見出し画像

【長編小説】切子の森 第4章

 第4章

  1

 かつて切子の家では、終戦記念日の八月十五日になると、〈キネンスベキ日〉と称して三鉢のジャスミンを飾るのが習慣になっていた。
 切子の部屋――この春、小学校に入学してからひとりで寝起きするようになっていた小さい部屋――と居間、そして玄関のゲタ箱の上。
 どこにも母さんが編んだレースの敷物がしかれ、その上にジャスミンの鉢が置かれることになっていた。
「ジャスミンには〝浄化〟っていう意味があるらしいの」と母さん。「〈忌まわしき戦争を浄化する〉。そう聞かされたわ。――みんな、戦争でいろんなものを失ってきたからね」
 ジャスミンに関して、切子は母さんとは別な見解をもっていた。
「わたしが調べた限りでは、ジャスミンに〝浄化〟っていう意味はなかったわ」と彼女は冷徹に母さんの意見を否定した。
「うちに飾られていたのはいつも白いジャスミンで、その花言葉は『温順』とか『柔和』なんだけど、父さんはとくに花の意味を考えたんじゃなくて、単純にジャスミンの花が好きだっただけなんじゃないかって私は思ってるの。きれいな花だからね」
 それを聞いて、切子の部屋に飾られていた肉厚のかわいいジャスミンの花を思い出していた。僕は切子に向かって深く肯いた。
 現在でも入手が容易ではないジャスミンの鉢を、父さんがいったいどこで入手していたのか、母さんも切子も知らなかった。
「その日は朝早くから自転車に乗って、ビニール紐で編んだ大きな買物カゴを肩にかけて出かけて行くんだけど、そのカゴがなんとも甘ったるいピンク色してて、そんなの格好悪いからやめてって言っても、そのサイズがちょうどいいらしくって――。
 で、その日も『切子が目を覚ます前には帰ってくるよ』って言って出ていったんだけどね・・・・」
 母さんはそう言ってから、しばらく黙り込んだ。僕もなにも言わずに母さんの話しの続きを待っていた。
 そうしていると、いつもの台所がいつもの台所でないような気がした。母さんが坐っているイスも、ひじを付いているテーブルも、いつもとどこか違っているように見えた。
 僕は改めて台所を見回してみた。もう十年近く見続けてきた、いつもの見慣れた光景だったけれど、やはり何かが違っている。六人家族では容量が小さくていまにもパンクしてしまいそうな冷蔵庫も、同じように小さくなってしまった食器棚も、どれも十年近く使ってきたものだけれど、いまはどこか他人のモノのように感じてしまう。他人の家の台所に坐っているような、息が詰まってしまうこの感じ。
 ――この感覚は何だろう?
 そうして母さんに目を戻したときに僕は気がついた。
 原因は母さんだ。
 母さんがいつもと違っていた。
 当時のことを話している母さんは、僕の知っている母さんではなかった。それは切子の母親である母さんであり、なによりも切子の父さんの妻である母さんになっていた。
 僕は母さんから目をそらして、テーブルについたヤカンの丸い焦げに目を向けた。
 しばらくして冷蔵庫のコンプレッサーがガンッと大きな音をたてて作動したとき、母さんが僕を見たのと、僕が母さんに目を向けたのとほとんど同時だった。
 母さんは僕と丸い焦げを交互に見比べてからニッコリとほほ笑んだ。
「ゴメンなさいね・・・・」とだけ母さんはわびてきたけれど、僕はなにも言えなかった。母さんに話を聞きたがったのは僕だし、そんな過酷なことを願ったのも僕なのだ。なにも言えるわけがない。でも、もう止めることもできなかった。
 僕はあいまいな笑みを浮かべたまま母さんの話を待つという、いちばん卑怯な手をつかって、再び母さんが話し出すのを待つことにした。
「それがあの人の最期のセリフだったのよ」と母さんはイスに坐り直しながら、十ワットぐらい明るくした声で言った。
「『切子が目を覚ます前には帰ってくるよ』って言ったこと?」
「そう。そんないつもしているような会話が〝最期のセリフ〟だったなんて、亡くなるのがわかってたら、もっと大切なことを言い残したかっただろうに、ねえ。――でも、いまではかえってそれがあの人らしかったなって思ってるんだけどね」
「それがわたしの父さんだったの」と切子は僕の手を取って、やさしくパンパンと叩きながら嬉しそうに笑った。
 それは、そんな父親がとても誇らしげな娘の笑顔のようでもあったし、言い出したら聞かないやんちゃな息子に向けられた母親の笑顔のようにも見えた。

