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【長編小説】切子の森 第1章

【あらずじ】
僕が十歳の時、父さんの再婚によって、切子きりこは同い年の妹になった。そして十七歳の夏、それまでの謎がすべて明らかになった時、思いもしなかった結末を迎える――。

 第1章

  1

 1971年8月――

 家の近くの児童公園ではじめて切子きりこを見かけたとき、彼女はまだ僕の妹ではなかった。二年後に妹になることもまったく予期していなかった。それは彼女も同じだったと思う。将来兄となる僕が、自分の姿を背後から盗み見ているなんて想像もしていなかっただろう。

 彼女は公園の隅にあるひょうたん型をした砂場に、たったひとりでしゃがみこんでいた。肩巾よりも大きな麦わら帽子をかぶり、ベージュのワンピースのすそをかかえ込むようにして坐っていた。
「あいつ、砂場からでてきたんだよ、きっと」
 その年の春、同じ小学校に入学したヒロシがおびえた声で言った。
「あの話は赤ん坊だよ」僕は女の子から目をそらさずに言い返した。「あんなに大きな子どもじゃない」
「だから砂場の中で育ったんだって!」
 そう抗議しながらヒロシが僕の服を強く引っぱったので、危うく二人そろって後ろに倒れそうになった。
「やめろって!」
「わからないのか? あいつ、砂場の中で大きくなったんだよ。そうに決まってる。絶対だよ。だって、もうずっと動かないし、あいつが公園に入ってきたところ見た? ねえ、見た?」
「シッ!」僕はふり向いて彼をにらんだ。「静かにしろって!」
 確かに、まだ生まれて間もない赤ん坊が母親の手によって砂場に生き埋めにされたという話は、僕が通っていた小学校ではまことしやか丶丶丶丶丶丶に噂されていた。もちろん事件になったものではなかったし、じっさいどこの砂場なのかもわからなかったけれど、僕のクラスでは〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊〉の噂で大騒ぎになった。話を聞いただけで泣きだす女の子もいた。
 だけど、当時の僕たちはまだ小学一年生になったばかりだったので、上級生のように〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊の姿〉という凄惨な絵が回ってくることもなく、その噂はそれほど長くはもたなかった。自然消滅するまでに一週間もかからなかったぐらいだ。

 ヒロシはその噂の赤ん坊と、こつ然と現われた女の子を重ねあわせて怯えていたのだ。彼は五年生になる兄によって〈砂場に生き埋めにされた赤ん坊の姿〉の絵を見せられていたので、僕よりもその噂を強烈に記憶していたのだと思う。
 彼は後になって興奮しながらその絵を再現してくれたけれど、彼が描く赤ん坊の表情がどちらかというとキョトンとしていて、すぐにでも砂場から出てきそうなぐらい元気そうに見えたので、恐くもなんともなかった。この辺りが腐ってたんだって、と真顔で説明されても、顔の左半分を鉛筆で黒く塗りつぶしただけだったこともあって、彼の描く赤ん坊にはおどろおどろしさ丶丶丶丶丶丶丶丶が欠けていた。
 そのために僕が記憶する噂の赤ん坊は、弾けそうなぐらいとても元気で、愛くるしいものに変化していた。
「近くに行ってみよう」と僕がヒロシに向かって提案すると、彼はあわてて首をふった。
「砂の中に引っ張りこまれるって」
「まさか」
「絶対だよ。ズズズッて」彼は僕の腕をひっぱった。
「そんなことないって」
「どうしてわかる? どうしてそんなことお前にわかる?」
 僕は彼の手をほどき、女の子から見えないように背後から回って、高さの違う鉄棒の中でいちばん低い鉄棒につかまった。そこが彼女にいちばん近いのだ。
 ヒロシはまだ元の場所(簡単なアスレチックができるようになっているコンクリート製の山のすそ)にいて、今度はそこからじっと僕を丶丶観察していた。すでに謎の女の子よりも、これから引きずり込まれるに決まっている僕に興味が移ったみたいだった。

 そこまで来ても、大きな麦わら帽子のせいで、女の子の顔はまったく見えなかった。砂についてしまうぐらい長い髪と、ピカピカに磨き込まれた黒い靴と、眩しいぐらいに白い靴下は見えたけれど、見かけたことのある子なのかどうかまではまったくわからなかった。
 僕は大きな音をたててせき払いをしてみた。でも、彼女は顔を上げなかった。代わりに僕の横で逆上がりに挑戦していた男の子が、不思議そうな顔をして僕を見ていた。あわてて僕はヒロシを呼んだ。自分でも驚くぐらい大きな声で、手招きもした。
 だけどヒロシはなにも聞こえないフリ丶丶をしていた。僕を見ているのだけれど、他人の顔をしていた。関わりあうことを避けているのは明らかだった。
 女の子もすこしも反応を示さなかった。完全に僕を無視していた。僕だけでなく、彼女は世界のすべてを拒絶しているみたいだった。
 結局、僕の大きな声は、男の子に逆上がりを再開させるだけの効果しかなかった。

