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【長編小説】切子の森 第3章

 第3章

  1

 それからしばらくの間、切子は〈人形の森〉に姿を見せなくなった。しかし、家の中では以前と変わりなく、〈人形の館〉のできごとだけでなく、その存在すらなかったみたいに平穏な生活を送っていた。少なくとも僕にはそう見えた。
 それに関して彼女からなんの説明もなかったし、僕からもなんの説明も求めなかった。いままでどおり家の中ではあくまでも家族であり、僕は兄で、彼女は妹だった。
 すでに学校も夏休みに入っていたので、毎日午後になると〈人形の森〉へ行くのが僕の日課になっていた。僕が家をでる前に切子が「図書館へ行ってきます」といって先に家をでるのだけれど、〈人形の森〉には現われなかった。本当に図書館へ行っているみたいだった。

 八月に入って一週間ほど経ったある日、切子は何ごともなかったように芝生広場にやってきて、いつも彼女の坐っている位置に僕がいても構わずにベンチの右端に腰かけた。
 僕はなにも言わなかった。切子も黙っていた。その日は風が強く、葉が一枚もなかったケヤキが、うなるような音をたてていた。
 大切なケヤキがイジメられているようなその光景を見ても、彼女はなにも言わなかった。なにも見ていないみたいに、じっと黙ったままケヤキを見上げていた。
「きょうは海の匂いがするね」と僕が大きく深呼吸をしながら明るく言ってみても、なにも反応はなかった。聞いてもいないようだった。
 アルバイトの帰りみたいにラフな格好だったけれど(スリムなジーンズに、無地の白いTシャツ)、顔が金属のように硬くひき締まって見えた。補導員に質問されないように背筋をしゃんと伸ばし、膝をぴったりと閉じていた。いつも図書館に持っていく大きな布のバッグを膝の上にきちんと置いていた。
 僕が声をだして大きく背伸びをすると、切子は手にもったバッグをぎゅっと握りしめた。でもなにも言わなかった。白い手がよけいに白くなっただけだった。
 しばらくしてから彼女は、ベンチの上に置いてあったヘルマン・ヘッセの『デミアン』にゆっくりと目を向けた。
「よくここで、これが読めるわね」
「読んでないんだ。――一ページもね」と僕は言い訳がましく言った。
 切子は僕の顔を見た。でも、すぐに伏せた。
「なにもないと、人が来たときに、なんか落ちつかないだろ?」
「だれか来たの?」
「そりゃ二週間もあったからねぇ」と責めるように切子を見たが、彼女の反応はなかった。「正直、この本があって助かったってこともなかったけどね」
「そう――」
 強風に吹き飛ばされてしまったように鳥の啼き声はすこしも聞こえなかったが、アブラ蝉の声はよく聞こえていた。葉がこすれる大きな音にも少しも負けてはいなかった。悲鳴じみてさえいた。
「ゲーム再開だね」
「そのつもり。でも、ゲームじゃないわ。今度は本気よ」
 僕は切子を見た。切子も僕を見ていた。噛みつきそうな目だった。家では絶対見せたことのない種類の目だ。
 切子はサッと立って僕を見降ろした。そして、黙って右手を差しだした。
 僕はしばらくその右手を見つめていた。切子も自分の右手を見ていた。なぜ、いま自分が右手を差し出しているのかを考えているような目をしていた。
 その右手をにぎってみると、焼きたてのパンみたいに熱かった。
「立って」
「熱がある」僕は手に力をいれた。
「立って。お願いだから――」イライラを抑えるように、切子は言った。「今日までのことはゴメン。謝る。でも、怒らないで。わたしも必死なの」
 立ち上がって彼女の額に手を当てようとすると、切子は一歩身をひいた。
「それも持って」と、ヘッセの『デミアン』に目を向けた。
「ここでは読まなくても、捨てるわけではないでしょう」そう言ってちょこっと笑った。
 そのようにして、僕は彼女しか知らない〈人形の森〉のへと導かれていった。



 

