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【長編小説】人ヲ殺して、もらいマス。#07

 5月13日 火曜日 PM15:08 / 伊原舜介
 
 南浦和駅の東口は、駅の扱い的には裏口のようだったが、タクシーが十五台も待機できる広場があった。高架下にタクシーを数台しか止めることができない西荻窪駅に比べると大きな違いだった。しかし、ざっと見たところ、伊原がいつも利用するような店があまりなく、街全体が面白みのない築三十年ぐらい経った役所の建物みたいな印象だった。住んでも一日で飽きてしまうだろう。
 駅構内のトイレで着替えを済ませてから、駅前の立ち食いうどん屋で腹ごしらえをして、携帯で地図を確認しながら岩渕のアパートへと向かった。
『岩渕の勤務先は知ってるのか?』とブギーマンにメールを送ってみると、すぐに
 ――ひとつ先の浦和駅で、ビルの清掃会社に勤務している、と返ってきた。
 ビルの清掃会社のことはよく知らないが、火曜日の午後三時に勤務がないなんて考えられないし、残業もないはずだ。伊原の会社でも、ビルの清掃はいつも午前中にしていたし、勤務時間外に掃除なんて聞いたことがない。セキュリティの面からしても、そんなことは考えられないだろう。だったら、帰宅は六時過ぎ。遅くとも七時には帰ってくる計算か。
 頼む! 今日だけはどこにも寄り道せずに帰ってきてくれよ、と伊原は心から願っていた。
 岩渕のアパートまでは、駅から普通に歩いて二十分かかった。薄汚れた二階建ての木造モルタルという、イメージしていたとおりのアパートだったが、〈南浦和キャッスル〉というアパート名のキャッスルヽヽヽヽヽを強調したかったのか、白い外壁にわざわざコテを撫でつけたような模様が付けられていて、屋根は光沢のある青い瓦屋根という救い難い外観だった。いまどきラブホテルでも見かけないセンスだろう。
 まったく同じつくりのドアが、上下に五部屋ずつ並んでいた。ワンルームという感じではなく、親子三人だったら充分に暮らしていけそうなスペースはありそうだった。
 ブギーマンから送られてきた動画と同じアングルになる場所に立ってみた。
 確かに、あの二日酔いの岩淵が下りてきた鉄製の階段がある。やはりアパートに面した道路に車を止めて、その中から岩渕を撮ったようだ。アパートの裏側に回ってみると、各部屋にベランダがついていたが、岩渕の部屋だけ洗濯機がなかった。洗濯物を掛けるロープもない。カーテンすらも見当たらない。まるで〈現在入居者募集中〉の部屋みたいだった。
 また入口の方に戻ってから、周囲を見渡してみる。道路だけでなく、どこかの家の窓から、こんな場所で、こんな時間にウロウロしている不審者を観察しているような人影が見えたりしないかと、注意深く見回してみたが、そんな姿はどこにも見えなかった。そこから見える窓が意外と少ないのも救いだった。
 階段を上がって、岩渕の部屋の前まで行ってみることにした。階段の下には壊れた自転車や、何度も雨に打たれてくたびれ果てた段ボールの箱などが積み重ねられて放置されていた。
 岩渕の部屋は二階に上がってまん中の二〇三号室だった。岩渕の部屋の前も、このアパートと同じように、というか、このアパートを象徴するように、なにも片付けられていなかった。廊下側に面したおそらく台所と思われる窓の外に柵があり、そこに五本も傘が掛かっていた。茶、紺、グレーのストライプ、緑青、そして透明という、サイズも色も形もまちまちだ。緑色の柄をしたほうきもかかっているが、それで最近掃除をしたような形跡は見られなかった。
 ガスメーターには、どこにも繋がってない三叉延長コンセントが巻きつけられていた。その下には、ビニール袋に詰められたゴミが三つと、段ボール箱がフタを開けたまま放置されていた。なかにはタウンページや雑誌が紐も掛けてなくてそのまま入れられ、表紙が陽に当たって白く変色していた。
