【長編小説】人ヲ殺して、もらいマス。#05
5月13日 火曜日 AM7:30 / 伊原舜介
翌朝、目覚まし時計に起こされた。
畜生っ! と罵倒しながら、伊原は目覚まし時計の頭を殴りつけるようにしてアラーム音を止める。
七時三十分。
あと十七時間足らず――。
携帯のメールを確認してみたが、なにも来ていなかった。改めて、昨夜モウからきたメールを確認してみたが、やはり指示は変わっていなかった。
今日の深夜十二時までに――。
台所へいってコーヒーミルで二杯分の豆を挽き、それをコーヒーメーカーに入れて四人分の水を入れた。あの『レッド・バファロー』で飲む、カップの底が透けて見えるような薄いコーヒーが好みなのだ。一昨日食べ残したクロワッサンの残りを持って部屋に戻り、ベッドに腰かけた。
パンはちゃんと密封してあったので硬くはなっていなかったが、いまは綿にかじりついているようで、味をまったく感じなかった。フワフワで、とてもやわらかそうに見えるが、じっさいに噛ってみると、いつまでも口の中に残っている雑巾みたいな食感。
クロワッサンをテーブルに放り出し、ベッドに横になって天井を見つめる。
オレは死の宣告を受けたガン患者みたいなものなのだろうか、と考えてみた。いや、まだそんなにリアルじゃない。たとえ十七時間後に本当に死が迫っているにしても、余命半年の宣告を受けたがん患者よりも衝撃を感じていない気がする。まだどこか夢の中にいるみたいな気分だ。
いや、余命宣告を受けたがん患者もそんなものなのか?
当然ながら、そのことをどれだけ考えてみても、伊原にはなにもわからなかった。
起き上がって、テーブルに置いてあった昨夜書いた購入品リストのメモを見直してみた。
ナイフ。それほど大きくない果物ナイフが妥当だろう。握り部分がなるべく大きくて持ちやすいやつ。次に、返り血を浴びても目立たない黒いトレーナーと、黒に近い紺色の作業ズボン。そんな格好だったら、たとえ目撃者がいても、日雇いの労務者にしか見えないだろう。
あと、タオルを三枚。浴びた血を拭ったりするのに、なにかと必要だろう。それに500ccのミネラルウォーター。浴びた返り血をこれで洗い流す。そして軍手。滑らないように手の平側にゴム加工が施してあるやつ。
スニーカーも購入しよう。それも黒だ。血が付いても大丈夫なように、ビニール製の方がいいだろう。とにかくサイズが大きいやつ。通常は二十五.五で充分だが、二十七かそれ以上。どこかに足跡を残したとしても、身長一八〇以上の大男を探すのでは? と期待もできる。クツに余裕がありすぎても、紐をしっかり縛ってやれば、問題ないだろう。
あと、黒いリュックもあった方がいい。それもオタクが持つような頑丈な物ではなくて、袋にヒモが付いているだけのきんちゃくみたいな簡易型の方がいい。そっちの方が身軽だし、日雇い労務者がきんちゃく袋をぶら下げているようなイメージ。どこにでもいそうなそんな格好がいいのだ。
コーヒーメーカーから蒸気が噴きだす音が聞こえる。
台所へいって、大きなマグカップに薄いコーヒーをなみなみと注いだ。そのマグカップだと、コーヒー二杯分がちょうど入るのだ。コーヒーをこぼさないように慎重に持って部屋に戻り、またリストを見直していると、ブギーマンからメールがきた。メッセージはなにもなく、動画が添付されていた。
早速再生してみると、どこかのアパートのようだ。不安定に画面が動き、画質もよくない。そんな画像がしばらく続いてから、アパートの二階から男が降りてくるのが見えた。道路側に面した鉄製の階段を、じれったいぐらいにゆっくりと降りてくる。男は途中で降りるのをやめて、天を仰いだ。見るからに、ひどい二日酔いみたいだった。
しばらくしてまたゆっくりと階段を降りはじめ、なんとか降りきってこちらに顔を向けたとき、伊原はその動画の意味がわかった。
それは想像していたよりも大きな体格をした岩渕勝美だった。第一のサクリファイスだ。伊原が全力でぶつかってもビクともしないような頑丈さだった。
眉をひそめて画面を見入る。
岩渕はその場所に立ったままぶざまに顔を歪めて大きなあくびをしてから、ゆっくりとした動作でよれよれのシャツのポケットから煙草の箱を取り出し、そこに指を突っ込んでライターと、つぶれて曲がってしまった煙草を一本抜き出して口にくわえ、もう煙草がないのを確認するとそれを一度ねじって道端に捨て、そこでようやく煙草に火を点けた。