 ◇

 八月十五日当日、切子が目を覚ました時には、まだジャスミンの鉢は飾られていなかった。
 前日に、今日が〈キネンスベキ日〉だと聞かされていた彼女は、いつもより早く目を覚ましてすぐに窓の方を見てみたけれど、見つからなかった。そこで、今年からは春に買ってもらった真新しい学習机の上に置かれる予定だったのを思い出し、起きあがってよく探して見たけれど、やはり見つからなかった。
 今日は〈キネンスベキ日〉だと楽しみにしていただけに、彼女の落胆も大きかった。ひどく裏切られたような気がした。そこで父さんを呼ぶと、すぐに母さんが出てきた。母さんは笑っていた。すべてがわかっているみたいだった。
 やはり母さんにはすべてがわかっているらしく、切子の気持ちをよく理解した説明で彼女を納得させた。
「もうすぐ?」
「そう、じきよ」
 それを聞いて、切子は急いでパジャマを着替えて玄関に坐りこみ、そこで父さんの帰りを待つことにした。この際、と彼女は〈キネンスベキ日〉を真っ先に体験しようと思ったのだ。
 開いた玄関から見える坂道の上をじっと見つめて、そこにやがて現われるであろう父さんの姿を思い描いて心をはずませていた。そのために母さんが買物へ行くというのをきつく拒んだ。わたしはここで父さんも母さんも待ってる! と主張した。
 でも、なにもかも心得ている母さんは承知しなかった。
「これから最高の〈キネンスベキ日〉を迎えるために、最高においしい料理をつくりましょう」というのが母さんの提案だった。
 〈キネンスベキ日〉だからこそ、こんなに暑くても母さんはパンティストッキングをはいてるのよ、といってわざわざスカートを上げて切子に見せてくれた。
 切子はパンティストッキングに触るのが大好きだった。父さんはすぐに伝線させるので近寄ることも許されなかったけれど、切子には快く触らせてくれた。不思議なことに切子が触ってもすこしも伝線しなかった。父さんはそれを切子のやわらかい手のせいだと主張していたけれど、切子はちょっとしたコツだと信じていた。彼女にとってはそのちょっとしたコツが誰にも内緒の自慢だったのだ。
 切子は母さんのパンティストッキングに触れながら、ひと月ジャスミンを机の上に飾る約束をもとにしぶしぶ承知して、母さんが差し出した人差し指をギュッとにぎった。

 たいした買物でもなかったし、たいして時間もかからなかったわ、と切子。それは母さんも同じことを言っていた。
 母さんにとっては、切子がいない間に、父さんがジャスミンを飾る時間が稼げればよかったのだ。彼もそうしたいだろうし、切子もそうあって欲しいだろうというのが母さんの読みだった。切子の歓ぶ姿をなによりも悦ぶ父親なのだ。もちろん母さんにとっては、そのふたつが重なることが何よりもかえがたい喜びだった。
 そこで母さんは、買物からの帰り道で、これから最高のクライマックスを迎えるために、切子にちょっとしたクイズをすることにした。あと半年もすれば七つになる切子にもできるぐらいの簡単なものだ。
「あれはなあに?」
「こうしゅうでんわ」
「あの赤いのは?」
「ゆうびんぽすと」
「じゃ、――あっちの赤いのは?」
「しょうぼうしゃ」
「そうね。じゃ、あれはなにかしら?」
「じてんしゃ」
「そう。父さんはあれに乗ってお花を買いに行ってるのよ」
「もう帰ってる?」
「もちろんよ。あなたの部屋にもちゃんと飾ってあるわよ」
「机の上よ」
「そう、机の上。ひと月の約束だったわよねぇ」
 そう言われてはしゃぐ切子に満足した母さんは、消防車がたてつづけに三台通り過ぎていくのを見た瞬間に、とても嫌な予感がしたという。せいぜい、たまに一台の消防車がどこかに向かって通り過ぎていく程度だったこの町で、三台たてつづけにというのは極めてまれ丶丶なことだった。
 母さんは自宅の方向へ向かっていく消防車を見て足を早めた。
 もっとも、母さんにとって〝嫌な予感〟とは、ことあるごとに感じていた感覚でもあったので、心の中では足ほどもいてはいなかった。これまで何度も〝嫌な予感〟を感じてきた母さんにとって、それは幸せな家庭をもつ者ならば当然の心境だと思っていたし、常々それを感じつづけることが、幸せな家庭を維持するものだと信じてもいた。いわば〝おまじない〟みたいなものだ。
 だからそのとき走りはじめた母さんも、気持ちの上ではそれほど急いではいなかった。半信半疑すらの疑いもなく、ふたりの走る姿はまだアヒルの母娘おやこ程度に過ぎなかったのだ。
 しかし、そのときの母さんは、確実に、生まれてはじめて〝悪い予感の的中〟に向かって走っていた。

