な仕事だと思ったものだった。

 そんなある日、その日は雨が降っていたために体育館で行われた朝礼で、校長の話が終わり、交通指導部長の長い話が続いていたときだった。
 雨が体育館の屋根を叩く単調な音と、梅雨どきのジメっとした空気の、その暑くもなく、寒くもないどうにも微妙な空気。奈乃も立ったままウトウトしてしまうような時間だった。
 ふと校長をみると、彼女も立ったままウトウトしていた。眼が完全に閉じられることはなかったが、半開きで、身体もゆっくりと前後に揺れていた。
 あの校長までも眠くなってしまうような話を、延々とする交通指導部長の話ってなに? と思うと、奈乃はおかしくて口を押さえながら笑ってしまった。
 そこで、そんな校長先生ってなにを考えているんだろうと思って、心の中をのぞいた時に、黒い袋の存在に気づいたのだ。おそらく、校長も半分眠っていてなにも考えていなかったために、いつも密集している透明な袋が少なかったせいだろうと思った。
「なに? あれ」
「ん? なに?」前にいた佐々木ナオミがふり向いた。「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 奈乃はあわてて口を押さえ、ダメよ、声にだしちゃ! と自分を叱った。
 ――それにしても、なに? いまの。あんなの、はじめて見た。
 奈乃は眼を閉じて、意識を校長の心の中に集中してみた。
 ――ある。確かにある。なんともとらえにくい黒い袋がみえる。
 そうしてもっと意識を集中してよくのぞいてみたとき、奈乃は叫びだしそうになる口をあわてて押えた。
 校長の場合、本来なら白濁して壁に収まっていく記憶の袋が、すべて真っ黒に変色していたのだ。それはもう《《黒い壁》》といってもいい状態だった。
 奈乃は大きく眼を見開いて校長を見る。
 校長はなにも変わりなく、あいかわらず半睡状態で、身体を前後にゆっくりと揺らしている。
 なに?
 どうしたの?
 こんなことってあるの?
 まだ、それほど多くの人の心をのぞいてきたわけではなかったが、そんな色をした袋を見たのははじめてだったし、それも密集した状態であったことに、彼女は目まいがしそうだった。
 奈乃はもう一度意識を集中して、その密集した黒い袋のひとつに、想像の指先で触れてみた。
 ――硬い。
 コールタールが固まってしまったみたいで、岩のようだ。
 ビクともしない。
 そんな中で、たまに表面がやわらかい黒い袋が存在することもわかった。
 なんだかブヨブヨしている。
 何らかの理由で白濁した袋にはなれずに、そのまま腐敗して黒くなってしまったのだろうか・・・・。
 奈乃は朝礼の間中、そのやわらかい黒い袋を取り出そうとなんども挑戦してみたが、うまくいかなかった。表面がブヨブヨで、いまにも破れてしまいそうで、うまくつかむことができないのだ。
 結局その黒い袋は、その日の朝礼の間に取りだすことはできなかった。

