見出し画像

【長編小説】切子の森 第5章

 第五章

  1

 八月十五日、快晴――。
 でも、雲ひとつないというわけではなかった。クラゲみたいな形をした綿雲がふたつ対になって浮かんでいて、今にもくっついてしまいそうだった。
 おだやかな海には小さなヨットが点々と見え、あまりの暑さにうんざりしたようにのんびりと動いていた。
 海の匂いは展望台までは届いてこなかった。そのかわりむせる丶丶丶ように強い緑の匂いと、蝉のにおいがした。

 切子は展望台へ来た時から壁ぎわにある冷たいコンクリート製のベンチに腰掛けていて、右手で下唇をつまみながらぼんやり海を眺めていた。もう三度、長いため息をついた。そのたびに彼女に目を向けても、切子は僕を見なかった。ぼんやり海を眺めたままだった。
 僕は展望台のふち丶丶に坐って、望遠鏡のペンキが剥げそうなところをペキペキと割りながら剥いでいた。
 そこから首をのばして下を見降ろしてみると、樹木のすき間から〈人形の館〉の屋根が見えた。館の前に植えられたシュロの葉も見えた。葉はプラスチックでつくられているみたいにピクリとも動かなかった。
 そのシュロの葉の間から、僕と同年代ぐらいの学生の姿が見えた。
 女の子ふたりを前にして、大きな身ぶりで話しをしている背の高い男と、その横にいた黒ぶちメガネの男が、背の高い男と女の子の方を交互に見ながら笑っていた。
 みんな図書館の帰りみたいにまじめな格好だった。まじめな服装に、まじめな髪型に、まじめなバッグ。校則を必要としない、まじめな学生の集団だった。
 彼らはこれから〈人形の館〉へ入るのに友だちが来るのを待っているようにも見えたし、〈人形の館〉から出てくる友だちを待っているようにも見えた。
 いずれにしても、展望台まではなにも聞こえてこなかった。大きな身振りで話す男の声も、バッグを胸の前でかかえて爽やかに笑う女の子ふたりの笑い声も、なにも聞こえてこなかった。ささやかな葉のすれる音と、耳鳴りのような蝉の声が聞こえるだけだった。
 その群れ丶丶から少し離れたところで、水色のフレアースカートに白いブラウスを着た女の子が、僕を丶丶じっと見上げているのに気づいた。髪はきちんと両側で結んで、胸の前に垂らしている。その群れの友だちらしかった。僕はあわてて首を引っ込めた。
「どうかしたの?」切子は下唇をつまんだまま、僕の行動を怪しむように訊いてきた。
「どうもしない」僕は立ち上がってジーンズについたほこりを払い、切子の横に坐った。
 切子は唇をつまんだまま僕を見た。もともと薄い色だった唇が、熟した苺みたいに赤くなっていた。
 ひと差し指でそのくちびるに触れると、切子はすぐに手を放して僕をにらんだ。
「誰かに見られたのね」
「向こうは気づいてないかもしれない」
「女の子?」
「男二人、女三人のグループで、見られたのは女の子ひとり」
「いくつぐらい?」
 僕たちと同じぐらいだと思うと言うと、切子は顔をしかめてため息をつき、ふたたび海に目を向けた。今度はぼんやりしていなかった。海を睨むようにじっと見ていた。
「来るわね」ぽつりと切子が言った。
「まさか」
「間違いなく、来るわ」
 展望台には屋根がなかったので、丸く切りとられた夏の空がくっきりと見えていた。大きな井戸の底から見上げているような空だ。その空には雲ひとつなかった。
「来て」切子はいつも図書館へ行くときに持っていくバッグをもって立ちあがった。バッグはいつもと違ってパンパンに膨らんでいた。
「どこへ?」
「いちいち聞かないで」僕の手をとりながら今度はすこし強く言った。いつものように冷たい手だったけれど、すこし汗ばんでいた。
「すぐ近くなの」
 切子は僕の手をつかんで展望台を出ると、帰り道の方向ではなく、展望台の裏側へと向かった。
 そこには道らしきものはまったくなく、くるぶしまで埋まってしまうぐらい枯葉が積もっていた。腐って倒れた木もそのまま放置されていた。それでも切子は少しも迷うことなく、枯葉を蹴散らせながら進んだ。彼女にだけ見える道がひらけているみたいだった。
 切子は展望台の裏側へ来ると僕の手を放し、壁ぎわにバッグを置いて僕を見た。息はすこしも乱れていなかった。
 展望台の裏側の壁は黒ずんでいて、じっとりと湿っていた。展望台ができてから一度も陽が当たったことがないみたいだった。
 いままで嗅いだことがないぐらい強い緑の匂いと、カビのにおいが辺り一面にたちこめていて、人が入ってきてはいけないような自然の緊張感が痛いほど肌に感じられた。
