見出し画像

「誰かの人生を変える出会い」になれる日が来るのかな


今日は珍しく仕事のことを書いてみます。


私が仕事のことを書くことで伝えたいことがあるとしたら「どんな仕事でも、楽しめたり自分らしさを発揮できるときには《出会い》がキッカケになっている」ということかもしれません。書き終わったら、もっと違うことが伝わる記事なっているかもしれません。


私は今、市の保有するある土地を有効活用するという仕事をしています。

ここにたどり着くまでの経歴を超概略でご説明すると、環境対策課というところで自動車公害や公害対策の企画担当をしたのち、交通環境対策課・交通環境政策課というところでエコカー普及や自動車の環境対策(エコドライブとかモビリティマネジメントとか)を担当しました。

ここまではいわゆる化学技師っぽい、環境政策担当のキャリア。

この後、環境未来都市推進課で電気自動車の普及の官民連携プロジェクト、エネルギー政策、地域活性化総合特区などの事業に携わりました。このあたりから、化学技師らしさが薄れていきます。

そして、内閣府/内閣官房への実務研修派遣。2年間の派遣期間中に政府から地方創生という政策が打ち出され、その震源地にいました。政策実務研修員なのに、まち・ひと・しごと創生本部事務局への兼務で中央省庁の地方移転の仕事にも少しだけ関わりました。

国に派遣されることになったときは、いよいよ「私、化学技師なんですけど、人事は私のキャリアパスってどんな風に考えているんだろう?」と悩んだりして、それが後に2枚目の名刺をもって役所の外に出て活動するキッカケになったのですが、当時はそんなこと思いもよらず、ただただモヤモヤしていました。

2年間の派遣期間を終えて、市役所に帰任する際の3月末の内示がまさかの「都市局」。土木技師さんがいっぱいいるところ。

恐らくさいたま市役所始まって以来初めての「都市局所属の化学技師」。

そこで私が担当することになったのが、旧大宮市が買った2ヘクタール超の大きな公有地の有効活用。大宮駅近く素晴らしい立地なのに、有効活用されずに20年以上市営駐車場のままになっている公有地。
市役所としては公共施設(ハコもの)は充足しているし、新規整備は公共施設マネジメント計画の考え方からも抑制的。

ということで、民間企業などに土地を活用してもらい大宮という街をもっと盛り上げていきたいのだけれど、さて、どうしたら民間から担い手が現れてくれるか。それを考え、準備をし、実行し、この土地を嫁に送り出すのが私のミッション(だと私は理解しています)。


ざっと、駆け足で2005年に入庁してから、2021年の現在までの私の仕事の経歴をご紹介しました。


そして、冒頭の話です。

どんな仕事でも、
楽しめたり自分らしさを発揮できるときには
《出会い》がキッカケになっている



私はこちらの記事でも書きましたが、とてもとても公務員になりたかったというわけではなく、公務員にでもなるしかなかった「デモシカ公務員」です。


その私が、化学技師として配属された環境対策課には、とても楽しそうに仕事をする係長さんがいました。

私は早く帰って好きなことでもやればいいかなって思って公務員になったのに、仕事を任されて、ちゃんと仕上げれば認めてもらえるのが嬉しかったな。そうそう、上の記事でも書きましたが私は大学院で研究生活からドロップアウトしたこともあって、お金を払っていやいや実験とか研究とかをやっていたのに、公務員になって資料をつくったらお金をもらえるのが新鮮で「こうやって作業をしてアウトプットしてお金がもらえるって、すごい世界もあったものだな~」と思ったことを憶えています。

その私に係長は「うちはやる気があるなら、若くてもどんどんやってもらうから」と言ったんです。

それは口だけじゃなくて、ホントにどんどん仕事を任せてくれて、どんどん仕事ができるようになって、1年目の終わりには環境省の事業に応募して採択してもらって春から予算ゼロで市民向けの事業を展開できたり。