 よく見ると、女の子の足元に高さ五センチぐらいの砂山ができていた。
 目的はわからなかったけれど、指先でつまんだ砂を顔の前にもってきてしばらく祈ってから山の頂上に加える、という作業をくり返しおこなっていた。大切にしていたカナリアを埋めた後に、安らかな眠りを心の中で祈りながら砂を盛っていく、そんな光景だった。
 その山を、砂場にいた赤ん坊がいきなり踏みつけて潰した。まだ一歳半ぐらいの、ちょっとブカブカの赤い帽子をかぶった赤ん坊で、次にオモチャのスコップで女の子の頭の上から砂をぶっかけた。とたんに麦わら帽子が右に傾き、肩に砂がおちて右半身砂まみれになった。だけど、それでも女の子はすこしも動かなかった。
 それまでママ友との話に夢中になっていた赤ん坊の母親が、あわてて女の子にかけ寄って謝っても、女の子はうつむいたままじっとしていた。顔を上げもしなかった。赤ん坊の母親が、砂がそれ以上身体にかからないように注意しながらそっと麦わら帽子を取り、砂を払いのけ、謝りながら彼女の頭にもどして首にゴムをかけた。それでも動かなかった。両手で足を抱えこんだ格好のまま、固まってしまったようにじっとしていた。
 残念ながら、赤ん坊の母親の身体に隠れてしまって、帽子を取ったときの女の子の顔は見えなかったが、その光景を見ていたらしい六年生の早川さんが(僕たちを集めて小学校まで引率してくれていた女の子)、意識して行儀よく歩きながら女の子のところまで来ると、赤ん坊の母親とことばを交わし、後をひき受け、女の子の肩に手をかけて顔をのぞき込みながらなにか言ってるみたいだったけれど、僕のところまではなにも聞こえてこなかった。そこで早川さんは反応を示さない女の子の前で途方に暮れたり、また顔をのぞきこんだりをくり返していた。
 そのときになって、二人のまわりにぽつぽつと人が集まりだした。公園には十五人ぐらいの子が遊んでいたけれど、そのほとんどが集まってきた。走ってくる子もいた。みんな気にしていたのだ。
 その集まってきた子どもたちのせいで、女の子の姿がまったく見えなくなってしまったので、仕方なくしゃがみ込んでみると、何本かの足の間から、さっきと同じようにうつむいて小さく丸まっている女の子の姿が見えた。彼女はその姿勢のまま、また砂の山をつくるのを再開していた。
「顔を上げろぉー」だれか男の子が、ふざけてはやし立てるのが聞こえた。
「なにも集まることないじゃない!」早川さんがみんなにむかって大きな声で抗議した。でも少しも効果はなかった。
「顔見せろぉー」と違う男の子の声がした。
「あっちへ行きなさいよ!」
「なんだ亀子、えっらそうに!」
 彼女はおせっかいやきで、何にでもすぐに首をつっこむので、上級生の間では〈亀子〉と呼ばれていた。
「そうだそうだ、亀子こそあっち行けよ!」
「なによ!」
 僕だって女の子にむかって亀子はひどいと思う。じっさい早川さんも本気で怒り、そのなかのひとりに突っかかっていった。
 そこではじめて女の子が顔を上げた。陽に焼けた顔のなかで、目だけがやけに大きく見えた。鼻の頭と頬に皮がめくれた跡があり、その後もよく陽に焼けて赤くなっていた。いつもうつ向いているのか、唯一首のまん中あたりがツキノワグマみたいに白くなっていた。
 突っかかっていった早川さんの姿を目で追っていた彼女は、またうつむく時に僕を見た。そして止まった。僕は心臓が止まった。彼女の大きな目に、人の背後に隠れて、それも並んだ足の間からこっそりのぞき見している僕のぶざまな姿が映り込んでいるような気がした。
 彼女はすぐにうつむき、それっきり顔をあげることはなかった。なにを言っても、なにが起こっても、ふたたび顔が上げられそうになかった。
 やがて、集まってきた時と同じように、波が引くように人が散っていった。興味をもつのも早いけれど、失うのもまた早いのだ。
 女の子はまたひとりになった。そのことにホッとしているように見えた。そして黙々と山づくりを再開していた。