 切子は僕の手をきつく握ったまま、入口とは反対方向へと歩きだした。
「芝生広場を一周するの?」と訊いてみても、応えがなかった。ふり向きさえもしなかった。
「やっぱり、熱がある」そう訴えると、手に力が入った。
 黙って! と言っているようだった。
 いつも僕たちが坐っているベンチよりもふたつ奥の、もう何年もひとが坐っていないようにみえる朽ちかけたベンチまでくると、彼女は手を放してゆっくりとふり返り、僕を見た。でも、なにも言わなかった。
 彼女はそのままベンチの裏側へ回ると、そこでふり向いてもう一度僕を見てニッコリとほほ笑み、それからすうっと潅木の茂みのなかに消えた。
 茂みには子供が通れるぐらいの穴があいていて、その向こう側は暗闇だった。いま切子が向こう側にいることさえわからなかった。さっきまで切子がいたのが夢のような気がした。
 茂みの黒い穴の中へ顔をつっこんでみると、以外にもそんな場所に階段があった。土に半分埋まった木の棒の階段で、それを降りたところに切子が僕を見上げていた。彼女の背後には、木々によって縦に区切られた明るい街並がくっきりと見えていた。
 しばらくして彼女はなにも言わずに右方向へと歩いていった。
 あわてて彼女が立っていた場所まで降りてみると、暗いトンネル状になった木々の中を歩いていく切子の姿がみえた。どこまでいくのかわからなかったけれど、それを見ていると、そのままどこまでも行ってしまいそうな気がした。空までも歩いて行ってしまいそうだった。
 僕はあわてて切子の後を追った。
 しばらくいくと、その道は行き止まりだった。道の両脇に立てられた木の柱に、木の板が乱暴に打ち付けられていて、〈関係者以外 立入禁止!〉という看板も掛かっていた。切子はそこで僕を待っていた。
 木の板の間から、また土に半分埋まった木の棒の階段がはじまっているのが見えた。五本目まではなんとか数えることができたけれど、六本目は暗闇の中に消えて見えなくなっていた。
 僕は木の板のすき間をくぐろうとする切子の腕をとった。
 切子はふり向いて僕を見た。つぎに僕の手を見た。そしてまた僕に目を向けた。どれだけ水をかけても決して湿らないような乾いた目をしていた。
「あなたもよ」と切子。「あなたが来なければ――」彼女はそこですこし黙った。そして僕から目をそらし、僕の腕を引き離し、木の板をくぐりぬけてから「それだけのことよ」と言ったのは賢明だった。少なくとも僕にとっては「見損なう」よりも効果があった。
 僕もしぶしぶ木の板くぐった。

