話す、という「大きなコスト(=潜在的損失)」を乗り越え Diversityの海で③
ここ数か月、「会話」をする事が「大きなコスト(=潜在的に損益をはらむもの)」と感じている。
ここでの”コスト”は、「会話をする事によって、自身に対して「潜在的に利益になることもあるし、損失になることもある」という意味で使う。
そのように「大きなコスト」に感じている中、本格的にこうなりかけた▽
相当極端ではあるけど、「誰かと話す」ということに対して、「話せば話すほど損をしている」という感覚に襲われて、話しかけられない限りしゃべることをやめるようにしている。仕事でも、チャット上のやり取りや必要に要さない限りなるべく「話す」という行動を避けるようにしたいくらい。
親にも相談したし、どうしようかな、と悩んでいる。今も。
その一方で、発言をしてみることで見えてくることもたくさんある。
この前、プログラム内でのちょっとした発言が、「自分は考えてもみなかったことだけど、しまさんが言ってくれたから考え直すきっかけになった」と言われた。価値があった発言だよね、と言われることはうれしい。
言い方はおかしいだろうけど、投資した分のリターンがあった感覚を覚える。
奇遇にも、今日ラジオを聞いていたこの曲が、この出来事を示してるように思った。
そこら中にありふれたキャラクターが魅せる奇跡の日々
こんな歌いだしの、緑黄色社会の「キャラクター」という曲だ。
どんなに失敗しても、迷惑かけても、「愛おしい」という感情は人を包める。
”そこら中にありふれたキャラクターが魅せる奇跡の日々”は、いいかえると、どこにでもいそうなあなたみたいな人でさえも彩りあう、どんな些細なことも、奇跡の日々なんだ、とも聞こえる。
ブルーハーツの「TRAIN TRAIN」の歌詞の
のような感覚だろうか。どんな今日でも、あなたと過ごせばどんなに意味があり、素晴らしいだろう。
僕は、人を知らずに傷つけているかもしれない自分がいて、自分の発言が信頼を裏切るようなことなのに気付かない自分がいて、それが常に邪魔だと思っている。発言するたびに、そういう自分が顔を出してくることがホントに怖い。
常に「誤解されたくない」という思いで発言には大量の注釈が付くようになった。おかげで「話が長い」と言われるようになった。結論ファーストで話しているけど、結論ファーストからが長すぎてまた怒られた。しかも注釈つけてるのに結局言ってることが失礼に当たってしまっていてまた減点、の繰り返し。
でも、すべからく全ての発言がそうなのかというと、そうではないのかもしれない。僕の話や発言を聞いて、「ありがとう」「こういうことが手に入ったよ」という言葉が現れることが、こんなにも自分が洗われる感覚になるとは思わなかった。
僕が僕であること、それでいいんだ
この曲の主題というべきか、「君という存在が、君であること、それでいいんだ」というフレーズが頻出する。題材は、演劇の稽古に例えられている。
そのままどこかの掲示板にでも貼りたい言葉だ。笑
よくよく「弱音に本音が隠れているもの」とは言ったものだが、本音というよりも「君の中に君がいること」という方向の方が前向きに聞こえる。
先述の「話すことが怖い」というのは、今も続いている。
そのようになってから、プログラム「Diversity Journey」に参加しているメンバーにこのことを話したときに、「そういう発言、私たちが気付かないこととか、自分はこういうことを話してみるべきなんだって気付いた」と言われたのが救われたと思った。
たぶん、僕が話すこと、僕が気付いたことをただただ話すこと、それ自体は誰しもありふれている行動なのかもしれないけど、その「ありふれている行動」自体に意味があって、意味を拾う人がいて、そしてものによっては「そういうあなたがいいのだ」と感じている人がいる。その人のためなら、僕が言うこと、話すこと、それ自体が価値として提供できることなんじゃないかな、と思った。
比べられる指標ばかりが目立つこの社会だから
僕らは、「年収」「成績」「貯金(資産)」といった、多様性社会の中でもある意味普遍的な「数字指標」で人間の価値の一端を測りることになる。
だって、みんな横並びに測定できるものがそれくらいしかないから、という話を書いた人がいた。(断っておくが、この記事に賛同したいわけではなくて、シンプルに「多様性社会においてはお金の価値があがるよね、という話として引用する)
この気付きはかなり納得感があった。どんなに多様性社会を!認めあおうじゃないか!と言っても、個人のメリットの有無の問題まで落とし込んでいく以上、結局最後それで測定されて、分別が再生されてしまうじゃないか、と。
ただ、この考え方を最近改めようと思った。あまりにも黒白思考すぎた笑
これらの指標は、人の「稼げる価値」を測定する、”特定の”スペックを測るには適切だが、その人人間価値全てを算定するにはあまりにも不足だと、僕は思いたい。(社会一般がどうか、は知らん)
生きている中で価値を作ること、価値を感じる人に提供し続けること、そして目の前の人(あなた)を幸せにすること自体は、数値だけで表そうとするには限界があるんじゃないかな?ということなんだと思う。
「キャラクター」の中でも終盤、象徴的なフレーズが登場する。
僕にしかできないことなのかもしれない(ありふれていたところで、そこでできるのは僕だけだった、それが奇跡だ)。
ひとつひとつに「正しい」「間違っている」を評価するんじゃなくて、その場の空気で正解を問い続けるんじゃなくて、「自らと、その行動を”愛すべき”なんだよ」と教えてくれる。意味づけは他人がするんじゃなくて、すでにあるものなんだから、と。
「誰かと話す」ということに対して、「話せば話すほど損をしている」という感覚に襲われている状況は、少し良くなったけど、やっぱり怖いままだ。その壁を越えろ!と言われるのはわかり切っているけど、正直しんどい。
でも、その「話せば話すほど損をしている」というのは、とある現象の側面なのかもしれない。それも一人で勝手に思い込んでいる。
行動をして、その行動に対して感謝されること、それは「愛」なんだと思えば、その「愛を無下にするのか?」という自身に対する問いにもなる。むろん、無下にしたくはない。その愛を、受け止めたい。
だから、ひとつひとつの行動自体を大切にしよう、感謝や声をかけてくれる人の想いを受け止めていこう、とこのnoteを書き上げる頃には考えるようになっている自分がいた。
どんなことから、行動を「愛してみよう」かしら。
▽緑黄色社会「キャラクター」Liveバージョン
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