「ふつうの女の子だったよ」僕はコンクリート製の山に戻ってヒロシに報告した。
「ふつう?」
「見たこともない女の子だったけどね」
「どこか黒ずんでなかった?」
 僕は首をふった。
「日焼けはしてたけどね」
「――臭くなかった? 猫の死骸みたいな、ひどい臭いしなかった?」
「ぜんぜん」
「耳からうじ虫がでてくるとか……」
「そんなことないって。自分で見てくれば?」
 彼は腕組みをして考え込んでいだ。そこまで聞いてもまだ自分の考えを捨て切れずにいるようだった。
 そのとき周囲の空気がわずかに緊張するのが感じられた。
 見知らぬ大人が入ってくると、よくその緊張が起こった。
 自分のテリトリーに痛いほど敏感な年ごろが集まったその公園ではめずらしいことではなかったけれど、見ると、僕の父さんが、知らない女の人と一緒に公園へはいってくるところだった。
 知らない女の人は切子の母さんで、二年後には僕にとっても母さんになる人だ。
 父さんは切子の母さんのすこし後を歩き、休日なのに父さんはダークグレーのスーツを着てシャキッとしていたけれど、切子の母さんは紺色のサマーセーターに水色のフレアースカートというラフな格好で、まるで父さんの方が訪ねてきたお客さんみたいだった。
 僕は息を呑んでその光景をじっと見守っていた。ヒロシは、男が僕の父さんだとは知らなかったので、何もいわずに静観していた。
 女の子の背後から母さんが声をかけると、あれほど動かなかった女の子がすぐにふり向いた。顔が喜んでいた。でも僕の父さんを見ると、すぐに険しい顔になった。当然ながら、父さんはそのことにとても困惑しているようにみえた。
 父さんは切子の前で脚をきちんとあわせて立ち止まり、深く、ゆっくりと頭を下げた。沈痛な雰囲気で、公園内の空気が止まってしまったようだった。父さんは深々と頭を下げたまま、こんどは父さんがその格好で静止していた。
 そんな父さんに切子の母さんが声をかけた。今度も僕にはなにも聞こえなかったけれど、女の子がじっと父さんをにらんでいるのが見えた。父さんは顔を上げて女の子を見た。そこですこし驚いたように一瞬とまり、もう一度もっと深く頭をさげた。僕はひどく混乱していた。
 周囲の子が――好奇心のかたまりみたいな集団が、その光景をどのように見ていたのか、僕にはまったく記憶になかった。ただ、強烈なアブラゼミの鳴き声の中で、見たこともない女の子に頭を下げつづける父さんの姿だけを鮮明に記憶していた。
 当時の僕にとっては、誰よりも強くて、正義で、偉大だった父さんのその姿は衝撃的だった。
 それは僕の頭の中にコゲ丶丶みたいになってきつくこびりつき、無理に剥がそうとすると脳の粘膜まで剥がれてしまいそうなぐらい強い記憶だった。
 不意に女の子が父さんに向かって砂を投げつけた。
「あっ!」と僕の後でヒロシが小さく叫んだ。僕は声も出ずにその光景を凝視していた。頭がふらふらした。僕が強烈なパンチをくらったみたいな気がした。
 もう一度投げようとした手を、切子の母さんがあわてて止めていた。そして父さんにむかってなんども謝っていたけれど、父さんは頭を左右に振るだけで顔を上げなかった。両方の耳がまっ赤になっていた。
 やがて母さんが切子を立たせ、彼女の小さな肩に手をおいて帰ろうとしたとき、一緒に歩きだした父さんを母さんが止めた。
 父さんはその場でふたたび頭を深々と下げて、そのふたりを見送った。ふたりの姿が見えなくなっても、しばらく頭を下げつづけていた。そして僕の姿を探すこともなく、肩をがっくりと落としたまま、足を引きずるようにして帰っていった。
「やっぱり、砂場の赤ん坊じゃなかったね」
 ヒロシがホッとした声で言ったが、僕はなにも応えずに、いま見た光景を思い返していた。
 女の子の日焼けした顔、大きな瞳、砂の小山、険しい顔、頭を下げつづける父さん、父さんに砂を投げつける切子――。
 そういった光景をなんども思い返していた。停まる階の表示に関係なく上下するエレベーターみたいに、なんども何度もくり返し思い返していた。



 

 切子が父さんに向かって砂を投げつける光景を目撃するまで、父さんの異変に気づかなかったのは不思議なことだといまでも思っている。僕が鈍感すぎたのかもしれないし、僕以外の家族全員が徹底的に異変を隠し通したのかもしれない。
 だけど、あの光景を公園で目撃してから、わが家の中でなにかが変わってしまっているのを、痛いぐらいに感じるようになっていた。
 なにかが父さんに起こったのだ。それは喜ばしいことでも、楽しいことでもない。家族みんなどこも変わった様子はなかったけれど、目には見えない巨大な氷が、居間の天井から吊り下げられているような違和感がいつもあった。
 父さんがその春から消防署に転職したのは知っていた。ゴワゴワの防火服を来た写真を、自慢気に見せてくれたのだ。その時の父さんはとても嬉しそうだった。それまでどんな仕事に就いていたのか知らなかったけれど、そのうれしそうな父さんの姿を見て、それは父さんにとってとても良いことなんだと感じていた。
 父さんの母さんである祖母が、その転職に難色を示したのもよく覚えている。
 大切なひとり息子が、危険な仕事に就いたのが心配なのだ。
 しかし、平穏なこの街では、大きな火事(二階建ての家屋が全焼してしまうような火事)が年に二回もあれば多い方だったので、仕事は初心者コースをソリで滑るよりも安全だし、運動量はラグビーのハーフにも満たない、と言って祖母を安心させていた。