 その日以降、校長を見かけるたびに心の中をのぞいてみるのだが、以前のようにとりとめのない透明の袋に邪魔されて、あの黒い壁を確認することすらできないでいた。
 結局、そのまま時間だけが過ぎていき、再度その黒い袋が確認できたのは、それからちょうど一週間後のことだった。
 その日も朝礼で、校長のいつものとりとめのない話が終わり、生徒指導部長が学生に向けた注意事項を話している時だった。
 校長の心を探ってみると、校長は自分の話が終わった直後だったためか、いつもの透明の袋がなくてスッキリしていた。まさに空っぽという表現が近い。自分の役目が終わって放心状態にいるのだろうか。そんな感じだった。
 だから黒い壁はすぐに見つかった。
 奈乃は想像の指先であのやわらかい黒い袋を探す。
 それはそれほど苦労することなく見つかった。
 一週間前のと同じものなのかどうかはわからないが、彼女はその袋に意識を集中してみた。なんだか今回はうまくいきそうな気がする。
 校長を見てみる。別に変化は見られない。身体の前で手を組んで、演壇の足元あたりをぼんやりと眺めている。
 奈乃は、空気が半分抜けた風船をくぼみから剥がすような要領で、四隅を少しずつ持ち上げて土台から外れるようにしていった。
 そうすると、ほんの少しずつだが、土台から外れてくる感触があった。
 一、二、三、四と、頭の中で数をかぞえながら四隅を順番にかるく持ち上げていく。
 一、二、三、四――。
 一、二、三、四――。
 一、二、三、四――。
 そうすると、不意にスッポリと外れた。
 どこかに癒着していたわけではなかったので、面白いぐらいきれいに外れたのだ。奈乃はその外れ方にビックリした。そして、歓声を上げたいぐらいに歓んだ。
 どう? ウマいでしょ! と周囲の友だちに自慢したくて仕方なかったが、もちろん、彼女は黙っていた。
 奈乃はその黒い袋を、左の手の平にのせてみた。
 大きさはピンポン玉ぐらいだ。球体がだらしなく潰れて、鏡餅のような形状になっていた。
 手に入れるのに苦労した分、頬ずりしたいような気分だった。近くでみると、表面は単調な黒ではなく、ある部分に茶色も見えるし、赤色も緑色も見える。そういったさまざまな色が混ざり合った黒、といった感じだった。
 最初はあとでコッソリ開けるつもりだったが、こう生徒指導部長の話が長いと、もう我慢できなくなってきた。もしかすると、ふつうの袋と違って、新鮮な空気に触れると蒸発してしまうのではないか、と心配にもなってきた。
 生徒指導部長は、カバンにつけるアクセサリーについての注意をしている。大きいのはダメだとか、こどもっぽいのは恥ずかしいとか――。いつもの話しだ。
 奈乃は黒い袋をもう一度見つめてみた。あい変らず表面がブヨブヨと揺れている。いったいこれには校長のなにが詰まっているのだろう。それとも、これは記憶じゃないのか? なにかいままで見たこともない、もの凄いモノが入っているのだろうか・・・・。
 もう我慢できない! と奈乃は思った。
 そうして彼女は、左手にのせた黒い袋を、想像の右手でパンッと叩いて潰してみた。その瞬間、彼女は気を失って、その場に倒れこんでしまった。

 ◇

「――で?」
 見ると、男がテーブルに両肘をついて奈乃を見ていた。もうタバコは吸ってなかった。
「は?」
「え? 聞いてなかったの?」
「あ、ごめんなさい。――なんですか?」
「だからモデルだよ、モデル」
「モデル? はい。モデルがなんですか?」
「え?」
 男は身を乗り出すようにして奈乃をみた。
「もしかして、最初っから聞いてなかったの?」
「え? いえ。最初っからって言われても・・・・」
 奈乃はあいまいに首をかしげた。
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたから・・・・」
「いや、まあ、いいけどさ。――で、どう?」
「どうって?」
「モデルやってみない?」
「モデルって、私が?」
「そう。まだ何かってわけじゃないんだけど、なんか仕事が入った時に、声をかけてもいいかなと思って。ま、売れないカメラマンだから、あんまり期待はできないだろうけど――」
 いつの間にか奈乃の前にレモンティーが置かれていた。白いティーポットとカップソーサー、それに輪切りにされたレモンがお皿に二枚のっていた。
「どう?」
 ミルクも砂糖もいれないコーヒーをすすりながら武生が訊いた。
「どうって、モデルのこと?」
 奈乃はティーポットからカップに紅茶を注ぎ、そこへレモンを一切れ入れてから軽くかき混ぜた。
「それはお断りします」
「え? ダメかな」
「うん。ダメ。興味ないし」
「どうして?」
「どうしても」
「じゃ、せめて連絡先だけでも・・・・」
 それが嫌なのよ、と奈乃は言いたかったが、言葉にはせずにただ首をふっただけだった。
「わかった。じゃ、これが俺の連絡先だから、気が向いたら連絡してきてよ」
 男がテーブルに置いた名刺を見てみると、フリーのカメラマンで、名前は椎名武生となっていた。
「ふーん。祐天寺に住んでるんですか?」
「知ってるの?」
「知らないけど・・・・」
「――そう。ま、渋谷から近いし、いいとこだよ」
 武生はそういい残してトイレに立った。
 名刺をひっくり返してみたが白紙だった。
 もう一度、表を見てみる。
 住所はマンションの五階になっていた。
 それにしてもあの男の黒い袋はあまりにもやわ・・だ。ちょっとの刺激でもすぐに破れてしまいそうな気がする。
 どうしたものか、と奈乃は頭を悩ませていた。

