なぜ”クリスマスソング”は「坊さん」に恋するのか?
メリークリスマス。毎年来るこの季節がやってきました。今年もこんな風にnoteを書いたりTwitterしたり、でもクリスマスチキンとケーキは食べるというクリスマスを過ごしています。
さてさて。
気が付いたら毎年のようにこの時期に何故か聞いてしまう"あの曲"を、「へそまがり」に解釈したいと思います。
そうです。
back numberの「クリスマスソング」を。
名前の通り、クリスマスに君に片思いする、という内容の曲(めちゃくちゃ端折りましたが)だ。
僕も、このくらいの片思いはするのですが、このnoteで書きたいのはそうじゃない。笑
「お坊さん」?
そう、タイアップとなっているドラマが「5→9 私に恋したお坊さん」なのだ。え?
え?え?「クリスマスソング」に「坊さん」?
と思ったので、ついペンを(というかパソコンを)とって、書き始めてしまったのだ。ここからは曲解も含めて書くので、乱文をご容赦いただきたい。
お坊さんだって
僕はお寺の息子である、という話はたびたびしているけど、煩悩がある\ないでいったら、明らかに「ある」方だろう。
先日書いたnoteに書いたのは、まさに「不安」といいつつ煩悩だろう。
これを煩悩といわなかったら何と呼ぶべきだろう?
よく、「お坊さんは修行しているから、煩悩がない」という人がいるが、違う。むしろ「煩悩があるから修行している」のが僧侶だと思う。(思う。)宗派によって変わるけど、修行を通じて、悟りの境地にたどり着く、衆生を救う、導くものなることを目指すのが僧侶だ。だから「煩悩」はあってしかるべきだと(僕は)思う。
僕の仲良いお坊さんは、「僧侶は職業じゃない、生き方だ」という言葉の通り、自分もその煩悩があって、でも修行を通じて、この世界に仏様が作ろうとしている万人の無病息災で平和な世界を作れるようになりたいと思う。剃髪しているから僧侶なんだ、ではないのである。
だいぶ本題から離れたけど、「クリスマスソング」の話に戻りたい。
お坊さんは片思いをどう言うのか?
ドラマを見ていないのでなんともいえないけど、文字通り「イメージ」だけで語ってみようと思う。
こんな「僧侶」という生き方をしている人たちが「片思いをしてしまった」のなら、この「クリスマスソング」通りの気持ちになるのだろうか?という命題を掲げて勝手に考察してみようと思う。
この部分は、お寺の中だったら余裕であり得るのである。
何ぶん、お寺って寒いのだけど、読経した後って少し気持ちよいものだったりするし、「あれ なんで恋してるんだろ」というのも、「煩悩」と感じている証拠なのかもしれない。
これは、過去を思い出して、出会ったときから、そこから自分も自覚を持たなかった自分が見つかってくるというフレーズなんだけど…
ん?もしこれが・・・
「み仏様・阿弥陀様」との出会いだとすれば?
というところまで問いかけがたどり着く。
あの時、仏様(または仏教の教え)に出会って、自分も知りえなかった気づきがたくさん生まれてきたんだ、という意味にとらえられるとしたら?
ある意味「お坊さんに恋する話」でも、いや、「お坊さんが恋する話」にこの曲が使われるのは不自然じゃないと思った。
最後のフレーズに至っては
これの「君が好きだ」の「君」を仏様に置き換えたら、
南無阿弥陀仏
とか
南無大師遍照金剛
とか
南無妙法蓮華経
とか
南無釈迦尼仏
とか?
そういうことになる。
何度でも仏の名前を唱えて、「あなたの力は無限大なのだ(超訳)」というのが上記の言葉の意味なので、実は「クリスマスソング」は「仏様への帰依」を遠回しに言っているのでは?という解釈をしてみた。
というわけでこのnoteをご覧くださるお坊様方、ぜひback numberの「クリスマスソング」でご法話を説いていただけませんでしょうか…?
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