 僕が生まれると同時に母さんが他界していたこともあって、家族は父さんと祖父と祖母と僕の四人で暮らしていた。父さんの父さんと、父さんの母さんだ。
 祖父は町内で一件しかないのが自慢のよろず屋で生計をたてていた。
 生活必需品でそろわないものはなにもない! というのも自慢で、じっさい店名の『毎日屋』と書かれた看板の下に〈ないモノはナニもない!〉と赤いペンキで乱暴に手描きしたのは祖父だった。
 当然ながら、店にないものはいくらでもあった。お菓子類は飴玉ひとつなかったし、ジュースといえばラムネ、シャンプーといえばエメロン、タワシは亀の子、野球帽は巨人軍のみ。その他はすべて嗜好品あつかいとなり、巨人軍以外の野球帽は必需品ではないと決めてかかっていたのだ。
 人が生活していくのに必要なものはダンプカー一台分のスペースですべて足りる、というのが祖父の確固たる信念で、その信念どおり、『毎日屋』の店舗スペースはちょうどダンプカー一台分のスペースだった。
 祖母は祖父よりもずっと柔軟で、シャンプーだっていろんなものを使いたいし、ジュースにしたって僕の好きなものを色々とそろえてやりたいという気持ち丶丶丶をもってくれていたけれど、祖父に対してはとても従順だったので、『毎日屋』の品ぞろえに関して口を出すことはまったくなかった。
 僕はそのことで何度も祖母にねだってみたけれど、事態はまったく好転しなかった。もうひと押しで明日にでもコーラを仕入れてくれそうな期待をさせるだけで、ラムネ以外店に並べられることはまったくなかった。
 祖母にとっては、柔軟と従順はおなじ意味だったのだ。もちろん、そのことを知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
 そんな家族の誰もが、父さんの変化を黙って見守っていた。少なくとも僕の前ではなにも悟られないようにふるまっていた。

 それから一年後の夏、僕にもわかるような形で変化がみられた。父さんがわが家にあの母娘を連れてきたのだ。
 僕が玄関で父さんを出迎えたとき、玄関の外で母親と手をつないでいた女の子にすぐ目がいった。痛いぐらい強い光を背にうけているせいで{影}(丶)みたいになっていたけれど、一年前に公園でみかけた女の子だというのはすぐにわかった。
 女の子も僕を見ていた。あの大きな目だ。大人が空想する無垢丶丶を絵に描いたような大きな瞳。その時も僕は一瞬にして彼女の瞳に圧倒されていた。
 ふたりは玄関をはいってすぐ左側にある、窓の小さな六帖の部屋に通された。いつも僕と父さんが寝起きしている部屋だ。その奥には祖父母が寝起きしている柱まで線香くさい部屋があったけれど、祖父自慢の『毎日屋』がそのすぐ奥ということもあって、店は休みにしていたけれど、それでは落ち着かないだろうということで敬遠された。
 意外なことに、祖父母はすでにふたりと顔見知りだったようで、最初から話はにこやかにはじまった。
 父さんは女の子の名前をわざわざ紙に〈切子〉と書いて僕に見せてくれた。
 なんだか恐い名前だと思ったけれど、父さんが〈切子〉と書いた文字のまわりを丸く囲みながらとてもうれしそうに笑っていたので黙っていた。父さんが僕の父さんでないような気がした。
 その横に〈慎一〉と僕の名前を書いて、しんいちと読むことと、真の心はただ一つという意味だということを、切子母娘に照れくさそうに説明した。
 〝真の心はただ一つ〟という意味がいまだにわからなかったけれど、切子は僕を見てにこやかにほほ笑み、「こんにちは」と明るくいって頭を下げた。
『お母さんといっしょ』の歌のお姉さんみたいに元気な笑顔で、殻をむいたゆで卵みたいにツルツルした声だった。
「お前とおない歳だぞ」父さんは僕の頭の上に手を置いて責めるように言った。
 じっさい一年ぶりにみる切子は、とても僕と同じ歳には見えないぐらいに成長していた。
 赤いチェックのワンピースは子供っぽかったけれど、僕よりもずっと大人びて見えた。身長さえも一年前は同じぐらいだったのが、五センチぐらい僕より大きくなっているように見えた。

 僕はなにも知らされていなかったことにも頭にきてたし、父さんの態度にも腹を立てていたので、その場では一度も笑わなかったけれど、切子はよく笑った。
 祖母が切子に話を向けるたびに明るくほほ笑み、祖父がしゃべると絶妙な笑顔をしっかり祖父に向けた。まるでどんな球でも返すベテランの卓球選手のようで、父さんにまでほほ笑んでいた。一年前の公園のできごとが嘘のようだ。
 おもに切子の笑顔のおかげで、その場のなごやかな雰囲気はずっと維持されていた。
 ――私たちはずっと昔から仲のいい知り合いで、これからもずっといい関係を続けていくのが当然でしょう、といった空気がずっと支配していた。天井から桜の花びらがハラハラと舞ってきそうなおめでたい雰囲気だ。