 切子も消防車をいっぺんに三台見たのははじめてだった。
 曲がり角に差しかかった消防車が、ちょうど目の前をノロノロと動いていたので、その大きなサイレン音と、けたたましい鐘の音に、切子は思わず耳をふさいでいたが、驚いたことに、その手を母さんが無理ににぎって走りはじめた。
 最初は小走り程度でそれほど急いでいる感じではなかったが、消防車を呆然と見送っている人が多い中で走っているのは自分たちだけだったので、切子は少し恥ずかしかったという。
 それがしだいにもっと早くなり、切子がついて行くのがやっとの状態になっても、母さんは足をゆるめなかった。それどころか、脱げたつっかけをそのままにして、破れたストッキングをビロビロさせながらもっと早く走り、切子が限界の叫びをあげたときには、母さんも叫んでいた。わけのわからないまま叫んでいた切子と同じように、母さんもわけのわからないまま叫んでいた。とても人間のものとは思えない叫び声だったが、叫んでいたのは間違いなく母さんだった。

 そのときの母さんの悲痛な叫び声がいまだに忘れられない、という切子だったが、それ以上に忘れられないのが、わが家が炎につつまれているのを見た瞬間だったという。
 彼女はそれをわが家が一望できる坂道のてっぺんで見た。
 いつもなら自転車の後ろに切子を乗せた父さんが、その坂道のてっぺんで一度足を止め、「行くぞーっ!」と叫んだ瞬間に、これから父さんが足を広げて下りる恐怖に歓声を上げる切子だったが、その時は息が切れて、自分がいまどこにいるのかさえもわからなかったという。
「母さん、急に走るのをやめてね。私がその母さんのおしりにぶつかって、母さんを見上げると、その顔に炎が映ってて。それからよ、炎につつまれたわが家を見たのは――。
 そこからわが家を見降ろす光景はなんども見てきたから、見間違うはずないっていうのはわかってたんだけど、とても信じられなくて、もう一度母さんを見たの。確かめるためにね。でも、なにも聞けなかったわ。とてもじゃないけど、なにも聞ける雰囲気じゃなかったし、しゃべれる状態でもないっていうのが、まだ幼かった私にもわかったの。
 呆然として、肩で息しながらじっとわが家を見つめて、母さんの荒い息と、わたしの息だけがずっと聞こえてて――。
 まだわが家まではずいぶんと離れてたんだけど、もうそこでも、ものすごく熱かったの。どうしようもないくらいに――」
 そのどうしようもないぐらい熱い炎の中へ飛び込んでいったのが、切子の父さんだった。
 切子の父さんが家へ帰りついたときにはすでに出火元である二階建ての隣家が全焼に近く、これ以上の類焼を防ぐためにと、まだ半焼だった切子の家の消火に重点がおかれている最中だった。
 それを見た切子の父さんはすこしも呆然としていなかった、と後になって近所の人たちが僕の父さんにそう証言したそうだ。
 彼らによると、切子の父さんは背後からけたたましく自転車のベルを鳴らしながら叫び声をあげて人垣を抜け、パンパンにふくらんだピンク色の編みカゴを背負ったまま猛然と突っ込もうとしたという。
 その切子の父さんを必死になって止めたのが、僕の父さんだった。まだ入署して間もなかった父さんは、放水する同僚のサポート担当だったこともあって、火事場に突進してくる男の存在にいち早く気づいたのだ。
 そこで父さんは、学生時代にやっていたラグビーを彷彿ほうふつとさせるみごとなタックルを自転車男におみまいした。まったく無防備だった相手にそこまでしなくてもよかったのだが、まだ火事場では素人同然(四月に入署してからボヤばかり四回)だった父さんに与えられた、初めての〝人命救助〟だったので、父さんも必死だった。
 男は父さんの想像以上にぶざまにひっくり返った。その拍子にピンク色の編みカゴがふっ飛び、中にはいっていた鉢植えもゴロンゴロンと転がった。
 だが、男はぶざまにひっくり返ってもすぐに立ち上がり、再び炎に向かって走りはじめた。足がもつれてよろめきながらも、炎に向かっていることは明らかだった。
 それを見た父さんは、すぐに追いついて後からはがい絞めにしようとした。体格でふた回りは違うとみた父さんは、捕まえさえすればどれだけ暴れても絶対放さない自信があった。八人をひとりで支えているような気分になるスクラムから較べるとみたいなものだ、とその時の父さんは思った。
 しかし、男の暴れ方は凄まじかった。腕をつかんだ瞬間にくらった腹部への蹴りの痛みがまったく感じられなかったぐらいビックリした。三人分ぐらいの力があった、と父さんはいまだに評価している。
 それでもなんとか男を取り押さえることができた時、父さんが男にむかって「死ぬ気なのですかっ!」と一括すると、反対に、「殺すぞっ!」と脅された。
「放せコラッ! 切子が死んじまうだろーっ!」と無理やり首をねじ曲げて罵倒してきた男の形相がいまだに忘れられない、と父さん。
 それでも父さんは男を放さなかった。まだ経験の浅い父さんでも、放せばどうなるか容易に想像ついた。男の叫び方からしだいに状況がわかってきてもこれだけは、と前よりも腕に力をいれたぐらいだった。
「本当に中に誰かいるのですかー!」と父さんが聞くと、「いねえんだよー! どこにもいねえんだよー!」そう叫びながら周囲を見回す。
 そこで「われわれに任せてください!」と父さんが叫んでも、誰ひとりとして炎の中へ突っ込んでいく者はいなかった。
 その時はすでに突っ込める状態ではないというのは誰が見ても明らかだった。家の中に誰かがいたとしても、もう手遅れだというのも明白だった。
 すると、切子の父さんが急に大人しくなった。その場所でも肌がヒリつくほど熱かったが、黙って炎に包まれたわが家を見ていた。そして、父さんがつかんでいた腕をぽんぽんと叩き、「わかったから――。もう暴れないから――。苦しいから、ちょっと放してくれないか・・・・」と言った。
 男からそう言われて父さんも正気に戻り、男に向かってわびながら腕の力を少しゆるめた。
 その瞬間、男は急にしゃがみ込んで父さんの腕をすり抜け、なんの迷いもなく、目の前の炎の中に突っ込んでいった。
 それを見たベテラン消防士が、あっ! と叫んだ。やじ馬も、あっ! と叫んだ。キャーっと叫ぶ者もいた。しかし、切子の父さんには、もはやどんな叫び声も届いていなかっただろう。背後で切子の声が聞こえない限り、誰にも止められなかったに違いない。
 まるであたり一面にフィニッシュ・コールが鳴り響いたかのように、父さんは呆然とその場に立ちつくしていた。それが父さんが愛したラグビーの試合ならば、『彼は死力を尽くした』と称賛されただろうが、それはまだ火が燃え盛っている火災現場だったので、父さんは後々まで強く非難されることになる。

