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【長編小説】人ヲ殺して、もらいマス。#14

 5月14日 水曜日 PM23:12 / 伊原舜介
 
 結局、伊原は、佐藤家の斜め向かいにある〈売地〉の看板が立っている空き地の奥のしげみで待つことにした。
 すでに深夜だったが、いつ人が通るかわからなかったし、佐藤家の前には昼みたいに明るい街灯があったので、気づかないうちにどこかの住宅の二階から見られているかもしれないという不安もあった。それで、雑草が生い茂っていて、けっして気持のいい場所ではなかったが、この空き地に身を潜ませることにしたのだ。そこだとどの方向から横丸万記男が来ても、けっして見逃すことがない場所だった。もう後は、あいつが現れるのを辛抱強く待つだけだ。
 時間は十一時を過ぎていた。ちょっと肌寒い。今日購入した服は、薄手のトレーニングスーツだった。上下とも紺色で、胸に赤いラインが入っているだけのシンプルな奴だ。ちょっと値が張ってしまったが、これだと昨夜のように血が降りかかっても、ぐっしょりと血を吸って重たくなってしまうことはないだろう。
 予備にもう一セット買ったが、それは着替え用にリュックの中に入っていた。しゃりしゃりと衣擦れの音がするのが難点だったが、そこまで贅沢はいえなかった。その格好で、あとは黒いニット帽を目深にかぶり、黒ぶち眼鏡も購入した。さすがにマスクは付けてなかった。そこまですると怪しさが倍増するような気がしたのだ。
 そんな薄手のトレーニングスーツだからか、動かないでいると寒くなってくる。かといって身体を動かしても目立ってしまうので、彼は身体を丸めるようにして草むらの中でじっとしていた。
 まだ、横丸万記男は現れない。
 伊原はブギーマンにメールを送ってみることにした。こんな時間でもちゃんとオレを監視しているのか知りたかったのだ。携帯は予備で買ったニット帽の中に隠すように操作し、明かりが外に漏れないようにした。
『ブギーマンは、モウたちの一味なのか?』
 一味という表現が映画みたいで笑ってしまったが、そのままメールを送った。
 ――余裕だな、とブギーマンからすぐに返信がきた。やはりヤツはちゃんとオレを見張ってるんだ。
 感心感心と、伊原は口を隠すようにしてニヤニヤと笑った。
 ――そんなことより、今夜の殺害方法はもう決めてるのか?、とブギーマン。
『丈夫な果物ナイフを買った。やはりこいつの方が頸動脈を切るのにふさわしいと思う』
 ――昨夜はナイフじゃなかったのか?
『大きいカッターを使用した。警察に職務質問をされても言い逃れができると思って。でも、警察には会わないし、カッターは大型で頑丈な奴でも簡単に折れてしまったので、今日は丈夫なナイフにした』
 ――なんでも学ぶものだな。
『でも、すぐに忘れるのが難点だ』
 ちょっと気の利いたメールを送った気でいると、それっきりブギーマンから返信が来なくなった。
 といっても特に訊きたいこともなかったので、予備のニット帽をリュックにしまい、携帯をポケットにいれ、ファスナーを閉めて夜空を見上げてみた。
 今夜は快晴だった。夜空にも雲がない。星はまたたいているが、伊原には興味がなかった。早く切り上げて、うちに帰ってキンキンに冷えたビールを一気に呷りたかった。毎日飲むわけではなかったが、いまはビールが飲みたい気分だった。
 帰りにコンビニによってビールを買おう、と伊原は考えていた。もちろん、オレ自身がコンビニによっても大丈夫な状態だったらの話だが――。
 その時、モウの携帯が震えた。
 伊原はリュックからニット帽を取り出して、携帯をくるんだ。
 ブギーマンからだった。
 ――横丸が家を出たようだ。
 伊原は一気に緊張した。それまでリラックスしていたのが信じられないぐらいの緊張感だった。横丸万記男がもうすぐ現れる――。
 彼は逃げ出したくなる自分を必死に抑えていた。携帯をトレーニングスーツのポケットの中に入れてファスナーを閉め、くるんでいた予備のニット帽をリュックにしまい、そして代わりにナイフを取り出した。
 オレはここで待ちながらナイフも準備してなかったのか、と伊原は改めて自分の緊張感のなさに驚いていた。今回はブギーマンが教えてくれたから良かったものの、突然路地から横丸が現れたらどうするつもりだったんだろう。それをのんきにブギーマンにメールなんかしたりして。
 もっとしっかりしろ! と伊原は自分を叱りつけた。
 そうだ! ゴム手袋も忘れてる!
 彼はあわててリュックの中からゴム手袋を取り出して――、なんと、まだビニール袋からも出してなかった!。
 ビニール袋を破る時に結構大きな音がしてしまったが、もう構ってられなかった。いますぐにでも横丸が現れそうな気がしたのだ。
 破ったビニール袋をリュックにしまい、ゴム手袋を装着した。使い捨てのゴム手袋だったので、ちょっとサイズが小さかったが、今回の目的には支障なさそうだった。
 そうして改めてナイフの指紋がついたと思われる個所を予備のニット帽で拭きとった。今回予備のニット帽が大活躍だ、ということが、唯一伊原が満足したことだった。