 大人の話がとぎれた頃を見計らって、「海が見たい」と切子が明るく提案した。
 本当に海が見たいわけではなく、子供が身を引く時を心得ているという優等生的な行為のように僕には見えた。{癪}(しゃく)だったけれど、当然ながら海への案内は僕がすることになった。
 海は歩いても五分とかからないところにあった。どこからか流れついてくる枯れ枝や空缶、ビールびん、黒いビニール袋などで砂浜が一年中汚れているような海だ。
 それでも海水浴シーズンになると人が集まってきてゴミの間に寝そべり、ゴミの間をぬうようにして、または押しのけて泳いでいた。みんな自分のまわり五十センチ内にゴミがなければすこしも気にならないようだった。
 海へ向かう坂道を僕が前を歩き、切子が黙って後ろからついてきていた。
「うちへ何しに来たの?」少し頭にきていたこともあって、僕はふり向きながら馴れなれしく切子に訊いてみた。
 でも、切子は肩をすくめただけで、なにも応えなかった。まだほほ笑んではいたけれど、僕と二人きりになった時の方が笑顔が硬くなっていた。
 僕に向かってまでほほ笑むのが面倒なのかもしれない、と僕は思った。
「きみのお父さんは?」
 そう訊くと、切子はいきなり立止まって僕をみた。一瞬にして笑顔がなくなっていた。
「知らないの?」
「何を?」
「わたしの父さんのこと」
「知らない」
「なにも聞かされてないのね」
「なんにも聞かされてないんだ! もうっ! いっつもそうなんだ!」
 不満げにそう訴えてみても、すでに切子は聞いてなかった。怖いぐらいに無表情になって、僕の横を素通りしていった。そして、きっかり八歩あるいたところで立ち止まってふり返り、僕を見た。その時も少しもほほ笑んではいなかった。ゾッとするほど冷たい表情で僕を見ていた。
「あなたのお父さんに殺されたのよ」きっぱりと切子が言った。
「――殺された?」僕は大きな声をだした。「僕の父さんに?」
「そうよ」
「ウソだろ?」
「本当よ。聞いてみればわかるわ」
「そんなの・・・・」
 切子はふたたび海に向かって歩きはじめていた。
「ウソだろ?」
 切子はふり向きもせずに歩いていく。そのうしろ姿は自信に満ちあふれていた。
「おい!」僕は叫んだ。「ウソだろ!」
「ウソよ」と彼女はあっさり否定しながらふり向いた。笑顔が戻っていた。以前と変わりない笑顔だったかもしれないけれど、僕にとっては気味の悪いものに変化していた。唇の横から血がしたたり落ちてくるような笑顔だった。
「死んじゃったの、一年前に。あなたを公園で見かけた日のちょうど一週間前よ」
「一週間前?」僕はわざと驚いた声をだした。僕を公園で見かけたことには一切触れなかった。
「そう、一週間前」
 切子は僕を見て笑っていた。どういう種類の笑顔なのかは判断できなかった。
「どうして死んじゃったの? 病気?」
「焼けたの。真っ黒に焼けてそれっきり」
「それっきり?」
「そう。それっきり――」
 いきなり切子は泣きだしそうになった。でも、涙がでてこない代わりにきつく僕をニラみつけてきた。僕をニラむことによって必死に涙をこらえているようにも見えたし、これまでなにも知らないでぬくぬくと生活していた僕を死ぬほど憎んでいるようにも見えた。
 おそらくその両方だったと、いまでは理解している。彼女はそこで絶対泣きたくなかったし、一年もの間、なにも知らずにぬくぬくと生きていた僕が無性に腹が立ったんだろうと思っている。
 切子はそれっきりなにも言わずに海へと向かい、堤防に坐って海を眺めつづけた。僕も彼女から離れて坐り、ゴミの中でうごめいている海水浴客をぼんやり眺めていた。父さんと切子の母さんが迎えにくるまで、ずっとそうしていた。

 その日以来、僕の家族と切子母娘は、急速に、なかば強引に親密さを増していった。急速に親密さを増していく努力を、父さんがしていた。
 父さんは仕事がら休日が一定していなかったので、その父さんの休日とみんなの休日が重なる日にはかならず四人でどこかへ行った。
 市民プール、海水浴、動物園、遊園地、高原へのピクニック――。とにかく思いつくかぎりどこへでも行った。『家族』という文字があれば、それが住宅展示場でも出かけていきそうな勢いだった。
 父さんに父親を殺されたと非難した切子も、僕の父さんに向かって決してほほ笑みを絶やすことはなく、心の底からその外出を楽しんでいるようにふるまっていた。