 切子は唯一の命綱でもあるかのように母親の人差し指をぎゅっとにぎったまま、すこしも炎から目を離さずにじっとしていた。彼女は目の前の光景がだと思い込もうとすることで、頭の中がいっぱいだった。
 でも、自分の夢ならばもっと炎の勢いを小さくするだろうし、第一火なんか出さない、と切子はいまでも僕にそう断言した。
 大好きだったわが家に火をつけるなんて夢でも考えられない、と切子。それに夢の中で何本もの放水がまったく効果をみせないのも信じがたかったし、溺愛するわが家に無情に放水することも信じられなかった。
 わが家がみんなに寄ってたかってイジメられてるように見えた。
 そんな光景は、現実離れしていることでまるで夢のようではあったけれど、頭がグラグラする現実味はどうしても夢とは思えなかった。顔も服も焼けるように熱いし、哀しいことに、母さんのスカートを触ってみてもちゃんと熱かった。
 それでも切子は夢だと思ったという。夢想だにしないことではあっても、夢ではあり得るかもしれない。その思いだけがその時の切子の夢だった。
 
 そのとき、母さんが切子の手を放していきなり走り出さなかったならば、父さんの叫び声さえも夢だと片づけていたと思う、と語った。
 それはあまりにも不確かな叫び声だったし、火災現場を呆然と眺めている人の中にも父さんの姿はなかったので、彼女がそれも夢だと思い込もうとしたところで、母さんが切子の指をひき千切るようにしていきなり走り出したのだ。
 その行為は彼女を夢から覚ます力はじゅうぶんにあった。夢にすがりついて離れない彼女にはじゅうぶん過ぎるほど有効な手段だった。
 彼女もひと足遅れて母さんを必死になって追いかけたが、今度はとても追いつきそうになかった。全力で走っても、母さんは遠くなるばかりだった。
 走りながら切子は泣いていた。かつて一度もこの坂道を泣いて降りたことはなかったけれど、すべてがずっと遠くへいってしまいそうな気がして、彼女は泣きじゃくっていた。
 悲しいことに、母さんは切子がどれだけ泣き叫んでも停まることはなかった。ふり向きさえもしなかった。まるで赤の他人のように、ひとりで坂道を駈け降りていった。