 そこからは木の階段がなければ昇れないぐらい急な坂になっていたが、切子は魚みたいにスイスイ登っていった。ところどころ地面から突き出ている石につまずくこともなく、ふり積もった枯葉に足をとられることもなく、ずいぶんと歩き慣れているみたいだった。
 その坂道を登りきったところに、公衆トイレみたいな建物があった。
 彼女はその建物の前で立ち止まってふり返り、登ってくる僕の姿を見て満足そうにニッコリほほ笑んでから、建物のなかに消えた。まるで強力な黒魔術にかけられて、誰かに誘導されているように見えた。
 近くまで行ってみると建物は思ったよりも小さく、公衆トイレをひとまわり小さくしたぐらいのもので、なかに入らなければなにも見えない壁のつくりまでも、公衆トイレそっくりだった。クリスマスケーキのように丸い建物だ。壁面は甘味が強そうなクリーム色で、焼きすぎたクッキーみたいにザラザラしていた。
「どうしたの?」建物の中から切子の響く声が聞こえた。僕まで黒魔術にかかってしまいそうな声だった。
 まわりの木々が警告するように騒ぎだしていた。ザアザアと滝のような音をたてていた。
「どうかしたの?」今度はすぐ近くで聞こえた。夢から醒めるような声だった。
「何だい? この建物は」僕は様子を見にきた切子に訊いてみた。
「いいから中に入ってみて」
 彼女に手を引かれるままに建物の中に入ってみると、いきなり街並みがスッキリと見渡せるのを見て、僕は息をのんだ。暗い映画館のなかで、いきなり鮮明な映像を見せられたようだった。
 僕は深くため息をついた。
「海が見えるんだね」
 八月の陽光にくっきりと照らしだされた街の情景は、海辺の墓地のように{しん}(丶丶)と静まり返って見えた。
 うす汚れた四角い建物の駅ビル、青いかまぼこ屋根の市民体育館、海に向かって真っすぐ伸びる銀杏の並木道路。
 そういう中を、バスやクルマがすべるように動いていた。乱暴な運転でも、ここではフィギュアースケートのように華麗に見えた。列車さえも右からすべるように来て駅に停まり、人を吐きだしてから、今度は掃除機のように人をスウッと吸い込んだかと思うと、またゆっくりすべって無音のまま左へと消えていった。
 うしろに広がる青い海にも、もちろん音はなかった。海面は強風で大きく波打っているにもかかわらず、まるで{凪}(なぎ)の海のように静かなものだった。その水平線上には、薄墨で描いたような島影がうっすらと見えていた。
 切子は僕から手を放し、背後の壁に取りつけられたコンクリート製のベンチのほこりをはらってから腰掛けた。
「どう?」
「スゴイねー!」僕は正直に言った。「こんなところに、こんな場所があるなんて、ちっとも知らなかったよ」
 それを聞くと、彼女は満足そうに笑っていた。
 右側にペパーミント色のペンキが塗られた望遠鏡が、空を向いたままの状態で放置されていた。五十円と大きく打刻されたコインケースが、お金をいれる場所が黄色のビニールテープでふさがれているにもかかわらず、フタが誰かに蹴り壊されてパカンっと開いていた。
「この場所は知っていても、この眺めは見えなかったみたいだね」
 僕はふたを元に戻しながら言った。だけどそれはコウモリみたいに高い音をたてるだけで、元には戻らなかった。
 望遠鏡のアタマをなでていると、パキンっとペンキが割れて黒い錆びた金属があらわれた。その他にもいたるところに黒い錆が見えていたけれど、僕が剥がしたところがいちばん{艶}(なま)めかしく、痛々しかった。
「昔は、これで街を観たんだね」僕は望遠鏡の傷をひと差し指でこすりながら訊いた。
「何度もね」と切子がすぐに応えた。「にはなんども夢を観せてもらったわ」
「そりゃ僕も観たいもんだね」
 そう言いながら望遠鏡を街の方角へ向けようとすると、ひどく大きな音をたてて軋んだ。まるで視線を空から街へ移されるのを強く拒んでいるみたいだった。のぞき込んでみても、闇のなかにほこりが無数の星のように浮かんでいるのが見えるだけだった。
「ここが閉鎖されてからもよく来てたの?」と僕は切子に訊いてみた。
「今日みたいに天気が良くて、風が強い日にはよく来てたわ」
「風が強い日限定?」
「風が強いと、今日みたいに海の向こうまでスッキリと見渡せるの。それがホントに気持ちよくって! ――そう思わない?」
「確かに」
 僕は素直に肯いた。本当に気持ちのいい光景だと思った。 
「アナタにはこの場所を知っておいて欲しかったの」とゆっくりと街を見渡しながら切子が言った。
「――でも、今日は、これで終わりにしましょう」と立ち上がりながら僕に手を差し出した。握ると、心なしか熱が上がったような気もする。
「予定はちょっと狂ってしまったけど、もうそれほど時間はかからないわ」
「どれだけ時間がかかったって、僕は構わない」
「わたしは急いでるの。いまならまだ間に合うから」
「間に合う?」
「うしろは決まってるの。でも、大丈夫。もう迷ったりはしないから」
 よくわからないながら、僕は切子を見たまま肯いていた。
「大丈夫、大丈夫――」と切子は体育教師みたいに自信ありげに僕の肩をたたいた。「あなたならきっとクリアーするわ」
 僕は肩をすくめた。
 成功しないほうに賭てもいいと思ったけれど、もちろん彼女には黙っていた。



 

 その閉鎖された展望台で、切子はそれまでの謎をすべて話してくれた。ひとつの謎を話し終えると次の謎、というように、じっくりと時間を掛けて話しをしてくれた。
 多くの謎がそうであるように、彼女の謎も遠い昔のおとぎ話を聞いているようだった。それまで彼女が友だちをひとりもつくらなかったことも、高校生になって白い手ぶくろをはめだしたことも、すべて遠い昔のことのようだった。