 父さんと切子の母さんが再婚するすこし前の初夏のある日、僕は母さんの写真を祖母からもらった。それは母さんのアルバムに貼ってあったもので、それまでにも何度か見せてもらったことがあった。
 祖母はいけないことでもしているみたいに家に誰もいない時を見計らって、僕の下着が入っている整理ダンスの引き出しの奥に、母さんの写真をしまいこんだ。
「いい? 内緒だよ」祖母は僕に顔を近づけながら小さな声で言った。「誰にも言っちゃいけないよ。いい? これはここに、ずっとしまっておくから」
「だれに内緒なの?」
「みんなにだよ。誰にも言っちゃいけないよ。ここにそっとしとくんだ。そっとだよ。わかったかい」
 おそらくその時期に僕に内緒で母さんの写真はすべて処分してしまうことになり、祖母が不憫ふびんに思って一枚だけ遺しておいてくれたのだと思う。
 それは結婚する前に父さんが撮った写真で、白樺の林を背にして立っていた母さんは、カメラを向けられた瞬間にうつむいてしまったらしく、写そうとしている父さんの左の足元あたりを見て笑っていた。
 つばの広い帽子をかぶり、白い大きな水玉模様がついた紺色のワンピースを着ていた。
 ささやかな夢と不安と期待で胸いっぱいだった母さんの、うれしくて楽しくて幸せでどうしようもない時期を集約したような写真で、裏には日付も何もなく、〈志賀高原にて〉と簡潔に書いてあるだけだった。鉛筆で軽く、表に文字の跡がでないように気をつかって書かれていた。

 それ以来、僕の母さんはいつでも笑っていた。家族にどんな不幸が起こっても、笑うことしか許されない拷問みたいに、無限の笑顔をふりまいていた。気分が滅入ったときに見るともっと滅入ってしまうような最悪の写真だ。
 でも、母さんの写真はその一枚しか残されていなかったので、僕はいまでもそれを大切に保管している。



 

 切子を初めて公園で見かけてから二年後の春、切子の母さんは僕の母親となり、切子は生れ月の関係で僕の妹となった。僕が天秤座の十月で、切子が水瓶座の二月だ。ふたりとも八歳で小学三年生になっていた。
 両親の再婚を機に、僕たちは海にもっと近い二階建ての家を借りることになった。『毎日屋』まで歩いて一分もかからない場所だ。
 二階の窓から海がみえる、なかなか素敵な家だったけれど、その海が見える部屋は優先的に切子に与えられ、僕は窓から隣家の空虚な外壁しか見えない部屋があてがわれた。
 抗議すると、すぐに切子が辞退した。でもすぐに父さんがそれを退しりぞけた。
「おまえは兄になるんだ」父さんは僕の腕をつかんで真顔で言った。「これからはちょっと違うぞ」
 どうみても切子の弟にしか見えない僕に向かって、父さんは真剣だった。それだけにもっと切実な思いだったのかもしれない。
「でも、切子はいいのよ」切子の母さんはやさしく言った。「ね、切子」
 切子は素直に肯いた。同情的な笑みもちゃんと作っていた。
 それがまた僕のしゃくにさわった。でも、なにも言わなかった。僕は黙ってみずから辞退した。
 それには誰よりも父さんがいちばん満足したみたいだった。

 切子は九月から名字を〈沢村〉に変えて、隣町の小学校から僕と同じ小学校へ転校することになったけれど、両親、とくに祖父母が心配した〈つれ子同士の再婚〉といってからかわれることは一度もなかった。少なくとも切子はまったくなかったと思う。
 それは彼女が見るからに聡明でじっさいに成績優秀なのと、彼女がよく見せる、そう簡単には人を寄せつけないあの笑顔丶丶にあった。
 彼女の笑顔には、誰もそう簡単にからかえない何かがあった。バカにできない何かが匂っていた。まだほんの小学生ではそれが何なのかまったくわからなかったけれど、誰もがそれを敏感に感じとっていた。大人からみると単なる屈託のない笑顔なのに、それとは違う微妙なものを、みんなが無意識のうちに感じ取っていたのだ。
 それが生れつきなのか、わざとそうしているのか、僕にはわからなかったけれど、彼女は誰の前でもその笑顔をすこしも崩そうとはしなかった。父さんにも祖父にも祖母にも、母さんにまでもその笑顔をふる舞っていた。鉄みたいに頑丈そうな笑顔だった。

 学校が始まっても、ふたりで一緒に下校したことは一度もなかったけれど、帰宅はいつも一緒だった。祖父の『毎日屋』の手前になってふり返ってみると、切子はちゃんと僕の後についていた。それは僕がどれだけ下校を遅らせても同じだった。
 そしていつも二人並んで『毎日屋』に入り、祖父の嬉しそうな笑顔を見ながら僕はシール付きのフーセンガムをもらい、切子は封が切ってあったグリコのアーモンドチョコを三個もらったりして(切子が身内になってから、『毎日屋』の商品構成に劇的な変化がみられたのだ)、そのまま二人そろって帰宅した。母さんはそんな僕たちの姿を見てうれしそうに「おかえりなさい」と声をかける。それが当時の日課だった。
 要するに切子は、誰もがいちばん危惧していたことを、誰よりも敏感に察知して、優等生的に行動していたのだ。
 僕は切子にされるがままになっていた。あい変わらずその時になっても詳しいことはなにも知らされていなかったので、あの海でのショックからまだ立直れないでいた。切子の父さんの焼死に僕の父さんが関わっているのは想像できたけれど、誰もなにも教えてくれなかったのだ。でもなにかを父さんはしたのだ。切子の父さんに対して、そして切子に対して――。
 そういう後めたさがあったこともあって、僕たち二人の関係はあきらかに切子の方が上だった。それはずっと変わることなく、成長して僕の方の背が高くなってもそのままだった。