 まだ横丸は現れない。伊原は頭の中で、横丸万記男の頸動脈を切る行為をシミュレーションしてみた。
 横丸が道路に現れる。オレは動かない。横丸がどんどん近づいてくる。それでもオレは動かない。横丸が周囲をうかがいながら、佐藤家の敷地へ入っていく。
 オレが動くのはその時だ。オレは身をかがめるようにして佐藤家へと急ぐ。横丸はガソリンが入った二リットルのペットボトルに意識を集中させているだろう。もしかするとうまいこと背をこちらに向けて屈みこんでいるかもしれない。
 オレはすかさず横丸の背後に立ち、奴の髪をつかんで動かないようにしてから、首の右側の頸動脈にナイフを突き刺してそのまま引っ張る。切るのが頸動脈だけに、飛ぶ血の量が昨夜の比じゃないだろう。だが、その時オレはもうすでに横丸から離れている。頸動脈を切った感触を確認したら、すぐに離れよう。そしてもうふり向くこともない。頸動脈を切られて生き延びられるわけがないのだ。それは昨夜、頸動脈を切ってないにもかかわらず、あんなに出血した岩淵を見てもわかる。とてもじゃないが生き延びられるわけがない。だから、オレは横丸の死を確認する必要もないのだ。すぐに離れてその場から逃げだせばいい。
 あと、幸運にも横丸の血を浴びることがなかったら、コンビニでビールを買って一気に呷ろう、と伊原は考えていた。
 ――来た!
 信じられないことだが、奴は横丸家があった方向からではなく、まったく逆の方向からいきなり現れた。どこをどう歩いたらそこに現れるのかわからなかったが、抜け道でもあるのだろう。
 伊原はしゃがんだままリュックを背負い、佐藤家の家の前を通り過ぎようとしている横丸の姿を、息を殺してじっと見守っていた。
 街灯に照らされた横丸の姿が見える。確かにあの携帯に送られてきた写真の男だ。あの写真からすでに数年経っているだろうが、どこも変わっているようには見えなかった。おそらく中学生の卒業アルバムを見ても、一発で探し当てることができるだろう。
 こいつも母親に似て、外見にはまったく変化を求めず、ズボラで無頓着な亀みたいな男だと伊原は思った。この親子なら、きっと万年でも同じ格好でいるだろう。
 意外なことに、横丸はそのまま佐藤家の前を通り過ぎてしまった。
 周囲をきょろきょろと見回したりして、あからさまに佐藤家を探しているのが見え見えだったが、彼はそのまま歩いて遠ざかっていく。
 伊原はあわてていた。このままあいつが帰ってしまったら、元も子もないではないか。
 佐藤家を狙っているというのはガセだったのか? 
 それともブギーマンも知らないうちに放火する住宅が変更されたのか? 
 そもそもオレが狙われた家を間違えているとか? 
 もしかすると、あいつが単に佐藤家の表札に気づかなかっただけだとか?
 いや、そんなことはないだろう。ちゃんとポストがついたシステム門柱には表札がついていて、しっかり明かりまで灯っているのだ。見えないわけがない。本当に佐藤家を探しているのなら、そんなものを見落とすことなんて考えられなかった。
 そうしている間にも、横丸はどんどん遠ざかっていく。
 伊原は迷った。このまま草むらから抜けだして、急いであいつを追いかけてその背後から・・・・。
 いや、それはもう無理だろう。こんな夜中にいきなり誰かが背後から走ってきたら、なにも心当たりがない奴でも、後ろも見ずに全速力で逃げだすに決まっている。あんな横丸相手だったら倍の速度で走る自信はあったが、それでもこの離れてしまった距離を縮める間に、あいつに気づかれるのは眼に見えている。その時に横丸がどんな行動をするのか読めないことが彼は怖かった。その場で大きい声を出すかもしれないし、近くの家へ飛び込んでいくかもしれない。そうなってしまったら、とても明日の朝七時までに処分するなんて、絶対不可能になってしまう。
 どうする、どうする、どうする! イラ立たしげに身体を上下させながら、一所懸命考えていた。そう迷っている間にも、横丸はどんどん歩いていく。もう各家の表札を調べるのもやめてしまったよう見える。ズボンのポケットに右手を突っ込んで、これから煙草でも買いにいきそうな気軽な雰囲気だ。
 今日は放火をやめたのだろうか・・・・。
 それとも・・・・。
 横丸が突然足を止めた。
 一件の家の表札をじっと見ている。二歩近づく。しばらくじっとしている。もう一歩近づく。首をひねる。こっちを見る。
 そうだ! 
 来い! 
 こっちへ来い! と伊原は強く念じていた。
 なんなら立ち上がって、大きく手まねきしたい気分だった。
 すると、横丸が戻ってきた。ポケットに手を突っ込んだ格好のまま、左手で頭を掻いている。
 そうそう、そのまま、そのまま。
 伊原は立ち上がって、今度は温かい拍手で横丸を迎えたい気分だった。