 男が女性を抱きかかえて炎の中から飛び出てくるのを待ち望んでいたのは父さんだけではなかった。そこに居合わせた誰もがそのことを熱望していた。
 それでも十秒とたたないうちに燃え狂う屋根の半分がガラッガラッと音をたてて崩れ落ちたとき、やじ馬の希望も半分崩れた。しかし関心は二倍にふくれあがり、皆一丸となって固唾かたずをのんで切子の家を見守ることとなった。
「屋根に当てるなっ!」
「柱は避けろっ!」
「それじゃ消えんっ!」
「ほかに燃え移るぞっ!」と、ベテラン消防士の怒声が{錯綜}(さくそう)するなかで、やがて二十秒、三十秒と時は過ぎ、あいかわらず激しく燃えさかっていても、家の中はしいん丶丶丶としていた。男が飛び込んだ瞬間から人の気配がことり丶丶丶ともしなくなっていた。
 その頃になると、やじ馬の中でもすんなり諦める人と、まだまだ大丈夫だと{誰彼}(だれかれ)となく励ます人との二手に別れはじめていたけれど、ベテラン消防士の判断はすべて一致していた。
 消防服を着ていてもこの炎では十秒ともたないことは誰もが知っていた。現実に炎の中へ飛び込んだ経験のある消防士は、この状況では消防服さえも役にたたないということがわかっていた。
 まず、目がやられる。とても開けられる状態ではないし、無理やり開けたとしても炙られる。つぎに顔、身体さえもたない。ましてや男はただの服に水もかけずに突っ込んでいったのだ。五秒ともたない。それがそこに居合わせたすべての消防士の一致した見解だった。

 そのとき人垣をかきわけて現われた女性の姿を見て、父さんは息を呑んだ。それが誰なのかはわからなかったが、今の状況を考えあわせて誰であるのかは容易に想像ついたのだ。
 その女性は燃え狂った家の前で足をとめ「主人は?」とひとりごとのように呟いた。
 やがてあわてて周囲を見回して消防士の格好をした父さんに焦点をあわせ、「どこにいるの?」と訊いた。

 そのときの一瞬にして苦境に陥った心境を、父さんはのちに切子の母さんに宛てた手紙に綿々とつづっていた。
 切子はその手紙を一度も見せてはもらえなかったが、母さんが再婚するまで聞きつづけた『切子の父さん』のお話の中に、それがうまく組み込まれていたのは彼女も知っていた。
 それまで――父さんが死ぬまで、歓んで読んでもらっていた童話を彼女はきつく拒んで、『切子の父さん』のお話だけを母さんにせがんだ。だが、当時の母さんにとっては、それはまだまだ生々しく、苛酷かこくなことでもあったので、おだやかに拒みつづけた。それでもそれ以外のお話はすべてちんけ丶丶丶に思えて聴く耳がもてなかった切子は「わたしにとって、とても大切なことなの」と、執拗しつようにくい下がる。でも母さんは「とてもじゃないけど・・・・」と受けつけてはくれなかった。
「もうすこし時間が経ってからすべてを話してあげるから。ね、お願い。それまで待って。良い子だから――」と母さんまで泣いて懇願しても、切子は「いま聞きたいの」とがんとして一歩も譲らなかった。
 後にも先にも切子が母さんのいう〝良い子〟を拒否したのはこのとき限りであったが、その幼い彼女の一途な思いが幸いして『切子の父さん』のお話は、永遠に切子の胸に残ることになる。
 そんな彼女の根深い記憶はもうしばらくつづく――。
 
 まだ若そうな消防士が一瞬にして苦境に陥った状況をすぐに悟った母さんは、男から目を移して倒れた自転車をみた。そして周囲に散乱した鉢をみた。つぎに転がったピンクの編みカゴにぼんやりと目をむけた。自分でもいまなにを見ているのか理解できないでいるみたいだった。
 やがて母さんは炎につつまれた家のなかを凝視し、そこでようやく叫んだ。両手で口をおおい、炎からすこしも目をそらさずに絶叫した。
 母さんの場合ははじめから慟哭だった。ある程度の予感があった母さんは、切子の父さんと違って状況判断が瞬時についたのだ。
 すでに父さんは切子の母さんを、背後からはがい絞めにしていた。父さんも今度ばかりは絶対放さないと心に決めていた。たとえどんな種類のフィニッシュ・コールが鳴り響いたとしても、火がすっかり消えてしまうまではけっして放さない決意だった。
 父さんはごわごわの消防服で細い切子の母さんの身体を抱きかかえ、小さい肩に顔をうずめながら心から詫びていた。
「すみません、許してください」と、なんども口にだして謝っていた。
 しかし、母さんはまったく聞いてはいなかった。声さえも聞いていなかった。切子の父さんとおなじように叫びつづけ、強く抵抗していた。
 そこで父さんは切子の母さんの肩をおさえて「キリコさんっ!」と、彼女の叫びよりも大きい声で怒鳴った。
「お願いですから、じっとしていてください。お願いですから・・・・」父さんは心から哀願していた。
 最初母さんは、背後の男がなにを言っているのかわからなかった。そこでふり返って見て、その消防士がぶざまに顔をゆがめて泣いているのをはじめて知った。とても不思議な気がした。どうしてこの男までが泣いているのか理解できなかった。
 だが母さんはそのことを深く考える余裕もなく、今この男が呼んだ切子のことに注意が移っていた。
 わが家の前の坂道を駆け下りはじめて以来、切子のことをまったく忘れていた母さんは、消防士の背後から泣きじゃくりながら走ってくる切子の姿が見えてホッとした。一瞬にしろ、わが家の火事に気づいてからはじめてやわらいだ気分になった。

