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【長編小説】切子の森 最終章

 最終章

  1

 父さんが消防士になってから火事の通報をうけて出動したのは、ボヤを含めると四〇〇件を優に超えていた。正確には四二三件。平穏な街の、平均的な件数だ。
 生まれてはじめて本格的な火事を経験した切子家の火事以来、父さんは火災の詳細な情報を、自分の個人的なノートに記録するようにしていた。
 そのノートには、天候、風速、風向き、温度、湿度、出火原因と場所、火事の状況など、通常の業務日誌に書きこむ内容に加えて、父さんなりの分析、反省点などがびっしりと書きこまれていた。それは一年に一冊と決めていたので、そのノートは今年で十一冊になっていた。
 もちろん父さんにはノート十一冊では収まりきらないほどの経験と知識があったために、すでにベテラン消防士になっていたけれど、一度たりともその習慣を怠ることはなかった。父さんにとってはそれも切子家族に対する{贖罪}(しょくざい)のひとつでもあったのだ。
 だがその日誌も、八月十三日で終わっていた。いつものように街はずれの民家のボヤが詳細に記入された後、次のページがまるで次の火事を心待ちしているように空白のまま、ノートは永遠に閉じられていた。

 つぎの火事が発生したのは八月二十九日、午後四時十三分だった。厳密にいうと、それは父さんが待機する消防署の二階のベルが鳴った時刻だったために、火災発生時刻とはすこし異なっていたけれど、じっさいにはそのベルが鳴らないかぎり、父さんたちと火事との戦いもはじまらなかったので、父さんはそのベルが鳴った時刻を火災発生時刻ときめていた。
 その日の天候は快晴。数日間ろくに雨も降らなかったために湿度も低く、悪いことに風が強い。そんな状況下ではどんな家屋にしたって出火元の家屋は駆けつける前に燃え盛ってしまうのは目に見えていた。父さんには救いようのない状況が容易に想像されて、誰にも聞こえないように舌打ちした。

 事実、その時の出火元家屋は燃え盛っている最中だった。古い木造の二階建てであったために、条件はもっと最悪なものになっていた。
 唯一の救いは家屋の中に人影が見当らなかったことだ。父さんは心のずっと奥の方でホッとしながら、これ以上の類焼をできるだけ防ぐという任務にとりかかった。
 両隣は双方とも真新しい家屋であったために、そこへまともに放水することは心苦しかったが、それを怠ると一瞬にして灰になってしまうのは家の新旧に差はなかったので、彼らは戸惑うことなく両家ともまともに水をぶっかけていた。
 それほど待つまでもなく、がくんっと出火元家屋の屋根が半分落ちた。崩れ去る前の第一次兆候だ。そこへは同僚が四人がかりで消火にあたっていたが、炎の勢いはすこしも衰えることはなかった。水を油に変えて、みたいに燃え狂っていた。
 彼らにしてみれば、ダメとわかった家屋はすみやかに崩れ去ってくれたほうが良かった。それで多少なりとも火の勢いが弱まるために、隣家や街への類焼が防げるのだ。その思いは右側の家屋に放水していた父さんが一番強かったかもしれない。
 出火元家屋の屋根が崩れたのが左側だったために火がよけい右側の家屋へと集中し、いまでは炎にあぶられた木目のトタン製の壁が、飴のようにぐにゃりと変形していた。
 早く崩れろ! とはもちろん口にだせることではなかったが、父さんは心の中ではそれを待ち望んでいた。