 軍手をはめて、岩淵のドアノブをゆっくりと回してみた。玄関前のだらしない状態から、もしかすると鍵があいたままかもと期待したが、鍵はちゃんと掛かっていた。念のために台所の窓も確かめてみたが、そちらもちゃんと掛かっていた。
 意外と用心深い男なのかもしれない。
 そこから周囲を見渡してみると、この近辺は平屋の家屋が多いせいか、結構遠くまで見通せた。その場所から窓が見える家屋もあるが、それほど近くではないので、後で警察に顔写真を見せられても、犯人を特定するのは不可能だろうと判断した。
 二階の廊下の突き当たりまで行ってみると、そちら側に階段はなく、下は隣家の庭だった。緊急の場合に逃げ出せる場所は、いま上がってきた階段しかないということだ。
 階段を降り、その周囲でこれから何時間か隠れることができそうな所を探してみたが、そんな都合のいい場所はどこにもなかった。そんな所で、それも黒尽くめの若者がうろうろしているだけで充分怪しかった。不審者がうろついている、なんて警察に通報されたら致命的だ。
 その場で岩淵を待つことは諦めて、駅へ戻ることにした。考えてみれば、駅前で岩渕が帰ってくるのを待ち伏せていればいいのだ。そして帰宅する彼についていき、人がいない場所を見計らって背後から――。
 駅前で長い時間うろうろしていても目立ってしまうので、改札口を出て道路を渡ったところにある喫茶店に入った。店の前でも、すでに生クリームの甘ったるい匂いが漂ってきそうな店だった。駅前なのでそこそこ客が入っているかと思ったが、四時過ぎという中途半端な時間だったせいか、客はOL風の女性が二人と、作業服を着た男一人しかいなかった。
 マズい――。こんな時間にこんな黒ずくめの若者がこんな喫茶店にはいってくるなんて、そうないんじゃないかと急に不安になった。ここら近辺で目立つ行動はなるべく避けたかったのに、時間を持て余したばっかりにこんな行動をして墓穴を掘ってしまうのだ。しかし、今から店を出てはよけいに目立ってしまうと思い、伊原は入口に近い窓際のテーブル席にそっと坐った。
 すぐにまだ学生っぽいウエイトレスが水を入れたコップとビニール袋に入ったおしぼりを持ってきた。
「ご注文は?」
 女の子はニコリともせずに言った。注文があるのかないのかも興味ないみたいだった。背は低いが、身体はがっしりしていた。
「アメリカンで」と伊原がウエイトレスの印象に残らないように簡潔に注文すると、女がさっと眉を寄せた。本当に眉だけがきゅっと寄ったのだ。
「アメリカン?」
 女は復唱した。
「ああ。アメリカンで」
「アメリカンて・・・・、何ですか?」
「え?」
「え?」
 女も驚いているようだったが、もう何に驚いたのか忘れてしまったみたいに伊原を見ていた。
「ないの?」
「アメリカンですか?」
「そう」
 女は身体を乗り出して、テーブルの窓際に置いてあったメニューを取り、伊原に手渡した。悪い娘じゃないみたいだった。でも、変な注文をした男としてこの子の記憶に残るだろうか・・・・、と伊原はよけいに不安になっていた。
「こちらから、ご注文をお願いします」といって、女は伝票を手に、伊原からの注文を待っていた。
 確かに、メニューにはアメリカンがなかった。このところ喫茶店というものに行くこともなかったから、この世界からアメリカンがなくなっていたことに気づかなかったのだ。
「じゃ、ブレンドで」
「じゃ、ブレンドで」そう復唱すると、ニコリともせずに注文を書き留めて戻っていった。
 四時〇四分――。あと八時間足らずで結論がでているなんてとても信じ難かったが、どういう形にしろ、結論はでているのだろう。
 殺人者か、死か――。
 深くため息をついた。この喫茶店の前の通りは、岩渕が駅から自宅へ向かう時には必ず通る場所のはずだった。
 窓から外を眺めながら、ブギーマンにメールをしてみた。
『オレがいまどこにいるか、知ってるよな』
 返事はすぐに来た。
 ――南浦和駅前の『カシミール』だろう。私を試しているのか?