この最初の部署では、もちろん最初の係長さんとの出会い、そして彼の「うちはやる気があるなら、若くてもどんどんやってもらうから」という言葉が私のスイッチを入れてくれました。多分、この言葉がなかったら、私は今の私にはなっていなかったはずです。



その後、次の転機となったのは恐らく電気自動車の官民連携のプロジェクトに引っ張られたとき。

自動車メーカーの本社に行って先輩たちとつくった企画書でプロジェクトのプレゼンをさせてもらって、自動車メーカーの社長さんとさいたま市長が協定の締結式をしたり、また別のメーカーとは市内の小学校で電気自動車を使った環境教育のプログラムをつくったり、また別のメーカーとは新しいタイプの小型電気自動車の車両登録にむけて関東運輸局と協議を重ねて公道での実証実験までこぎつけたり。

この時は、のちに私の上司となる2人の先輩、特に上の先輩、私たちが3兄弟だとしたら長男(なんて勝手に言ったら怒られるかもしれませんが)にあたる先輩との出会いは大きくて、「島田君は、化学技師なんだから事務屋(一般の事務職)の連中より事務ができるようにならなきゃな」という言葉が私をただの化学技師から、技師というキャリアに囚われずにどこでも働ける公務員に引き上げてくれました。

もちろん言葉だけではなく、指導は厳しく、要求水準も高く、一緒に働いていた人の中には結構シンドイ思いをしていた人もいたと思います。

でも、上司にここまで言われて、放り出したり逃げ出したりできるわけもなく、やっぱり応えたいって思ったのをよく憶えています。それこそ国に地域活性化総合特区の指定申請する際の幹部会議前には、夜中の2時ころまで残って資料を作り込んだ日もありました。

あの頃が多分私のキャリアの前半で最大のタフアサインメント。

あの時期があったから、今も、膨大な仕事でも難しい仕事でも自分にはなんとかできると思えるところがあります。



次の転機は、内閣府/内閣官房への実務研修派遣のときに、全国から集まったエリート地方公務員のみんなとの出会い。

さいたま市役所ではそこそこデキる方なんじゃないかと、ちょっといい気になっていた私が、当時の地活(内閣官房地域活性化統合事務局)の60人ほどいた研修員の中では、ほとんど目立つことがありませんでした。
いっそ、国の人たちより優秀なんじゃないかと思うほどだったのは、後から聞いたら、やはり各地の役所から派遣されてくる人たちは組織からの期待も大きく「行かせて国でも務まる職員」そして「そんな貴重な経験をさせて育成したい逸材」が派遣されているとかで、正直国の優秀な官僚たちとの出会いよりも衝撃でした。

負けてるなと思うことも多かったですが、負けていられないなと興奮したのも事実。

ちなみにたまたま私はSNSなどで全国の地方公務員の皆さんと繋がりがありますが、当時の彼らのことを思うと、ネット上とかそういう目に見えるところに出てこないけれど、驚くほど優秀な地方公務員が全国にたくさんいるんだということを私は容易に想像できます。



入職して最初の係長
官民連携のプロジェクトのときの上司
全国から派遣されていた研修員

この出会いは、間違いなく私の公務員人生を変えました。


どんな仕事でも、
楽しめたり自分らしさを発揮できるときには
《出会い》がキッカケになっている



私の場合はたまたま、それなりに大変な仕事のときにそういう出会いに恵まれてきました。結果的にタフな仕事なんだけど、その出会いのおかげで仕事を楽しめたり、自分なりのポジションをつくってそこで自分らしく活躍できたり。


今はただいい思い出として思い出すばかりですが、私自身が彼らのように「誰かの人生を変える出会い」になれる日が来るのかな、そんなことを最近はよく考えます。

そんな出会いをもたらせる人になれるなら嬉しいのですが、もしなれないとしたら、どんな風にしていただいた恩を先へと送ったらいいのか、考えてしまいます。


皆さんにとって「人生を変える出会い」とは、どんなものですか?
皆さんご自身は、そんな出会いをもたらせるような人になれているでしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?