 その時、まわりが騒然となったのを父さんは気づかなかった。同僚も気づかなかった者が多かった。それほど彼らは消火活動に懸命なのだ。目の前でライオンが火の輪をくぐってきたとしても、誰も驚かないに違いない。
 だが、やじ馬のだれもが騒然としていた。だれもが出火元家屋にむかって走っていく女の子の姿を目撃して悲鳴をあげていた。火のように真っ赤なTシャツとジーパン姿の女の子が、若い消防士から逃げるような格好で炎のなかへ突っこんでいく瞬間だった。
 若い消防士は出火元家屋五メートル手前で顔を被い、あわてて戻ってきた。そんな彼でも眉毛がちりちりと焦げたみたいで、戻ってくるなりしきりに顔をこすっていた。
 父さんはやじ馬が騒然としてしばらく経ってから、切子に気づいた。真っ赤なTシャツには見憶えがなかったが、走る切子の横顔をみて心臓が口から飛びでるぐらいビックリした。
 しかしそれでも父さんの行動は素早かった。若い消防士が足を停めたとき、すでに手にもったホースを棄てて切子を追いかけていた。父さんに棄てられたホースは首を千切られたヘビのようにのたうち回り、後ろに控えていた消防士があわててホースを取り押さえようと必死になっていた。
 父さんには何がどうなっているのかさっぱり理解できなかったが、切子が炎にむかって突っ走っていく姿は目の前にあった。
 父さんは叫んだ。十一年前の切子の父さんのように、父さんも絶叫して切子を呼んだ。切子の姿が目の前にある分だけ、父さんの絶叫の方がもっと狂気じみていたかもしれない。
 だが、切子は止まらなかった。ふり向きもしなかった。まるでお父さんの叫び声を父さんの叫びのように聞いて、なんのためらいもなく炎になかへ突っ込んでいった。
 そのとき父さんが待ち望んだ出火元家屋が全壊となり、父さんは同僚のはがい絞めにあいながらその光景を絶望的な気持ちで凝視してそのままぐったりと崩れ落ち、やがて狂気じみた慟哭となっていった。
 ちょうど十一年前の母さんのように――。



 

 けっして聞きたくない切子の訃報を最初に受けたのは僕だった。〈人形の森〉から帰ってきたときに電話が鳴っていたのだ。
 受話器をとると、相手はとまどったようにしばらく沈黙した。
「消防署の者ですが・・・・」男はそう言ってまた沈黙した。彼の背後で電話の鳴る音が聞こえていた。
「お母さんは?」
 いま外出していることを告げると、男はふたたび沈黙した。
 父さんになにか起こったことを悟らせるような沈黙だったので、男がおおきく息を吸った瞬間に、僕は息を止めた。そして受話器を強く耳に押しつけた。
 男はすこし事務的な口調になって一息にしゃべった。お嬢さんが父さんの目の前で燃えさかる家屋に飛び込んでいったこと、制止ようとしたが間に合わなかったこと、父さんが切子の死を確認したこと――。
 そのとき母さんが帰ってきた。「ただいま」という明るい声が電話の相手にも聞こえたらしく、男がまた沈黙した。テニスボールを丸呑みしたような沈黙だった。
 母さんは両手に買物袋をさげたまま僕の顔をのぞきこみ、『ただいま』と口を動かしてニッコリとほほ笑んだ。
 そのとき僕がどんな顔をしていたのかわからないけれど、母さんは女の子にフラれた僕を見てしまったように、すぐに視線を外して台所にむかった。
 男は咳払いをひとつしてから、切子の遺体が安置されている場所を告げ、最後にお悔やみのせりふをいってしずかに電話を切った。切った電話器に向かって大きなため息を浴びせかけているのが想像できるような切り方だった。
 僕は受話器をもったまま立っていた。呆然としていた。頭の中の風通しをよくするような電話の不通音が、ずっと聞こえていた。
 台所では〈オーバー・ザ・レインボウ〉を唄う母さんの明るい鼻唄が聞こえていた。

 なぜ? は当時でもなんども交わされた疑問だった。だれもが浮かぶ疑問に、だれもが明快な答えを見い出せないでいた。
 家族全員が僕と切子を平等に愛せなかったのが大きな原因だ、と祖父はきめつけていたけれど、それが父さんと母さんの耳に入らなかったために、大きな問題にはならなかった。たとえ聞こえていたにしても、当時の父さんと母さんにはまったく聞こえなかったに違いない。
「わたしが悪いのよ」という祖母の意見は、根拠がなかったためにすぐに立ち消えになった。それでも祖母はそのセリフをくり返し言いつづけていた。そうすることで自分を慰めているみたいだった。
 そんな中で、ほかの誰よりも沈黙をとおしたのは母さんだった。
 台所で僕が切子の訃報を伝えた瞬間に、母さんは牛乳パックをもったまま椅子にガックリと腰掛け、すでにそのときから沈黙がはじまった。あらかじめそうなることを予期していたみたいに、ひとつ深くため息をついただけで、質問さえもしなかった。
 テーブルの上には食パンとかヨーグルトとか豆腐とかコンニャクとかが買物袋からだされたままだったが、母さんは動かなかった。息さえもしていないように見えた。
 じっさいその時から母さんの時間は止まってしまったんだと思う。後退もせず、先のことを考えることもなくて、本当に止まってしまったんだろうと思う。
 母さんが手に持ったたままだった牛乳パックをそっと取り上げた時、ゆっくりと顔を上げた母さんの顔を、僕は生涯忘れないだろう。
 表情に意志がなく、筋肉がだらしなく弛緩しかんしてしまった顔。いたみはじめた魚みたいに、薄い膜が張ってしまったような目。顔色もビックリするぐらい白くなっていて、皮膚も人間の物とは思えなかった。
 しばらくすると母さんはしずかに立ちあがり、コンニャクを冷蔵庫にいれた。そして今度は豆腐を手に取り、それも冷蔵庫にいれた。
 ついさっきまで〈オーバー・ザ・レインボウ〉を鼻唄で唄っていた陽気な母さんの面影はすっかりなくなってしまい、じっと押し黙ったまま、買ってきたものをひとつひとつ、ゆっくりと時間をかけて冷蔵庫の中に片づけていった。