 こいつは一体昼間に何をやってるんだ? いつもすぐにメールが帰ってくるし、オレがいる場所も把握している。二十四時間オレのことをずっと監視しているのだろうか? あのキリヤマも同時に、ということなのだろうか・・・・。
『いや。そんなつもりはない。ただ、ちゃんとオレを見張ってくれているかなと思ってな』
 ――心配するな。お前は常に監視されている。
『ありがとう』
 伊原は苦笑いをしながらメールを返した。
『ブギーマンは人を殺したことがあるのか?』
 ――ない。
『オレが人を殺そうとしているのを見て、どう思う?』
 ――それも運命だ。
 運命? なにを言ってやがる! とブギーマンが目の前にいたなら強く罵倒していただろう。
 お前たちがオレの運命を強制的に歪めたくせに、それも運命だと? その言い草が気に入らなかった。
『オレの運命は、お前たちに無理やり歪められたんじゃないのか?』と少し挑発してみた。
 すると、ブギーマンからのメールが止まった。
 また空メールがくるのかとも思ったが、それならそれで仕方ない、と開き直っていた。
 それから少しの沈黙の後、ブギーマンからメールが送られてきた。
 ――お前の運命を歪めたのは、お前だ。
 オレが? 
 どういうことだ? 
 オレが自分の運命を? 
 自分が殺人者になるように歪めたっていうのか? 
 そんなことあるわけがない! 
 これは単なるあいつらの責任転嫁か? 
 それとも小難しい哲学的な話なのか?
 伊原にはよくわからなかったが、ここであまり突っ込んで訊いてしまうとまた空メールが送られてきそうな気がしたので、そのまま放置することにした。
 彼は長い深呼吸をひとつしてから窓の外に眼を向けてみた。
 駅前の人通りは、それほど多くはなかった。電車がホームに入ってきても、外にでてくるのは十数人程度だった。
 ずっとこれぐらいの人数だったら、決して岩渕を見逃すことはない自信があった。
『岩渕には発信機がついてないのか?』とブギーマンに送ってみた。
 ――付いてない。
『そもそも、あいつにこのブラックボックスを付ければ良かったんじゃないのか?』
 ――なかなか名案だな。気づかなかったよ。
 お? なかなか良い思いつきじゃないかと自分でも思った。
「じゃ、そうしてくれっつーの!」と呟きながらメールを打った。
『じゃ、そうしてくれないか?』
 ――残念ながら、そんな計画はない。
「だろうな・・・・」
 伊原は携帯をテーブルの上に置いて、椅子の背に身体をもたせ掛けた。そして店内を見まわしてみる。
 伊原が坐っているような四人掛けのテーブル席が十二席あった。喫茶店としては大きい部類だろう。白いテーブルに、黄色いビニール製の角ばったソファー。壁にはビールジョッキを手に持って嬉しそうに笑っているビキニ姿のアイドルのポスターや、『全席、全時間禁煙』という張り紙が合計八枚も壁に貼ってあった。テーブルにもそう書かれたプレートが置かれていた。よほど煙草の煙が嫌なのか、どれだけ書いても守る人間がいないのかはわからなかったが、落ち着かない喫茶店であることには違いなかった。
 でてきたブレンドも、しょう油を煮詰めてお湯を足したような味がした。どうせならもっとお湯をいれて欲しいぐらいだった。
 ブギーマンからメールがきた。
 ――言っておくが――、とブギーマンは書いていた。
 ――今朝送った岩渕の動画だが、あれを撮影したのはちょうど一週間前の午後四時だ。
 伊原の目は、しばらくそのメールに釘付けになった。
 そしてすぐに『清掃会社に勤務してるのでは?』と送ってみた。
 ――それは事実だ。だが、撮影した時間も事実だ。
 その意味を理解すると、まだブレンドは半分以上残っていたが、彼は伝票を持ってすぐに立ち上がり、その店を出て岩渕のアパートへと急いだ。
 清掃会社勤務だといっても、時間が不規則なのか? だったら、この時間でも、一週間前と同じように、いまもあのアパートの部屋でごろごろしている可能性が高いではないか! 
 伊原のその慌てた行動は、この静かな住宅街ではとても目立つ行動だったが、もういますぐにでも岩渕がドアから出てくるんじゃないかと思うと、周囲を気にしていることなんてとてもできなかった。息が続く限り、思い切り走っていた。


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