 戻ってきた横丸万記男は、今度はもっと注意深く各住宅の表札を確認しながら歩いてきた。そしてついに佐藤家の前で立ち止まると、またさっきみたいに二歩佐藤家に近づき、さらにもう一歩近づいて、ようやくそこが目的の佐藤家だとわかったみたいだった。
 彼はそこで周囲を見まわす。道路の人通りを確認するだけでなく、そこから見える住宅の窓もしっかりと確認している。そんな明らかに怪しい動きをして、よくこれまでバレることなく放火を繰り返してこれたな、と伊原は呆れていた。それぐらい彼の行動は無警戒だったのだ。
 やがて、どこにも人影がないことを確認すると、横丸は佐藤家の敷地に侵入していった。門扉がなかったことで、すぐに奥の方まで入っていって、あとは樹木に隠れて見えなくなった。
 その時になって伊原がようやく行動を起こす。予定通りだ。このままそっと近づいていって、願わくば横丸の背後から頸動脈を――。
 その時、横丸が外に出てきた。伊原はあわててしゃがみ込む。
 どうしたんだ、いったい・・・・。
 幸い横丸には気づかれなかったみたいだ。見ていると、彼はそれどころじゃなく、地面をきょろきょろと見てなにかを探しているようだった。おそらくガソリンが入ったペットボトルだろう。しゃがみ込んで、木の下を覗き込んだりしている。そしてそのまま、別の場所に入っていった。
 伊原は身をかがめて行動を起こす。もう奴がペットボトルを見つけようがどうしようが関係ない。今あいつはガソリンを探すことに必死なのだ。その隙に背後から近づいていって、一気に頸動脈を切ってしまおうと考えていた。
 伊原も佐藤家の敷地内に侵入し、先ほど横丸が消えた場所へ音をたてないように注意しながら入っていく。すると、木の陰でしゃがみ込んでいる横丸の腰が見えた。
 彼はそっと近づいていく。
 地面にはレンガタイルが敷き詰められているので、足音を気にする必要はない。
 あと三メートル。もう飛びかかっても仕留めるのが可能な距離だ。だが、用心するに越したことはない。第一撃に失敗して格闘にでもなったらことだ。横丸相手だったらとても負ける気はしなかったが、こんな場所で争っている場合じゃない。連続放火犯を捕まえたとしても、それで表彰される頃には、オレはもうこの世にいないのだから・・・・。
 横丸の腰がもそもそと動いていた。そこへ伊原は一歩一歩近づいていく。今度こそ一発で頸動脈を切ってやると思い、彼は右手に持ったナイフを強く握りしめた。
 心臓がばくばく鳴っている。昨夜の緊張より大きいぐらいだ。伊原は唾をのみ込もうとしたが、ねばねばしてうまくいかなかった。代わりに深く息をする。もう一度する。そして、伊原がようやく横丸の背後に立った時、携帯が震えた。モウの携帯だった。
 その気配に気づいたのか、横丸がふり向いた。背後に立っている伊原を見てすぐに「うっ」とか「おっ」とかの声を出した。間違いない。あの携帯の写真の男だ。口は写真とおなじように半開きのままだったが、眼を大きく見開いていた。よほど驚いているようだ。
「あわわわ」と横丸が伊原を見上げたまま尻もちをついた。
 そこへ伊原がナイフを突き出す。だが、咄嗟に突き出した伊原のナイフはあさっての方向で、ナイフは空を切ってしまった。その攻撃を思わず腕で防ごうとした横丸は、手に持っていたペットボトルのガソリンを自分に掛けてしまった。すでにキャップを外していて、いままさに周囲に撒こうとしていたらしい。
 横丸はひどくむせながらも、眼を大きく開けて伊原から眼を放さない。ガソリンが眼にしみて何度も瞬いていたが、ナイフの恐怖からか、必死に眼を開けて後ずさりしていた。あまりにも必死すぎて、自分がガソリンを被ってしまったことすら気づいてないみたいだった。
 伊原はそんな横丸に向って、もう一度ナイフを突きだす。
 だが、空を切る。
 もう一度。
 ――ダメだった。
 こんな短いナイフでは、正面からそんな攻撃をしても、横丸に届きそうになかった。もっと近づかなければ無理だと思って伊原が前に二歩進んだとき、横丸が右手に持ったチャッカマンを前に突き出してきた。まるで拳銃を突き出しているような格好だったが、それはどこから見てもただの赤いチャッカマンだった。それを前に突き出しながら、横丸は後ずさりする。それでオレがひるむとでも思っているのか、こいつは――。
 伊原がもう一歩近づいてそのチャッカマンをナイフで叩き落とそうとした時、カチッと音をたててチャッカマンが点火された。その途端、ボンッという小さなガス爆発を起こしたかと思うと、横丸が一瞬にして火だるまになった。びっくりした彼が立ち上がって頭をかきむしる。
「があー」という叫び声も聞こえる。
 だが、すぐに彼は倒れた。地面を転がりまわる。そして佐藤家の庭にあった一番大きな樹木に当たって止まったかと思うと、それっきり動かなくなった。火はまだまったく衰えを見せない。それどころか余計に燃え狂っている。樹木に燃え移るのも時間の問題だろう。
 伊原はそこで我に返った。
 まだ周囲の住民の誰もこの騒動には気づいていない。佐藤家も寝静まったままだ。彼は誰に知らせるでもなく、全速力で逃げることしか頭になかった。
 