 

 驚いたことに、わが家にも薩摩切子の紅小鉢が保存されていた。それも切子家の火事のときに焼けだされたものだった。
 〈人形の館〉に展示されているものよりもひとまわり小さいもので、同じ時に焼けだされたビー玉と違って、こちらは黒くすすけていた。紅色の部分はそれほどでもなかったけれど、カットされた部分に黒い煤がこびりついていた。そのために紅色の部分だけが透明なガラステーブルを突き抜けてフローリングの床に落ち、そこにきれいな宝石が埋め込まれているように見えた。
 切子の死から二ヵ月経過していた。
「あの子が二十歳はたちになったときに、渡すつもりだったものなの」と、母さんはガラステーブルの上に置いた小さな紅小鉢を見つめたまま呟くように言った。切子の死後ひさしぶりに聞く、母さんのまともなセリフだった。
 母さんの横で深々とソファに坐っていた父さんは、横をむいて小さな庭に目をむけていた。そこでは白いレースのカーテンが、ゆらりゆらりと退屈そうに揺れていた。
「あの子の父親が、小さい時にいただいたものらしいの」
 母さんは少しだけ笑った。もちろんその場にいた父さんも僕も笑わなかった。僕はじっと紅小鉢を見つめたままだったし、父さんは庭から目を離さなかった。
 庭にはコスモスがたくさん植えられていた。母さんが植えたものだ。リンドウもあった。桔梗もあった。だけどジャスミンは一本もなかった。当然のことだ、と僕は思った。
「父親が亡くなった時に、あの子はなにも手放せなかったんだと思う」母さんは紅小鉢をじっと見つめながら言った。
「理解してたつもりだったけど、やっぱり私はわかってなかったんだなあって・・・・」
 父さんが母さんを見て、母さんの手の上にそっと手を重ねた。母さんはその上から手を重ねてトントンと叩き、ほほ笑んで父さんを見た。
「あなたを好きになり始めた頃に、あの子の目が変わってきたの。日に日に甘えることも少なくなって、私から離れていくのが手に取るようにわかったの。いま思えば、あの子が離れていったんじゃなくて、あの子がとどまったままだったのね。あの子は父親のためにそこから一歩も動けなくなっていたのよ。で、あの子に再婚しようかと思ってるって打ち明けたとき、あの子は笑っておめでとうって言ってくれたわ。久しぶりの笑顔で、精いっぱい私を責めたのよ」
 カーテンがサアーっと風に流されるのにつづいて、母さんの長い髪も横に流されて顔を被った。母さんは動かなかった。髪をかき上げることもせずにじっとしていた。父さんもじっとしていた。僕もじっとしていた。なにも言わなかった。いまは風以外、海さえも沈黙していた。
 その沈黙を破ったのは母さんだった。母さんは薩摩切子を両手でもってゆっくりと立ちあがり、スリッパの音をさせずに庭の前まで歩いていった。
 僕は紅小鉢がなくなってしまったガラステーブルを見つめたままだった。そこで展望台の中へ消えていった切子の姿を想い出していた。
 ずっと遠くへいってしまいそうだった彼女の後姿。
 白い脚。
 海。
 巨樹。
 枯葉。
 蝉の声。
 そして閉じられることのなかった切子の幻想の扉――。