 一方、父さんは、幼い女の子が走ってくる姿をみて愕然としていた。状況から考えてこの母親の娘だというのはすぐにわかった。もちろん、炎の中に突っ込んでいった父親の娘というのもすぐに判断できた。そこまでの状況判断は少しも間違ってはいなかったが、あまりにもいろんなことが一度に起こって混乱していた父さんは、とても信じられないことだけれど、その少女も炎の中へ突っ込もうとしている! と本気で思いこんだという。
 そこで両手が完全にふさがっていてとてもその娘まで制止できないと思った父さんは、同僚を呼ぶのに切子の母さんになり代わって叫んでいた。だが、仲間は彼の近くにひとりもいなかった。やじ馬は手を貸すどころか、モーゼの裂ける海のように道をささっとあけてしまい、まったく用をなさなかった。
 そのなかを消防車のようにわんわん泣きながら走ってくる少女は、泣きじゃくっているにしても、目指す方向はいかなる放水線よりも正確に燃える家をとらえている。ともすると、まわりの状況を見て判断した父親よりも、家しか見えてない彼女の方が正確のようにさえ父さんには見えた。
 いくら少女がまだほんの子供で、足が遅いにしても、すでにどの同僚も間に合わないと悟った父さんは、目前に迫った少女を右足で捕まえようと真横に伸ばし、身構えた。その少女がぶつかったぐらいの衝撃ならばじゅうぶんに耐えられる自信はあったが、暴れるとどうなるかまでは自信がなかった。それでも父さんはぜったい捕まえると心に決めた。少なくとも同僚がくるまではもちこたえてみせる心構えだった。
 そんな少女を捕まえる計算をした上でふん張った父さんの右足は肩透かしを喰らい、切子は消防士の巨大な銀色の足を無視して母親のおしりにむっちょりとつかまった。その拍子に倒れそうになった父さんは残った左足でどうにかもちこたえたが、その瞬間に切子の家の屋根が雷のような轟音を立てて崩れ落ちた。
 借家である小さな住まいにしては壮絶な最期だったという。
 母さんは轟音とともに絶叫しながら泣き崩れた。その母さんのおしりにくっついたままだった切子も同時に泣き崩れ、父さんも今度ばかりは気力とともに崩れ去った。もちろん、その瞬間に切子家の大黒柱が完全にくずれ去ったのは誰がみても歴然としており、その場にいた誰もが一斉に無念のうめき声を洩らした。

「それまでの絆がなくなってしまったのをきっかけに、それからの新しい絆が結ばれたのよ」と切子。
 切子は展望台からみえる蒼い海をぼんやりと眺めていた。彼女の遠い記憶が海の上に浮かんでいるのを眺めるように、目をすこし細めていた。
 その日は聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな音で、やわらかい波音がくり返し聴こえているような気がした。
「あなたとの絆も、その時すでに結ばれてたのよ」と切子。「運命的にね。どうしようもないことだわ」
 彼女は僕の膝の上にそっと手を置いた。そして子供をあやす母親のようにぱんぱんとやさしく叩いた。ジーパンの上からでもわかるぐらい、ガラスを置いたみたいに冷たい手だった。
「どうにかしたかったんだ」
 僕は何もつけてない彼女のくちびるを見ていた。ひくひくとそのくちびるが動いた。でもなにも言い出さなかった。
 しばらくしてから、切子はまた話のつづきをはじめた。そのときの彼女の雰囲気と同じように、切子の話も火事の鎮火からはじまった。