 展望台の裏側の壁に沿って、巨樹が張りついていた。枯れた枝が複雑に絡みあい、展望台の壁にぴったりと張りついたまま死んでいた。その巨樹には葉が一枚もなく、まるでそこいら一面の枯葉を彼がすべて請け負ったような感じだった。
「どう?」どこか得意げに切子は言った。「気味悪いでしょう」
 僕は肯いた。いきなり醜い巨人の前に立たされたような気分だった。そんな僕を見て、切子は笑っていた。
「坐ってみて」
「ここに?」
「どこでもいいわ」彼女は巨樹に近づいていき、地面から露出していた太い根に腰掛けた。
 ザワザワとまわりの葉の擦れる音が耳のすぐ近くで聞こえた。セミはあい変わらず無感動な声を張りあげていた。
「落ちつかない?」と切子。
「そうでもないけど・・・・」と僕。
「落ちつかないようね」切子はまだ立ったままだった僕を見上げて、楽しそうに笑い、左手で巨樹の根にできていた醜いこぶを撫でていた。猿の脳ミソみたいな形をした瘤だった。
「父さんは展望台へ来ると、私のことなんかすっかり忘れて、ずっと街を眺めてたの。望遠鏡も使わずにね。わたしは退屈になってこの周りをウロウロしてたんだけど、結局ここがいちばん落ちつく場所だったなぁ」
 そう言いながら、切子はそこから見える森を懐かしそうに見渡していた。
「父さんが死んでしまってから、ここへは一度も来てなかったんだけど、っていうか、ひとりでは怖くて来れなかったんだけど、母さんの再婚が決まった時に、ここへ来る決心をしたの。父さんに言いつけてやるって」と切子は僕を見て笑った。
「再婚するなんて、ひどいでしょって?」と僕。
「そうそう」と切子。「その時は本気だったわ」と笑う。
「もうここは立入禁止になってたんだけど、ここも、この樹も、以前とまったく変わってなくて――。いまにも父さんが現れそうな気がして、私はここに腰掛けてずっと父さんを待ってたの」
「言いつける気まんまで」と僕。
「そう。なんならふたりで丶丶丶丶母さんに抗議してやろうって思ってたわ」と切子が笑う。
「でもね、当たり前なんだけど、父さんはまったく現れてくれなくて、みんなから、父さんはいつも私を見守ってくれてるからねって聞かされてたから、父さんが見てたら絶対とがめられるようなことを色々としてみたんだけど、ぜんぜん現れてくれなかったの」
「とがめられるようなことって?」
「たとえば、展望台の、望遠鏡があるあのフチに立って、いまにも飛び降りるぞーってするとか、まだ生きてる木の枝をワザと折ったり、花を引っこ抜いたり、とにかく思いつく限り、暴れるだけ暴れてやったの。まあ、小学生だったから、たいしたことしてないんだけどね。――望遠鏡の料金箱を蹴り壊してもやったわ」
「あれはキミが・・・・」
「え? なに?」
「料金箱はキミが蹴り壊したんだ」
「そうよ。ひどいでしょ」と切子。「そんなことしても、父さんはまったく現れなかったの。だから、いつも見守ってくれてるなんて絶対ウソだと思って――。
 結局、それで父さんが本当にいなくなってしまった丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶ってことを知ったっていうか、思い知ったっていうか、〝父さん〟っていう存在が、本当になんにもなくなってしまったんだって心から思ったの。そのとき初めて泣いたわ。もう声に出して、わんわん泣いたの。それまで全然泣けもしなかったんだけどね」
 そのとき展望台の方が急ににぎやかになった。声に聞き覚えはなかったけれど、切子が言った通り、さっきの学生の群れが上がってきたみたいだった。
「スッゲー」と男の声がした。
「うわーっ」と女の歓声。声もなく口笛を吹くものもいた。
 切子はぼんやりと森に目を向けたままじっとしていた。僕も身体を動かさずに群れの気配をうかがっていた。
「ほんとに見たのかよ」
「見たもん! ぜったい、いたもん!」と今にも泣きそうな女の声。
「幽霊だよ、それ」
「ここから飛び降りたんだ」
「うひょー」
「やめてよ」
「危ないわよ」
「うわっ、押すなよ」
「もう帰りましょうよ」
「恐いんだ、こいつ」
 切子が僕の手をにぎってきた。僕は音がしないように気をつけながら、瘤を挟むような感じで切子の横に坐った。そのとき風が吹いてまわりの樹々が騒ぎだし、切子が手に力をいれた。
「ちょっと待てよ。せっかく来たんだ」