 母さんはしばらくの間、庭を見下ろしたままじっとしていた。
 やがて、母さんがそっとカーテンを引いたとき、父さんが小さい声で「あっ」といった。つづいてバットで頭を殴ったような鈍い音がした。ゾウリを脱いでおくように置かれたコンクリートブロックにむけて、母さんが紅小鉢を思いきり叩きつけたのだ。
 でも紅小鉢は割れなかった。割れずに庭に転がった。
 母さんは裸足のまま降りていって、もう一度同じ場所に紅小鉢を叩きつけた。こんども割れなかった。前よりも鈍い音で、コンクリートブロックからすこし外れたみたいだった。
 母さんはもう一度おなじことをした。息が荒くなっていた。でも割れなかった。
 父さんが立ち上がって母さんのところへ向かおうとしたとき、「来ないで!」とすぐに母さんが制した。
「これは私たちの問題なの」母さんは息を整えながらいった。「そこで見てて。お願いだから」
父さんがおとなしくソファーに腰掛け直すときに、僕にしか聞こえない小さな声で「私たち?」と呟いた。そのせりふが小骨のように喉にひっかかったみたいだった。
 父さんは僕を見た。僕はまだガラステーブルを見つめたままだった。父さんが小さくため息をついてふたたび母さんに目を向けたとき、紅小鉢が割れる鮮やかな音がした。粉々になってしまったような派手な音ではなく、中国製の爆竹みたいに乾いた音で、パンッとまっぷたつに割れたような音だった。
 母さんの代わりに、父さんがほっとしたような永いため息をついていた。



 

 切子が僕に宛てた最後のメッセージを見つけたのは、それから一年五ヵ月経ってからのことだった。
 大学への進学が決まり、その引っ越し準備で部屋を整理していた時に、僕はそのメッセージを見つけた。それは例のヘッセの『デミアン』の中にそっとはさまれていた。
 発見したのはまったくの偶然だったけれど、それがあった場所を考えると、いつかは必ず僕に発見されるものだったと思う。いつかは必ず訪れる偶然だ。
 挿まれていたものはまだ元気だった頃のケヤキの写真で、切子はそれをいつものベンチに坐って撮ったらしく、葉が生い茂った立派なケヤキが、画面いっぱいにおさまっていた。空はあくまでも蒼く、ケヤキの葉は生命力に溢れた緑色で、背後に風に流された薄い雲が見えていた。
 裏を返してみると〈あなたの扉が閉じるまで〉と青いインクで書いてあった。今度はまん中にきっちりと書いてなかった。遊園地にいったことを日記につけるような文字で、とても楽しそうにみえた。明日にでも僕と再会するのを心待ちにしているような感じだ。
 偶然かどうかはわからなかったけれど、その写真が挿まれた『デミアン』のページには、星に恋した若者の物語が載っていた。星にたいする愛に燃えて、ついに絶壁から飛び込んだ若者の話だ。

 ◆
 
 彼の夢はすべて星に向かった。あるとき、彼はまた海べの高い絶壁の上に立って、星を見つめ、星にたいする愛に燃えた。そして、あこがれのきわまった瞬間に身をおどらして、星を目ざし虚空に飛び込んだ。しかし飛ぶ瞬間に電光のように彼は、やっぱりだめだ! と考えた。彼は海岸に横たわり、打ち砕かれていた。彼は愛することを解しなかったのだ。飛ぶ瞬間に、実現をかたくしっかりと信じる精神力を持っていたなら、彼は上の方に飛び、星と結びついただろう。

 ◆

 そんな短い物語だった。
 意識して切子がそこに写真を挿んだのかどうかはわからない。パッと開いただけかもしれないし、最期の行動に、最後の夢を託しているのを、僕に伝えたかったのかもしれない。
 でも僕は、切子が星に抱擁できたことをいまでも強く願っている。ずいぶんと永い時を経たいまでも、強くそう思っている。
 僕は写真を裏返して切子からの短いメッセージを何度も読み返してみた。写真もじっくり眺めてみた。そして元あったページに写真を戻して、引っ越し荷物のなかにそっと忍びこませた。
 階下では、昼食を告げる母さんの小鳥のように明るい声が聞こえていた。


〈 了 〉



■参考文献
『デミアン』 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳 新潮文庫
※本作品はフィクションです。実在の人物、団体などは関係ありません。
※本書は参考文献から引用、参考にした箇所もございますが、作者自身の見解も含みますことを了承の上、お読みください。


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