 鎮火後、変わり果てた切子の父さんが担架にのせられてくる姿を一番強く拒否していたのは母さんだったし、それを誰よりも強く注目していたのも母さんだった。
 火がなんとかしずまりかけた時を見計らってベテラン消防士がドッとくりだした頃にやっと顔をあげた母さんは、とにかく泣き声を消すことに必死だったという。
「母さんはね。そこで泣き声を消すことにしか、ワラが見いだせなかったの」
 後日、母さんは『切子の父さん』のお話のなかで、切子にそう教えた。当時の切子には何のことなのかさっぱりわからなかった。
「ワラさえも、よく知らなかったんじゃないかな」と切子。
 それでも母さんからの説明はまったくなかったし、切子も何の説明も求めなかった。それは『切子の父さん』のお話をはじめる前に母さんが出した唯一の条件だった。
「あなたにはまだわからないことがいっぱいあるの」といって時間の必要性をいくら訴えても切子がまったく聞き入れなかったので、母さんはどんなわからないことがあってもまったく質問せずにすべてを記憶することを切子に強要した。少しでも詳しく話すことを避けたかったのだ。
 切子はそれを承諾し、そのかわり正直にすべて話すことを母さんに約束させた。
 それで彼女もずっと後になるまでワラを単に〝ワラ〟という単語として記憶に留めたために、それが本来の意味よりもずっと強い印象になったことは確かだ。
「溺れる人にもつかめるワラがあったなら、それはそれでまだ幸せなんじゃないかって思うの。少なくとも、何もつかむものがない人よりはね」と切子は僕に、母さんにとってのワラの必要性を簡単に説明してくれた。

 母さんが切望した〈泣き声を消す〉というワラは、ぬかるんだ土をにぎりしめて唇をぐっと結んだぐらいでは、とても手に入りそうにもなかった。そこで土が口の中に入りこんでくるのも構わずに、右手をむさぼるように喰わえこむことでなんとか手中におさめようとした。でも、鼻から洩れる。鼻をつまめばノドがふるえる。
 確かに母さんは、誰が見てもどうしようもないことに、必死になって溺れていた。
 あい変らず母さんのおしりにピッタリくっついて泣いていた切子は、右手を噛んでウーウー唸りながらベチャベチャにぬかるんだ土を食べる母さんを見てもっと泣いた。母さんがどこか違うところへ行ってしまいそうな気がした。彼女はもっと強く、必死になって母さんのおしりにしがみついてみたが、母さんは変わらなかった。
 そこで切子は、自分の後で顔を真っ赤にしながら泣いている消防士に気づいた。彼が母さんより大きな声を張りあげて泣いていたこともあったし、何度も何度も私の名前丶丶丶丶を呼んで謝っていることも不思議だったのだ。
 男はゴワゴワの大きい消防服を着ていたが、とても小さく見えた。彼女の父さんよりも大きな体格にも関わらず、自分とそう違わないようにさえ見えた。そのときはじめて胸のあたりに大きな泥の足跡がついているのに彼女は気づいた。
「まるでゼッケンのようだったわ」と切子。「番号3、そんな感じね」
 それが最期に切子の父さんがつけた刻印だったのは、『切子の父さん』のお話のなかで知ったことだったが、幸いにもそのぶざまな消防士の記憶が、のちのち切子に僕の父さんを非難する気力を失わせることとなった。
 
 やがて切子家の焼け跡から、ふたりの消防士がうす汚れた担架を運びだしてきた。毛布にくるまれてはいても、中身がごつごつした感じは隠せなかった。
 まるで瓦礫がれきの中で見つけた老木のようだったわ、と切子。
 それほど彼女にはそれが父さんだなんてとても信じられなかったという。それでも母さんはそれを見た瞬間に、口の中から泥を吐きだしもせずにすぐに飛んでいった。
 切子と僕の父さんは、まったく同じように母さんの後姿を呆然と見送った。でも、ふたりの思いはまったく違っていた。
 切子はふたたび夢を追いかけることに夢中になっていた。すこしでも早く、ちょっとしたミスを指摘してすべてが夢となって消え去ることを夢見ていた。
 一方、父さんは現実を直視することに追われていた。すべてが現実なのはわかりきっていたけれど、現実を現実としてとらえる冷静さを失っていたために、早く現実を正確に把握することに必死だった。
 そんなふたりには母さんのしぼり出すような絶叫も、何の力も及ぼさなかった。本来ならば誰をも現実にもどす力を充分に備えているにもかかわらず、ふたりの呆然は解けるどころかますますひどいものになっていった。
 その呪縛を一瞬にして解いたのが、形のゆがんだビー玉だった。
 ビー玉づくりの職人だった切子の父さんは、ごくたまに不良品のビー玉を持ち帰ってきては、決まって「父さんはこいつをつくる職人なんだよ」と言いながら、ころころと切子の前にビー玉を転がしては喜ばせた。
 なかにはラグビーボールのように歪んだビー玉もあったわ、と切子。
「〝濁り〟とか、〝曇り〟とか、〝気玉〟っていう空気が入ったものとか、いろいろなものを持ち帰ってきては、コロコロとわたしの前に転がすの。『父さんはこいつをつくる職人なんだよ』ってね。さすがに〝欠け〟を持ち帰ってきたときには、危ないからって母さんに取り上げられたけどね」
 そのビー玉が担架から落ちたとき、父さんはもちろん、切子もそれが何なのかはわからなかったが、ごく小さなものがポトポトっとぬかるみに落ちたその音まで聞こえるぐらい、ふたりとも意識を担架に集中していた。
 そのビー玉が落ちた現場へ最初に駆けつけたのは父さんだったが、不発弾みたいにぬかるみに突き刺さってプスプスと白い湯気をたてている数個のビー玉を見ても、それが何なのかはさっぱりわからなかった。焼け出された人体から出るふしぎな玉、なんて話も聞いたことがなかったし、単なるガラスの玉が遺体から落ちてきたことも理解できなかった。
 恐るおそるビー玉に触ってみると、消防手袋をつけていても脳につき抜けてくるぐらいに熱かった。だが、それだけ高温であぶられたにしては、どのビー玉もすこしもすすけてはいなかった。まるで牛の目玉のように黒く、ピカピカに輝いていた。
 後ほど、父さんからゆずり受けたその形が歪んだビー玉を、『あの現場で見つかった父さんの魂よ』と言いながら母さんは切子に手渡した。
 切子はすでに火災現場でビー玉を目撃していたので母さんのウソを見抜いていたが、彼女も言われたとおりそう信じることにした。だけどその時は母さんの真意まで看破できなかった彼女も、それが少しずつ父さんの結晶に変貌していくのを、時間の経過とともに理解していた。
 それが唯一切子に遺された父さんの遺品であり、かけがえのない宝物として彼女はいまでも大切にそのビー玉を保管していた。
 