 ぎぃーっ、ぎぃーっと望遠鏡が鳴いた。切子は手にもっと力をいれた。
「お、スッゲー」
「なに? なに?」
「なに見てんの?」
「おーっ」
 切子が僕を見ていた。そして僕の左頬に手をおいて、ゆっくり僕の口にキスをした。
「帰るわよ」
「帰ろ、帰ろ」
 僕は切子の長く伸びた白い首をみていた。震えるように小さく動いていた。ちょっとしたことで切れてしまいそうなぐらい細くて青い血管さえも、愛おしく感じられた。
 学生の群れの声はしだいに遠ざかっていった。
 しばらくして彼女は僕の肩に頭をのせた。
「きょうは何の日だか知ってるよね」
「きみの父さんの十一回目の命日」
「わかってたら協力して。そう手間はとらせないわ。わたしも今日ですべてを終りにしたいの」
「終りって、なにを?」
「父さんの幻想をよ」決然と切子は言った。「もう消し去りたいの。消去。ピッとね。どんな扉も閉めなくちゃいけないわ。もう開けなくてもいいようにピッタリと。あとは窓からのぞくだけ」
 切子は顔をもどして僕を見た。
「それにはあなたの協力が必要なのよ」
「何をしろと?」
「セックスよ」そよ風のようにサラリと言った。
「セックス?」僕はまじまじと切子の顔を見た。
「本気なのか?」
 切子は僕の顔をしっかりと見返したまま深く肯いた。
「本気よ。ここじゃないと意味ないし、今じゃないともう永久に無理よ」
 僕は周囲をゆっくりと見渡してみた。鮮やかな緑色した苔にびっしり被われた赤松とか、根から横倒しになった栗の木とか、途中から折れてしまった楓とかが息をひそめて僕たちの会話をじっと聞きいっているような気がした。
 切子は僕から離れ、バッグから大きなタオルシーツを取りだすと、巨樹の根元にサッと敷いて、さっそく服を脱ぎにかかった。
「ちょっと待てよ」僕はTシャツを脱いだ切子の手をとった。切子はTシャツを右腕に引っかけた格好で、不思議そうに僕を見た。
「どうかしたの?」
「なにか間違ってる」と僕は言った。
「いいの、なにが間違ってても。そんなこと問題じゃないわ」切子はTシャツを巨樹の枝にひっかけた。そうして下着はつけたままタオルシーツの上に仰向けになって僕を見た。彼女の肌はあくまでも白く、ぼんやりと発光しているように見えた。
「お願い、私を助けると思って――」切子はそう言ってゆっくりと目を閉じた。
 木洩れ日が彼女の身体の上をくり返し愛撫していた。下着のストラップが肩から落ちていて、薄赤い痕がくっきりついているのが見えた。
「なにを考えてるの?」切子は眼を閉じたままだった。「なにも考える必要なんてないわ」
 それでも僕は動かなかった。
「私だってセックスがしたいわけじゃないのよ。セックスがしたくって言ってるんじゃないの。わかるでしょ」
「それはわかる。でも、なぜ」
「なぜ?」切子は目を開けてまじまじと僕を見つめた。
「なぜって訊くの? いままでいろいろと話をしたじゃない。それでもなぜって訊くの?」
 僕は黙った。息が苦しくなっていた。僕は深呼吸をした。
「あなたならわかってくれると思ってたけど――」
「父親の幻想に、幻想の男を重ねても、なにも変わらないと思う」
 切子は息をおおきく吸いこんだ。そして、ゆっくり時間をかけて息を吐いた。
「あなたなら、それもわかってくれると思ってたわ」
 僕は肩をすくめて巨樹にかけられたTシャツをみた。風がほとんどなかったので、Tシャツの下の方がほんの少し揺れているだけだった。
「見込み違いで悪いとは思ってる」
 切子はなにも応えなかった。黙ってじっと目を閉じていた。
 しばらくして彼女はゆっくりと立ち上がってTシャツを身につけ、ぱんぱんとタオルシーツについた枯葉のかす丶丶をはらい、きちんとたたんでからバッグに戻した。僕の方は一度も見なかった。僕を巨樹の瘤の一部でもあるかのように、いや、そのときの彼女には瘤以下の存在だっただろう。とにかく僕をまったく無視していた。
 そのまま帰ろうとする切子の腕をとってみたけれど、彼女は止まらなかった。そのままつかんでいると、腕だけを置いて帰ってしまいそうだった。僕は手を放した。
 そのようにして、彼女の〈父さんの幻想の扉〉は閉じられることなく終わった。
 それが望遠鏡のコインケースのように、いつまでもぶざまに開いたままだったにしても、僕にはどうすることもできなかっただろう。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?