 ◇

 そう、あの校長の黒い袋も、ちょうどこんな感じだった。
 あの時、朝礼でとつぜん倒れてしまったあの時、私は保健室で眼を覚ましたのだ。状況を把握するまでにずいぶんと時間がかかってしまったのをいまでも憶えている。
 それでしだいに状況が把握できてきた時、私は思い出したのだ。
 あの校長から取りだした黒い袋をつぶした瞬間に、目の前に広がった光景を――。
 校長の幼い頃の、なんとも不快な記憶の情景を――。
 その時私は理解したのだ。
 黒い袋というのは、本人にとっては不快きわまりない記憶で、二度と思い出したくない心の闇の記憶丶丶丶丶丶丶だったのだ。
 校長の不快な記憶は、こんな感じだった。

 ●

 ジャ、ジャ、ジャと、なにかをこする音が聞こえる。
 どこかの家の台所にいるようだ。
 視線が音がする方向をみる。
 カラフルなプラスチックの玉のれんが見える。
 その先は廊下か?
 視線が音がする方へと移動する。
 ジャ、ジャ、ジャ・・・・。
 カラフルなのれんをくぐる。
 その先はやはり廊下だ。
 その廊下のつきあたりには玄関が見える。
 音がさっきよりも大きく聞こえる。
 右側のドアを見る。
 白い小さな手が、ドアのノブをつかむ。
 ・・・・開く。
 ――トイレだ。
 中には誰もいない。
 ドアを閉めてその奥へと進む。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 音がだんだんと大きくなる。
 視線は先へと進む。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 ガラスがはまったサッシのドアが開いている。
 風呂場のようだ。
 音はそこからしている。
 視線が風呂場をのぞきこむ。
 ――ジャ、ジャ、ジャ。
 女がかがみこんで、
 大きなタワシで
 風呂場の床をみがいている後姿が見えた。
 服のままシャワーを浴びたみたいに
 背中に汗をびっしょりかいていて、
 Tシャツがぴったりと張りついていた。
 そこまで来ても、
 女はふり向かない。
 一所懸命力を込めて、
 風呂場のタイルの床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 視線が声をかけた。
 女はふり向かない。
 一心不乱に床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 もう一度、視線は声をかける。
 女はふり向かない。
 身体を移動させながら、
 大きなタワシで床を磨いている。
 「ママ・・・・」
 「何よっ!」
 女はふり向きもせずに、
 すでに怒っていた。
 そして手の動きを止めずに
 「ママが――、
  何を――、
  しているのか――、
  わからないのっ!」
と息も切れ切れに、非難がましく言った。
 「お風呂場を、お掃除してる」
 「じゃ――、
  話し――、
  かけないでっ!
  もうちょっとだからっ!」
 「――でも、ママ」
 「なによっ!」
 女はタワシを風呂場の床に叩きつけてから、
 立ち上がって幼い校長を睨みつけた。
 母親は頬がこけるほどに痩せていて、
 大きくギラついた目の下に
 薄黒いくま・・ができていた。
 肩で大きく息をしている。
 いまの奈乃から見てもとても怖くて
 悪い夢に出てきそうな形相だった。
 「・・・・だって。
  だって、ママ。
  お風呂のお掃除、
  朝もしてたじゃない」
 「朝もしてたわ!
  だから何!
  まだ汚れてるから、
  磨いてるんでしょ!」
 「だって、ママ、
  昨日もなんども磨いてたし・・・・」
 「そうだよ!
  汚れてるんだから仕方ないでしょうっ!
  まだこれからトイレも!
  床も!
  台所も!
  洗濯も!」
 と泡だらけの指を折りながら、
 ヒステリックに説明する。
 「ママはやらなくちゃいけないことがいっぱいあるの!」
 「でも、でも・・・・」
 校長の眼に涙があふれてくる。
 その時、パンッ! と音がしたかと思うと、
 急に真っ暗になった。
 「泣くんじゃないっ!」
 母親の叫ぶ声だけが聞こえた。
 そうすると、校長は本格的に泣き始めた。
 パンッ!
 「泣くなっ!」
 泣くのを必死にこらえて
 涙目で母親を見上げる。
 「いいかっ!」
 母親は校長を睨みつけながら、
 鼻先にひとさし指を突きつけてきた。
 「そんな文句を言う時間があったら、
  さっさと勉強しなさいっ!
  宿題は済んだのっ!
  明日の用意はできたのっ!」
 視線が首をふった。
 「すぐにかかりなさいっ!」
 そう叫ぶと、
 母親は再びしゃがみこんで、
 風呂場の床磨きを再開した。