 切子が僕に見せてくれたビー玉は全部で八個だった。そのうちの三個は火事の現場で、二個は彼女の父さんの口の中、三個が胃の中から発見されたらしい。もちろんどれも煤けてはいなかった。入念に磨きこまれたように、ピカピカに輝いていた。
「父さんはこいつをつくる職人なんだよ」と言いながら、切子は不良品のビー玉を僕の膝の上にコロコロっと転がした。
 どれもこれも新品みたいに磨きこまれていたけれど、確かにひとつ残らず不良品ではあった。気泡が三個、歪みが二個、すじ入りが二個、へこみが一個だ。
 切子はばら撒いたビー玉をかき集めて、もう一度おなじことを言っておなじことをした。だが今度は集めなかった。とびきり上等なビー玉のように澄んだ眼で、散らばったビー玉を見つめていた。今日の運勢をみているみたいな真剣なまなざしだった。
「あれ以来、わたしにとって大切な人は、ひとりも作らないように心がけてきたの」
 切子はおだやかな声で言った。黒色のビー玉をじっと見つめたままだった。
「友だちも含めて、だれも大切に思わないように心がけてきたの。もちろん――」と言葉を切り、まぶしそうに目を細めてゆっくりと僕を見た。
「家族もよ」
 僕は黙っていた。あなたもよ、と言われたように聞こえた。
 それまでもうるさく鳴いていたアブラ蝉の声が、急に気になっていた。まるで頭の中を、あのトゲのついた脚で引っ掻かれているみたいな気がした。
「なにが起こっても、できるだけ傷が浅くてすむように――。誰が死んでも、吐きそうになるぐらい哀しまなくてすむように――。どんなことがあっても、自分が安全な場所にいられるようにって――」
 切子は僕を見ていた。僕も切子を見ていた。切子はつづけた。
「だからずっと人を警戒してたの。近づき過ぎないようにって――。近づかれ過ぎないようにってね。それがしだいに人に触るのも触られるのも嫌になって、手ぶくろをはめだしたの。意味もなく、もうなにもかも嫌になってたのよ」
 切子は手の指をいっぱいに広げて海にかざし、買ったばかりの指輪をじっくりと観賞するように、何度もひっくり返して見ていた。
「それが間違っているかもしれないって最近になって思いだしたの。だからあなたを〈人形の森〉に誘って、白い手ぶくろを外したのよ。それでどうなるのか、わたしにも想像つかないわ。なにも起こらないような気もするし、とてもひどいことになりそうな気もする。――わからないわ」
 僕は切子の肩を抱いた。かちゃり、と僕の膝の上でビー玉が鳴った。
 切子は僕の肩に寄りかかりながら、ビー玉に目をむけた。
「ここはわたしにとって、ゆりかごみたいなものなのよ」
「ゆりかご?」
「そう――。いつも父さんがゆっくりとやさしく揺すってくれるゆりかごなの」
 僕は黙って切子の髪をなでていた。
「だから恐いの。いまここを出なければ、ずっと出られないような気がして。とにかく、明日には答えがでるわ」
「十五日」
「そうよ」
 切子は僕の膝の上に転がったビー玉を、遺骨を拾う遺族のようにひとつずつ手に取って、赤いきんちゃく袋に戻しながらニッコリと笑った。
「明日には答えがでるわ」と、切子はもう一度いった。今度は笑わなかった。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?