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054.読書日記/クドカンと山本周五郎「季節のない街」(追記あり)(さらに追記あり)

宮藤官九郎という若き才能が、初めて映画の脚本を担当した「GO」という作品が公開されると聞いて、映画館に見に行ったのは23年前(wikiで調べた)。映画の主人公の実家の雑然とした様子が、まるで我が家でロケをしたかのような似具合で驚愕した記憶しかなくて、ちょっとYouTubeで検索してみたら、映画1本丸々上がっていて(広告もついてた)、23年ぶりに見てもやっぱり昔の我が家みたいで懐かしかった。
それから「タイガー&ドラゴン」や「あまちゃん」「ゆとりですがなにか」などクドカン脚本の連ドラの半分くらいは熱心に見ていたし、映画も「真夜中の弥次さん喜多さん」とか、いくつか見た。
夏フェスや音楽イベントでグループ魂のライブには何度か参加して、不思議なコール&レスポンスも青空のもとで叫んだりもした。
さらに言えば、古田新太ファンの友人に連れられて、宮藤さんも出演の舞台を数度観ている。「メタルマクベス」も観たような気がしているのだけど、井上ひでのりさん演出の別の舞台だったかもしれない。忘れた。歌舞伎は見てない。
こうして思い返してみると、すごく熱心なファンではないけど、そこそこのファンな気がする。

「週刊文春」に連載の「いまなんつった?」も、「ミステリーレビュー」の次に読んでる。「コロナに罹った」とか「歯の矯正を始めた」とか「『不適切』のダンスの振り付けは奥さん」などのクドカンプチ情報が得られます。
その連載で、去年にDisney+で配信していた「季節のない街」をテレ東系列で放送と知り、録画予約して見ています。脚本だけでなく、監督もクドカンなんですね。

なかなか面白いなと見ていたら、クレジットに「原作 山本周五郎『季節のない街』」とあり、読んでみる事にした(前置きが長すぎる)。

山本周五郎全集が昔の実家にあった。「GO」によく似た実家の応接間の本棚に並んでいた。「赤ひげ診療譚」と「楡の木は残った」だけ読んで、あとは手付かずであった。

驚いたことに、図書館で借りてきた「山本周五郎/長篇小説全集/第二十四巻/季節のない街」(新潮社/2014年発行)には、古典文学のように各ページに細かく注釈がついていた。現代語の本なのに、戦後に書かれた本なのに!

各ページに注釈がびっしり。

注釈など見ずとも分かりますがな、アタシも昭和の女ですし、と思いつつ、付いていると気になるので、いちいち読んでいたら、「ひねこびた」とか「よた者」「戸板」「柳行李」「三百代言」等々、今の若い人はわからないかもな〜というワードが並んでいた。私も親や祖父母世代の言うことや、一つ前の時代の本などで仕入れた知識で意味がわかるギリギリの世代かもしれない。
少し前に30才くらいの同僚と喋っていて「邱永漢」や「堺屋太一」がわからない、と言われてしまった。何の話をしてたかと言うと、邱永漢氏の奥方と娘がヘレンドのシノワズリシリーズを集めてると「家庭画報」で紹介されてて羨ましかった、というのと、団塊の世代とは、というどーでもいいハナシだったので別に仕事に支障はなくって、ただ別段どうでもいい話ができなくてツマラナイ、と言うだけだ。
注釈の中で、へえ〜と思ったのが「言いだしっぺ」。単純に「田舎っぺ」のように「ぺ=べえ=人」の意味で「はじめに言い出した人」のように思っていたら、「言い出しっ屁」で「最初に臭いと言い出した者が、おならをした当人である」と言う意味だそうで、勉強になった。注釈、侮りがたし。

「季節のない街」は、時代や地域の設定はない架空の貧しい街。弱かったりズルかったり、偉くもなく極悪でもない、こんな人たちいるよな〜という登場人物らが身を寄せ合って生きている。私の周りにもいた。私は子どもの頃からボンヤリで(今もだいたい上の空)、あまり気にしていなかったけど、今になって思い出せばそう思う。お金持ちの大きな家もあったけど、貧しい家も多かった。いつも内職している友だちのお母さん、パート先の店長と不倫してると噂されてた隣の奥さん、台風が来たら吹き飛びそうなあばら屋、近所のオバサンたちが「2号さん」と陰で呼んでいる人の家もあったし、養子や養女の話は私の親の世代では掃いて捨てるほどあった。「夜逃げ」もあったし、昭和世代の庶民は、貧しさの程度の差こそあれ「季節のない街」の住人と地続きなように思う。