 校長の記憶はそこまでだった。
 奈乃はショックを受けていた。
 いつもにこやかな校長に、そんな記憶があったなんて・・・・。
 人の記憶というものは、のぞいてみないと本当にわからないものなのね、と奈乃は改めて考えていた。

 校長が自殺したのは、それから三ヶ月後のことだ。
 自宅の風呂場で、全身をカミソリで傷つけた状態で発見された。
 あまりにも凄惨な現場だったために、当初は変質者による猟奇殺人が疑われたが、どう調べてみても独身の校長の部屋には外部から侵入された形跡がなく、部屋もまったく荒らされていなかったので、結局自殺という判断がくだされた。
 しかし、自分の力だけで、あそこまで肉体を傷つけることができるのか? と警察内でも自殺がずっと疑問視されていると噂になっていた。それほとひどい切り傷だったらしい。

 奈乃は校長の自殺の原因を知っていた。
 校長が自殺する二週間前に、一年生の女子生徒のことで怒鳴り込んできた母親がいて、その時から校長の様子が明らかにおかしくなっていったのだ。
 奈乃は、早速校長の心の中をのぞいてみた。
 すると、以前は密集して黒い壁状態になっていた袋が、その壁から離れて校長の心の中に漂いだしていた。そしてシャボン玉のようにいろんな場所で袋がはじける。そのたびに校長はガクンと身体を震わせていた。

 「すべてはお前が悪いんじゃーっ!」と叫びながら、
 校長の父親らしい男に殴りかかっていく母親。
 「お前がっ!
  お前がっ!
  お前がっ!
  お前がっ!」
 と何度も叫びながら
 ボコボコに殴られても
 されるがままになっている父親――。

 トイレをすませて、
 ドアを開けると母親が立っていて、
 校長を引っ張り出すように外へ出すと、
 すぐにトイレの掃除を荒々しくはじめる――。

 手を洗い過ぎて指先が裂けてしまったのか、
 洗面所が血だらけになっていても
 まだ手を洗っている母親の後姿――。

 平手ではなく、
 コブシで、
 それも本気で顔を殴ろうとしている
 鬼のような母親の形相――。

「ふむむーっ」と、
 校長の首を絞める母親の顔が目の前に迫る。
 でも、
 校長も抵抗する様子もなく、
 覚悟をしているみたいに
 ゆっくりと眼を閉じていく――。

 そんな記憶が、袋がはじけるたびに見えるのだ。見ているだけの奈乃でもおかしくなってしまいそうだった。
 少しでも楽になるならと、校長の心の中で漂う黒い袋を取り出そうと試みてみたがダメだった。すべてがまさしくシャボン玉のようにやわ・・で、触れた瞬間にはじけてしまい、それがまた校長の忌まわしい記憶の再生に拍車をかけることになってしまって、結局奈乃はなす術もなく、ひとり苦しむ校長をただ見守ることしかできないでいた。
 それからまもなく校長が自殺したことで、奈乃はひどく後悔した。そんなことならもっと自分になにかできたのではないかと思った。
 そう。どれだけ大変でも、シャボン玉のようにやわ・・でも、慎重にやれば校長の心の中から黒い袋を外に誘導する事ができたのでは、と・・・・。