 好天が続いた十月のある日、僕は校門の横にあったキョウチクトウのしげみに隠れて切子を待ち、後をつけてみることにした。
 それほど待つことなく、でてきた切子はひとりだった。
 いつも彼女はひとりだった。休み時間もそうだった。
 彼女とクラスは違ったけれど、いつ見かけても児童図書室で借りてきた本をおとなしく読んでいるか、つぎの授業の予習をしているかだった。たまに女の子たちの中にいるときでも、彼女はひとりでいるみたいだった。あのほほ笑みは絶やさないのだけれど、それだけにより一層孤独にみえた。
 
 切子は校門を出たところで、いきなり家とは反対方向に曲がり、冬でも臭うドブ川に沿って駅の方角へと向かった。
 あまり近づいても気づかれるので、彼女が角を曲がるたびにその角まで走る、という方法をとった。その角までが長かったりしたときは、途中の電信柱に身体を隠してやり過ごすことにした。
 そんなドジな探偵みたいな行動をとらなくても、彼女は一度も後ろをふり返らなかった。まるで家路を急ぐように迷うことなく、一定の速度で歩いていく。後をつけている僕が恐くなるぐらい、彼女はなにかにおびき寄せられるように歩いていった。
 そうして彼女が目指したところは、駅の裏側にある〈人形の森〉と呼ばれている公園だった。
その公園のほんとうの名称は〈北の山公園〉というのだけれど、入ってすぐ右側に世界各国の人形が集められた古いレンガ造りの人形博物館があって、僕たちはその人形博物館を〈人形の館〉、北の山公園を〈人形の森〉と呼び、ふたつこみ丶丶で恐れていた。
 みんなが恐れるだけのはっきりとした根拠はなかったけれど、だれもが名前を聞いただけで、暗く、陰湿な森をイメージして、怯えてしまう存在だった。
 すくなくとも八歳の僕がひとりで行きたくなるような場所ではなかったし、ひとりで行ける場所でもなかった。

 切子は、高いところで樹木の葉が重なってトンネル状になった坂道を、それまでと同じように一定の速度で登っていくところだった。ジャッジャッジャッと、乾いた音をたてながら道に敷かれた砂利を踏んで、もちろんふり向きもしない。
 〈人形の館〉は、その坂道をすこし昇った右側にあったが、人の気配は感じられなかった。置物みたいにしいん丶丶丶としていた。
 〈人形の館〉の前に自動車が六台ぐらい停められるスペースがあったけれど、一台も停まっていなかった。隅に錆びた自転車が二台棄てられているだけだった。一台がもう一台に寄りかかっていて、そのまま錆ついてしまったように見えた。
 トンネル状の坂道の先に、ぽっかりと蒼い空が見えていた。切子は坂道を昇りきってしまったらしく、もう姿が見えなくなっていた。
 ずっと上の方で重なった葉が、風にあおられて蝶のようにうごめきだした。それにつれて道の両側に植えられた潅木かんぼくもザワザワと騒ぎだした。
 僕は左右も見ずに、あわてて砂利道を登っていった。
 坂道を登りきったところでいきなり美しい緑の芝生広場が見渡せるのを見て、僕はサッと身体を伏せた。クツの中に砂利が何個かはいってきたけれど、そんなことかまっていられなかった。
 そこからでも、芝生広場の中心に、大きなケヤキが一本生えているのが見えた。おとな二人でも抱えきれないぐらい太い幹をした立派なけやきだ。無数の蝶がたかっているように、何千枚もの葉が激しく揺れていた。
 切子は入口から左側へむかって二つ目のベンチに坐り、そこから大きなケヤキをじっと見上げていた。
 ほかには誰もいなかった。まるい輪になった広場には全部で六脚のベンチがあったけれど、だれも坐っていなかった。ゴミさえも落ちていなかった。時折、美しい緑の芝生の上を、枯葉がサーっとすべっていった。
 切子はベンチに半分ぐらい腰かけてしゃんと背筋をのばし、行儀よく両手を脚の上に置いた格好でケヤキを見上げていた。すこしも動かなかった。呼吸しているのかどうかもわからなかった。彼女も置物みたいに見えた。

 どれだけ待ってみても彼女にまったく変化が見られなかったので、僕はあきらめてそっと家に帰ってきた。でも、祖父の『毎日屋』の前まで来ると、切子はいつものように僕の後にピッタリついていた。
 僕は彼女のことについて考えることを、しばらく放棄することにした。



 