ドラマでは主人公は池松壮亮さん演じる半助で(原作では一話しか出てこない)、謎の男ミッキー(鶴見辰吾さん)に送り込まれて、街の様子をレポートしている設定で、連続ドラマの体裁になっている。現代にスライドしている割に原作に忠実でうまく構成されていると思う。「タイガー&ドラゴン」では落語の話の現代アレンジが秀逸だったので、この手の方式が得意なのかも。ドラマを3話まで見たところで原作を読んだので、登場人物は脳内でそれぞれの役者さんがイメージされた。「プールのある家」は、又吉さんと子役の男の子を思い浮かべて読んでいたら、ドラマと違う悲しい結末であった。「親おもい」はドラマが良く、「牧歌調」は原作のが良かった。
黒澤明監督の映画版も見てみたい気がした。

若い人たちはこの街の住人が自分と地続きの世界で暮らしていると思うのか、ありえないファンタジーだと思うのか。どうなんだろう?


ドラマを続けて見ていたら、第三話で終わったと思った又吉さん親子のエピソードの続きが本の章タイトル通り「プールのある家」として第六話に登場した。悲惨すぎてスルーしたのかと思ってたのだけど、「季節のない街」の中でも強く印象に残る話なので、そんなわけないのであった。…ないのであったけど、時代の置き換えや設定の置き換えが得意なクドカンであるけど、原作の言わんとすることを伝えきれてないんじゃないかとも感じた。

お父さんは饒舌で様々なことに博識のようで実は浅薄な知識で間違いも多い(落ちぶれる前は普通の暮らしをしていたことと落ちぶれる理由のあることの両方を示唆してる)。子どもはお父さんが話しやすいように相槌、合いの手を入れるのを最大目標にしていて、父への忠誠と愛情が生活の全てな感じ。食料の調達は厳しい。街の人は遠巻きに眺めているだけで、関わり合わない。お父さんも能動的に動かない。空想と目先のことで暮らしを埋めていく。

ドラマでは、「自由」か役所のくれる「安全」かどちらがいいのかと言う話になっていた。役所に保護されたら親子離れ離れになるかもしれないし、意に沿わないシゴトに就かされ、そこで周りに小突かれながら生きないといけないかもしれない(そんなルポ本をまた別で読んだ)。
山本周五郎本を読んだ時の私の受け止めでは、能動的に生きる気力を無くしたお父さんと傍観者であった街の人が、子どもを死なせて(見殺しにして)しまった、と言う側面を大きく感じたのであった。


クドカンドラマの最終回を見た。私がドタバタコメディーみたいなのが嫌いだから仕方ないし、戦後すぐを令和の”今”に置き換えたのだから、何もかも同じにはならないとはわかっているけど、なんかイヤだった。原作と随分乖離したんじゃないかなと感じた。
ドラマではドタバタの後に「令和のスラム街」は解体され消滅し、登場人物たちは新しい衣服を見に纏い、それぞれの場所で「社会に溶け込んだ」、とのことで「季節のない街はこの世に存在しない」と半助の創作の中で言わしめている。山本周五郎は「いつ」「どこで」や社会条件が違ってもこのような悲喜交々は存在する、と、淡々とあとがきで述べられているのと、なんだかずいぶんドラマの終わり方が違うように感じた。
マンガがドラマ化されるにあたって原作が蔑ろにされることが多いというようなことが「セクシー田中さん」以来よく言われていて(両方に言い分はあるとは思うのだけど)、作者がすでに亡くなっている場合は、これ一体どうすんねん?って思ってしまった。
宮藤さんの方が脚本を書くにあたって原作についてよくよく考えられたと思うので、私の受け止めと違っているからと非難するのは違うかとは思う。いろいろドラマを拝見してきて、一話ごとの出来不出来に割合に波があるのが宮藤さんの個性かな、とも思ってる。

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