 後日、彼女は、体育館で教頭が校長の死を全校生徒に向って報告している時に、壁ぎわに立ってうつむいていた年配の刑事から、まだ真新しい記憶の袋を取り出してみた。
 刑事の記憶の袋は、浴槽にもたれて全裸で床に坐っている血だらけの校長の姿からはじまっていた。
 刑事もよほどショックを受けたのだろう。
 その凝視は二十秒ほどつづき、次にたるんだ腹に眼を向けて、そこにぱっくりと開いた傷口をしばらく見ていた。
 その傷口に向けて刑事がゆっくりと近づいていく。
 一度、床を見る。
 風呂場の床だ。
 大量の血が校長から流れ出ているのがわかる。
 刑事はその中でも汚れていない場所を選んで近づいていく。
 また校長を見る。
 今度はたるんだ乳房をみる。
 そこにもぱっくりと口がひらいた傷口がある。
 見ようによっては
 笑っているような形をしている。
 そこにもっと近づいていく。
 まだ渇いていない傷口に、
 さらに近づいてみる。
 もう五センチぐらいの距離だ。
 そこで止まってしばらく動かない。
 傷口の黄色い脂肪と、
 赤い筋肉をじっと観察している。
 そういう性癖のもち主かと思うほど、
 その見方は執拗だった。

 やがて刑事の視線は傷口を離れ、
 校長の白い肌を見る。
 乳房から上にあがって、脇、肩、首へと、
 これも舐めまわすように見ている。
 そこで奈乃は、刑事の視線の意図するものに気づいた。
 ――体毛が一切ないのだ。
 頭髪はそのままだったが、
 身体中の毛がきれいに、
 それも念入りに剃られていたのだ。
 「おいっ!」
 と刑事が誰かを呼んだところで、
 その記憶の袋は終わっていた。

 奈乃はいまでも考えている。
 私になにかできることはなかったのかと――。

 ◇

 男がトイレから戻ってきて、席についた。そしてコーヒーを飲み干す。
「それじゃ――」と席を立とうとしたのを、奈乃が止めた。
「ごめんなさい。わたしまだ紅茶が残ってる」
「あ、そう――」
 男が席に坐りなおした。
「じゃ、俺もまだいるよ。とくに忙しいわけじゃないし――」
 奈乃はティーポットに残っていた紅茶をすべて自分のカップに注いだ。
 これを飲み干すまでに男から黒い袋を取り出さなければ、と奈乃は考えていた。でないとこの男もまたあの校長の二の舞になりかねないのだ。
 この男がそうなったところでとくに問題があるわけじゃなかったが、あの時よりもはるかに能力が上がっているはずだし、いまならなんとかできることなのかどうかを確認したい、という思いの方が強い。なにしろこの黒い袋をもつ人間に会うのもあの校長以来なのだ。
 彼女は眼を閉じて深呼吸をした。
 そうして気分を落ちつけていき、まわりから男を包み込むようにして袋をさぐる。
 ――ある。確かにある。それに三つも――。
 大きさが多少違うが、黒い色をした袋が男の心の中で漂っているのが見える。
 いま男がどうしているのかわからなかったが、もう構ってはいられなかった。
 時間がないのだ。
 彼女は息をゆっくりと整えていき、男の心の中の黒い袋をそっとつまんだ。
 いいわ。いいわ。そのままそーっと・・・・。
「でもさ、さっき・・・・」と椎名がしゃべるのと同時に、ぱふぅと男の中で黒い袋が割れてしまったのがわかる。
 その途端、奈乃の中で強烈なイメージが広がった。予想もしていなかった強烈なイメージが・・・・。