煙草の煙が眼に入ったのか、煙草を持った方の手でしばらく目をこすっていた。その間にも二度、身体が前後に揺れていた。白髪が混じった髪は納屋に放置されたほうきみたいに生気がなく、雑に伸びたヒゲにも白髪が混じっていた。
その場所でゆっくりと煙草を三服吸ってから、ようやく自分がまだその場所にぼうっと立ったままだったことを思い出したみたいに、カメラから見て左方向へと歩き出した。ボサボサの頭を掻きながら、ボロ布のように潰れてしまったスニーカーを引きずるようにして――。
動画はそこまでだった。もう一度再生してみる。
こんなアメフトのショルダーパットをしているような屈強そうな男を、本当に殺ることができるのだろうか、と考えていた。これじゃ正面からまともにいって敵う相手じゃない。ナイフさえこいつの皮膚を貫通しないんじゃないかと心配になるほどだ。
やはりブギーマンが言うように、けっして鍛えることができない首を、それも首の右側の頚動脈をぶった切る方法が最適のような気がした。それに、あんなにゆっくりとした足取りだったら、人通りのない夜道で、背後からそっと忍びより――、という方法なら殺れるかもしれない、と一縷の望みが見えてきたような気がする。
動画を三度目の再生している時に、ブギーマンからメールがきた。
――プレゼントは気に入ったか?
『ありがとう。とても参考になったよ』と伊原はメールを返した。
――あいつを殺れる心の準備はできたのか?
『なんとか。やはりナイフでいく』
――それがいい。
岩渕勝美の情報をもう少し詳しく教えて欲しいとメールしてみると、結構時間はかかったが、ブギーマンは細かい情報を送ってきてくれた。
――岩渕勝美。三十二歳。秋田県生まれ。高校を中退して上京し、住み込みのパチンコ店員からはじまって、飲食店、鉄工所、廃品回収業など、勤務先を転々と変える。上京して半年後に最初の婦女暴行事件を起こす。
被害者は十七歳の女子高生。当時の岩渕と同じ年齢だ。以後、五年間で本人も件数がわからないぐらいの犯行を重ねていると自供しているが、その中でもなんとか被害届を出した九人の被害者による告訴によって、懲役十二年の実刑判決を受ける。岩渕が二十二歳の時だ。
通常のレイプ事件よりも刑が重いのは、あいつの冷酷で無慈悲な犯行と、どの被害者も示談にまったく応じなかったことが大きい。そんな奴でも、十年と二ヶ月の懲役で仮釈放となり、いまの場所で生活をはじめている。
伊原自身も、弱い相手を無理やり従わせるようなレイプ犯は最低だと思う。そして、多くの意見と同様に、そんなヤツは去勢してしまえ、とさえも思う。あんな反省のかけらも感じられない岩渕の現在の姿を見せられたらなおさらだろう。
――岩渕が卑劣なのは・・・・、とブギーマンからまたメールがきた。まだ話は終わっていなかったようだ。
――途中から、妊婦ばかりを狙って犯行を重ねていた点だ。なぜ妊婦を狙うか、お前にわかるか?
妊婦? 妊婦を選ぶ特別な理由があるのか? 伊原はよくわからなかったが、とりあえず浮かんだ理由として『抵抗しにくいからか?』と送ってみた。
――No! とすぐにブギーマンから返事がきた。
すでに怒っているみたいだった。
――抵抗しにくいんじゃない! 抵抗できないからだ!
そう言われても、大きなお腹が邪魔になるからか? と首をひねっただけだったが、実情は違っていた。
――あいつは妊婦の膨らんだお腹にスタンガンをあてる。そしてこう言うんだ。「暴れると、可愛い赤ん坊がショック死するぜ」これで妊婦は誰も抵抗しなくなる。あいつはそんな卑劣な手を使って、何件も犯行を重ねたんだ。
息を止めて、そのメールを見ていた。そしてスタンガンを妊婦のお腹にあてる光景を想像してみる。スタンガンの先の冷たい金属部分がお腹に触れている感覚を、その恐怖を、そしてその絶望を想像してみる。
伊原は永く息を吐き出しながら首をふった。
『なるほど。鬼畜な野郎だ。もし、それがオレの妻だったら絶対に許さない』と伊原はメールを送った。
『それにしても、これは代理殺人なのか?』
――・・・・。
伊原は舌打ちした。
やはり空メールがきてしまった。
予想されたこととはいえ、ちょっとショックだった。
もうあと一回しかチャンスがない。
以後、ブギーマンはメールを送ってこなかった。
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