 父さんと母さんが再婚した翌年の八月十五日、新たな謎がまた起こった。
 その頃になっても僕は切子とあまりしゃべらなかった。彼女もけっして自分からしゃべろうとはしなかった。もちろん日常的に交わされる会話はあったけれど、それでも中学一年で習う英会話の知識ですんでしまう程度のものだった。
「おはよう」と僕。
「おはようございます」と優等生らしくていねいに頭を下げる切子。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 だけど、その日はめずらしく、切子の方から僕に話しかけてきた。
「ちょっと私の部屋へ来てみませんか?」
「え? キミの?」
「そう。私の――」
「いいの?」
 僕がそう訊くと、切子はコックリと肯きながらニッコリとほほ笑んだ。どういう種類の笑顔かはわからなかったけれど、警戒しなければならないような笑顔ではなかった。

 はじめて見る切子の部屋は、想像していたとおり、優等生らしくきっちりと整理されていた。
 床には明るいピンク色のカーペットが敷かれ、海が見える窓のそばに置かれたベッドには、洗いたてのシーツがシワひとつなくぴったりと掛けられていた。
 本棚には祖母に買ってもらった〈世界の名作・傑作撰〉の赤い背の本が、レンガの壁みたいにきっちりと並んでいた。いつもどれかを読んでいるようだったけれど、彼女の場合は一冊一冊ていねいに、まるでレンガを積んでいくような読み方だった。
 僕が主張してふたりとも買ってもらったエンピツ削りつきの学習机の上には、素焼きの小さな鉢に植られた樹がぽつんと置いてあった。葉は濃い緑色で、肉厚のかわいい純白の花がいくつも咲いていた。
 机の上もきれいに片付けられていただけに、まるでクラスメイトの突然の死を{悼}(いた)んでいるように見えた。
「ジャスミンっていうの」嬉しそうに、うしろで切子が言った。いつも見るほほ笑みとはあきらかに違っていた。
「すっごくキレイでしょ。鉢で手に入れるのはとてもむずかしくって、だから去年は飾ることができなかったんだけど・・・・」
 僕は匂いを嗅いでみた。とてもいい匂いがした。
「とてもいい匂いだね」と僕は正直にいった。
 それを聞いて切子はうれしそうにほほ笑んでいた。本当にほほ笑んでいるように見えた。
「どうしたの? 買ってもらったの?」ふり向いて訊いてみても、切子はなにも応えずにニコニコしていた。
 そのときノックをしてからすぐに母さんが入ってきた。
 僕を見てちょっと驚いたあとにニッコリとほほ笑み(安心したほほ笑み)、切子になにか言おうとしたときに、机の上に置かれたジャスミンを見つけて息を止めたのがわかった。
 母さんはそのままなにも言わずに、しばらくジャスミンを見ていた。ずっと息を止めたままだったと思う。それぐらい、痛いぐらい静かだった。
 やがて、母さんはゆっくりと切子に目を向けた。ギッギッギィッーと首がきしむ音が聞こえてきそうなぐらいぎこちない動きで、その間に母さんの顔がとても悲しそうな表情に変化していった。
 切子も黙って母さんを見ていた。母さんと違って、とても恐い顔をしていた。はじめて見る種類の顔だ。
 母さんは切子から眼をそらしてピンク色のカーペットに眼を落とし、そこへゆっくりと息を吐いた。母さんの重たい息がカーペットの上を這うように広がっていくぐらいの時間、だれもが沈黙していた。動くこともなかった。母さんはカーペットをじっと見つめ、切子は恐い顔をしたままじっと母さんをにらんでいた。

 なにも言わずに母さんが立ち去った後も、切子の笑顔は戻らなかった。彼女は黙り込み、少しずつ広がってくる母さんが吐いた重い息を目で追うように、ピンク色のカーペットをぼんやり見つめていた。
「どうかしたの?」僕は切子の顔をのぞき込んで、陽気に訊いてみた。「顔色が良くないよ」
 じっさいにはカーペットのピンク色が彼女の白い顔に映りこんで赤くほてっているように見えていたけれど、僕はそう訊いてみた。
 でも、彼女はなにも言い返さなかった。カーペットにじっと目を落としたままだった。
「なんでもないの」と、しばらくしてから呟くように言った。そしてそのまま僕に顔を向けることもなく、
「悪いけど、ひとりにしてくれない?」と言った。「ほんとうに、悪いけど・・・・」

 それが九歳の時だ。僕にとっては〈切子の謎〉が増えるばかりで、ひとつも解明されていなかった。彼女の父さんの死も、〈人形の森〉へ通う彼女も、ジャスミンの鉢植えも――。そしてゾッとするような切子の笑顔も僕には謎だった。
 信じられないことかもしれないけれど、僕が十七歳になるまで、すべての謎が謎のままだった。
 祖母はなにを訊いても「そっとね、いい? そぉっとよ。それが一番なの」ときめつけるだけだったし、祖父はなにも知らないフリに徹し(ほとんど聞こえないフリだ)、当然父さんや母さんに聞けることでもなかったので、謎を解明するのにそれから八年間も待つことになったのだ。
 とにかく切子に関するさまざまな謎の解明は、僕が十七歳になった夏にはじまり、その夏ですべてが終わる――。


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