 ●

 赤ん坊が泣いている。
 火がついたように、
 けたたましく泣いている。
 夜だ。
 男が時計を見る。
 3:32を指している。
 横に寝ている人を見る。
 長い髪だけしか見えないが、
 起きない。
 起きる様子もない。
 あい変らず赤ん坊がけたたましく泣いている。
 男が起き上がり、
 ベッドの縁に腰掛けたようだ。
 しばらくそのままじっとしている。
 眼を閉じているようだ。
 そんな夜とは違う暗闇の中で、
 赤ん坊の泣き声だけが聞こえている。
 男が足元側に置かれたベビーベッドを見る。
 白木の柵のかわいいベビーベッドだ。
 赤ん坊は見えないが、
 シーツが動いているのがわかる。
 月の青白い光が窓から射していて、
 部屋全体が澄んだ湖の底にいるように
 青く光っていた。

 男が立ち上がって、
 ベビーベッドまでゆっくりと歩いて行く。
 床には使い終わって丸められた紙おむつが転がっていた。
 一個や二個じゃない。
 少なくとも二〇個近い紙おむつが
 そのまま床に放置されていた。
 もう一度、
 隣に寝ている人を見る。
 動かない。
 男はシーツをのけて赤ん坊を見る。
 赤ん坊は真っ赤な顔をして泣いている。
 シーツがめくられたのも気づかないようだ。
 きつく眼を閉じて、
 大きく口を開いて
 男を強く非難しているように見える。
 男はそんな赤ん坊をじっと見下ろしている。
 手は出さない。
 あくまでも
 じっと見下ろしている。
 大きく開いた口を
 まるで別の生き物でも見るように
 じっと見ている。
 不意に男がその赤ん坊の口の中に指を入れた。
 舌をつまもうとしているようだ。
 しかし、
 口はまだ小さいし、
 舌が滑るのかうまくつかめない。
 赤ん坊の泣き声がくぐもっていたが、
 そのまま泣き続けていた。

 男は赤ん坊を抱き上げる。
 右手を頭の下、
 左手を腰の下という
 まるで神様にみつぎ物を差しだすような
 奇妙な抱き上げ方だ。
 その奇妙な持ち上げ方が不満なのかどうかはわからないが、
 赤ん坊は少しも泣き止まない。
 空中で小さな手足をバタバタさせながら
 大声で泣き叫んでいる。
 すこしも治まらない。
 結局、
 男は赤ん坊を一度も抱きかかえることなく、
 両手で上に高く持ちあげた格好のまま、
 床の上に赤ん坊を投げ落とした――。

「いやーーーっ!」
 奈乃が叫んだ。
 そして男をにらむ。
「なんてことするのーっ!」
 椎名は口を開いたまま呆然としていた。
 それは奈乃に非難されたからなのか、それともいま彼女が見た記憶と同じものを見たからなのかはわからなかった。
 見ていると、椎名の鼻からゆっくりと鼻血がでてきた。それにも気づかないぐらい、椎名は放心していた。

 奈乃は店を走り出た。ガランガランとうるさいぐらいにドアベルが鳴った。
 もうなにも構っていられなかった。
 彼女は走りながら泣いていた。
 赤ちゃんの為に――。
 無抵抗でなにもできなかった赤ちゃんの為に・・・・。
 奈乃はあてもなく街を歩いていた。
 しきりに涙が出てきた。
 あの赤ちゃんはどうなってしまったのだろう。
 あの男は、赤ちゃんにあんなことをするまでに追い詰められていたのだろうか。
 いまさらそこまではわからなかったが、あとふたつ見えた黒い袋のことを思うと気が重かった。
 そう。他の袋にもなにか忌まわしい記憶がつまっているのだ。
 あの男の、決して他人には見せたくない心の闇の記憶が・・・・。忌まわしい過去の記憶のかたまりが・・・・。
 もしかすると、と思ったところで、奈乃は強く頭をふって考えることを止めにした。
 想像したところで、どうしようもないではないか。
 そう。やっぱり、世の中には知らないでいいことの方が多いのだ。
 奈乃はそう思うことで、先ほどの黒い袋の記憶を、心のずっと奥底に閉じ込めておくことにした。



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