 ◇
 
 どれぐらい走っただろう。
 消防車が三台も彼の脇を通り過ぎていった。彼はそれでも一度も後ろをふり返らなかった。ジョギングしているような感じで、幹線道路を走っていた。もうずいぶんとスピードは遅い。日頃の運動不足がたたってか、もうすぐにでも寝ころびたいほどバテていた。そのまま家までは帰ることができる距離ではなかったが、彼は構わずに走っていた。とにかく、現場から少しでも離れたかったのだ。
 もちろん、タクシーに乗るわけにはいかない。こんな現場近くでコンビニにも寄れない。どこから足がつくのかわからないからだ。
 彼はもうほとんど歩くようにして走りながら、モウの携帯を思い出した。いったいあんな時に誰がメールを送ってきたのか、いまとなっては腹立たしい思いだった。
 結果的には伊原自身が手を下すことなく、身体が鮮血で汚れることもなく、最高にうまくいったと言ってもよかったが、あのメールがなければ、今度こそ確実にあの横丸の頸動脈を一気に切り裂くことができたのだ。
 メールはやはりブギーマンからだった。
 件名が空欄だったので、そのままメールを開くと
 ――迷うな! 一気に殺れ!、というメッセージが入っていた。
 これだけか? 足を止めてメールをよく確認してみたが、どう見てもブギーマンから送られてきたメッセージはそれだけだった。
 腹が立ってきた。そんなのわかってる! それぐらいこっちも集中して横丸に近づいていったのだ。それを横からヤジをいれるみたいに・・・・。
『あんな時にメールを送るのはやめろ! そっちは高見の見物気分かもしれないが、こっちは必死なんだ!』と怒りのメールを送った。
 本気で腹が立っていた。
 メールがきた。ブギーマンからだった。
 ――悪かった。激励のメールを送ったんだが、そちらに着くタイミングが遅れたようだ。でも、成功したようだな。オメデトウ!
 あのブギーマンから褒められたことが正直にうれしかったので、伊原はすぐに『アリガトウ!』と返事を返した。
『これであと三人だ。まだ先は遠い気がするが、またアドバイスよろしく!』
 ――承知した、とブギーマンはすぐに返信してきた。
 とにかく今回もオレはやり遂げたのだ。今はもうその開放感で胸がいっぱいだった。消防車の音が遠くで聞こえる。それも一台や二台じゃない。おそらくパトカーも救急車も混じっているだろう。火事の現場が住宅街だけに、近隣の消防署からありったけの消防車が集まってきているような勢いだった。
 伊原は当初予定していた、朝までどこかに隠れているということは止めにして、昨夜と同じようにひたすら歩くことにした。それほど寒くない気温だったし、少しでも現場から離れたいということもあった。
 なかでも第二の殺人が済んだことで解放された気分というのが一番大きな理由だった。
 彼はスキップするぐらいの勢いで、深夜の街を歩いていった。


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