 かつて、切子の父さんについて祖母に訊いたとき、祖母はあい変わらずそっとしておくことを僕に強要した。
「そっとしておくのが一番なんだよ」と祖母は決めつけるように言った。「そぉっとね、そぉっと――」
「でも、十年も前のことだよ」
 祖母は大きく鼻孔をふくらませながら首を左右に振った。
「たとえ百年でも、そっとしておくのが一番なんだよ。いつまでもね。そうすればすべて消えてなくなるよ。そういうもんだよ」
「真相は知ってるんだね」
「知らないよ。私は何にも知らない。ホントだよぉ」
 祖母はそれっきり首を左右にふるだけで、僕にとりつくしま丶丶丶丶丶丶を少しも与えなかった。

 『一視いっし同仁どうじん――誰に対しても分け隔てなく、平等に接すること』が座右の銘だと公言する祖父は、又聞きは平等に反する丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶といって、なにを訊いても首を左右にふるだけで、かたくなになにも話そうとはしなかった。
 それって、一視同仁と関係ないのでは? と僕が指摘すると、祖父がすこし詰まった。そのとき四十半ばのぷっちょり太ったおばさんが亀の子タワシだけをもってレジまできたので、結局、祖父の話しは聞けずじまいだった。

 つぎに母さん。
 母さんには切子も父さんもいない時を見計らって、台所で筑前煮の味見をしているときにいきなり背後から「十年前のことなんだけど――」と切りだしてみた。僕はキッチンの椅子に腰掛けていた。
 母さんは生返事をしたまま、しばらく小皿に口をつけていた。僕は黙って待っていた。グツグツ煮えている鍋の音以外、時間が止まってしまったようだった。
 しばらくして母さんは鍋にゆっくりとフタをして火を弱め、味見をした小皿を洗ってから僕の前の椅子を引いて坐った。
「十年前のこと?」母さんは首をすこし右に傾けながら慎重に訊いてきた。
 僕はもう一歩も退かないという覚悟を見せるように、ゆっくりと肯いた。
「なんにも知らないんだ」
 母さんは目を落として、テーブルについた丸いコゲをぼんやり目を向けていた。僕が三年前に沸騰したヤカンを置いてつけたものだ。
「事実が知りたいだけなんだけど・・・・」
 僕はなるべく誠実そうに聞こえるように気をつけた。
 これは僕たち家族にとって、とてもデリケートな問題なのだ。その謎に気づいたときから、それは嫌というほど思い知らされていた。
 母さんは僕を見て肯いた。
「いいけど、明日まで待てない? 母さんもちょっと頭の中を整理をしたいんだけど――」母さんは右手の人さし指でこめかみを強く押した。「なにしろ十年前のことですからね」
 僕はおじぎをするように深く、ゆっくりと肯いた。
「ひとつだけ約束して欲しいんだけど・・・・」と僕は母さんに言った。「父さんにも切子にも相談しないでね」
「――どうして?」
「僕は、それぞれの人の、それぞれの話が聞きたいんだ。せっかく十年も待ったんだからね」
 母さんは何度もゆっくりと肯いていた。
「――わかったわ。約束する」
 そうして翌日、母さんはずいぶんと時間をかけて、僕に、それにおそらく誰よりも一番誠実に、話しを聞かせてくれた。

 いちばん困難が予想された父さんは、やはりいちばん辛そうだった。
「でもね」僕は父さんに向かって、あえて声を小さくして言った。「僕にとっては大切なことなんだ」
「なぜだ? なにをいまさら――」苦々しげに、父さんは言った。
「いまだからだよ。ずっと我慢してきたんだ」
「母さんには聞いたのか?」
 僕は肯いた。
 父さんはソファーの上に、ゆっくりと長いため息を吐いた。
「母さんにも聞いたのか・・・・」
 僕は黙っていた。
 やがて父さんは満員電車が走りはじめるように、とても重い口調でゆっくりと話しはじめた。でも、誰よりもいちばん多くの事実を知っていたために、話しだしてからの加速は凄かった。どんな大木も押しのけるような力強さがあり、僕が口をはさむ暇すら与えなかったぐらいだ。
 しかしそんな父さんの記憶も、切子の記憶にはかなわなかった。
 当時の彼女が誰よりも幼く、誰よりも純粋に父親を愛してもいたので、なにもかもストレートに記憶して、そのままコンクリートで固めてしまったみたいな記憶だった。
 すべての謎は、切子の父さんが焼死した時からはじまる。


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