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空の飛び方

「私たちが幼馴染なのって、奇跡だよね」
 あの日、遥が突然そんなことを言いだしたものだから、僕は狼狽えてしまい、「ばっかじゃねーの」と、手に持っていた数学の教科書を放り出した。机が大げさな音を立て、遥は一瞬驚いた顔を見せたけれど、すぐに「まー君にはわかんないかなあ」と、目を細めた。
 遙とは幼稚園からの幼馴染だった。母親同士がママ友で、小学生の低学年までは、お互いの家をよく親子セットで行き来していた。中学生になってからは、成績の良い遥に僕の母親が頼んで、時々一緒に勉強をしていた。
 遥が家に来てくれるのを嫌がるふりをしながらも「母さんがうるさいから」と言い訳して、一度も断らなかった。
 遥は、僕より随分大人だった。
 僕が照れ隠しでぶっきらぼうな態度をとってもいつも受け流してくれた。だから、たとえずっと素直になれなくても遥は僕のそばにいてくれるものだと錯覚していた。
 実際、高校に入ってもそう変わらない関係が続いていた。
 遥から『空の飛び方』を渡されたのは十六歳の誕生日の朝だった。
 その年は残暑が厳しく、十月に入ってもTシャツとトランクスで寝ていた。
「まー君、誕生日おめでとう」
 遥の声で目を覚ましてすぐに「ヤバい」と気づいてまずタオルケットで下半身を隠した。
「下着くらい見慣れてるのに」
 遥は軽くそう言ったが、見られたくなかったのは下着ではなかった。
「なんだよ、いきなり来て」
 誤魔化したくて大きな声を出してしまった。
「プレゼントを早く渡したくて」
 遥が珍しく、暗い表情になった。
「そうか……」
 謝ることも礼を言うこともできずに、俯いた。
「とにかく着替えるから、一旦、出てくれ」
 遥は「渡すだけだから」と言って、手に持っていた物を差し出してきた。水色の紙でラッピングされていた。
「おう」とだけ言って、受け取った。
「まー君が遊びにいっちゃう前に渡したくて来たけど、早すぎてごめんね」
「いや、別に」
 特に用事はなかった。
 僕は遥に、せっかく来たならどこかへ遊びに行かないかと、言い出せずにいた。
 落ちつかない態度のせいで、遥から「お手洗い?」と、言われた。
「違うって!」
 つい、乱暴な口調になった。遥は「ごめんごめん、帰るね」と、部屋を出ていった。

  一人取り残された僕は苛立ちを抑えられずに、枕を掴んで壁に投げつけた。その時、枕の脇に置いてあった遥からのプレゼントがベッドから落ちた。床に当たった時に割れたような音をたてた。僕は慌てて拾って中を確認した。
 中身はCDだった。ジャケットの写真は、オレンジ色がかっていて、羽の生えた女性が微笑みを浮かべている。スピッツの『空の飛び方』というアルバムだった。僕らが生まれるより何年も前に発売されていた。
 落としたせいでケースの裏面にヒビが入ってしまった。中のCDが心配になりケースを開けた。CDは、鮮やかな空にいくつかの雲が浮かぶデザインだった。ディスクには問題が無さそうだ。
 どんな曲なのかが気になりはしたが、僕はCDを再生する機器を持っていなかった。
 母親からパソコンを借りて、音楽プレーヤーに取り込むことにした。
 スピッツの曲をじっくり聴くのは初めてだった。
 中には、好きな相手に対する性的欲求をストレートに表現してあるものもあった。
 そして以前、遥に「私たちが幼馴染なのって、奇跡だよね」と言われた理由がわかった。
 遥がプレゼントしてくれたというだけで、『空の飛び方』は、僕にとっては特別なアルバムになった。

 スピッツを好きになってからは、共通の話題ができ、遥と会話が続くようになった。それでも相変わらず、並んで座っていても微妙な距離は保っていた。
 12月21日には遥に誘われて、二人でスピッツのボーカル『草野マサムネ』の誕生日を祝うことになった。
 遥の部屋で、ケーキを食べながらスピッツの歌を聴いた。まだ僕が知らない歌を遥からいろいろ教えてもらえて、楽しい時間だった。次の年も、次の次の年も草野マサムネ誕生会は、続けられた。
 僕は、遥に聴かせてもらって気に入ったアルバムから、地道に小遣いをためて集めていった。遥は『空の飛び方』と発表時期の近いメロディアスでどこか切ない曲を好んだが、僕はそれよりも前の、棘のある曲が好きだった。
 スピッツの曲を聴くたびに、僕と遥がいつか歌の中にあるような甘い関係になれるような気になった。
 きっかけさえあればと思いながら何も起こらないままに、僕らは別々の大学に進学した。
 さすがに、学校が離れると遥と会う機会が減った。週に数度、メッセージのやりとりはなんとか続いていた。
 僕はどうしても「会いたい」と言い出せなかった。振り返れば、いつだって遥が声をかけてくれたから会えていたのだ。でなければ、幼馴染というだけであれほど頻繁に行き来するわけはなかった。
 遥に、大学で気になる男でもできたのではないかと、僕は焦った。それとなく忙しいのかと訊ねると、遥から『すごく忙しい』と、返信があった。僕はそれ以上、何も訊けなくなった。
「会いたい」とも、「時間を作ってほしい」とも言えず、僕は偶然を装うためにお互いが通学に使っている駅で無駄に長居をした。
 そうしているうちに、遥が男と二人で歩いているところをみかけた。相手には見覚えがあった。同じ高校のひとつ上の先輩だ。生徒会役員もしていたので、名前も知っていた。クラスの女子がカッコいいと言っていたのを聞いたこともあった。
 幼馴染であること以外に、僕には遥と一緒にいられる理由がなかった。
 遥は可愛い。僕は見た目はいたって平凡で、おまけに遥の方が良い大学へ進学した。長い時間一緒にいたというだけで、優しくしてきたわけでもなんでもない。
 なぜ、ずっとそばにいてくれると思い込めたのだろうか。
 幼馴染はあくまで幼馴染でしかなく、恋人より優先される存在ではないことに気づけずにいた。

 僕は、遥を忘れるため、友達に、合コンがある時には誘ってくれと頼んだ。友達から、遥と何かあったのかと訊かれた。僕は「ただの幼馴染だから関係ない」と、強がった。
 合コンに行ったからといって、好きになれる相手がすぐにみつかるわけもなく、僕は鬱々と過ごしていた。
 遥からは、定期的にメッセージが届いていた。僕はいつでも当たり障りのない返信をしていた。彼氏の話題が出てこないから助かっていたけれど、惚気のろけられでもしたらとても返信できなかった。
 夏に一度、遥からスピッツ主催の野外ライブに誘われた。僕と二人で行くつもりだと言われた。「男と二人ででかけて問題ないのか?」と、確認すると、「私たち、幼馴染だよ。問題あるわけないでしょう」と返ってきた。
 遥にとって、幼馴染は異性の扱いではないと思い知らされて、僕はひどく傷ついた。
 だから、ライブへの誘いを断ったし、これからは用もなくメッセージを送ってこないでほしいと伝えた。
 どうすれば、遥への想いを断ち切れるのか。大学の講義に出ている間も僕はそのことばかり考えていた。
 僕の誕生日に、遥がメッセンジャーバッグをくれた。いつものように直接には渡されず、僕の母親に預けられていた。色も大きさもデザインも、僕の好みをよくわかってくれていた。それがよけいに辛くて、僕はラッピングの袋に戻してそのまま押入れの奥にしまい込んだ。
 遥への誕生日プレゼントは、大学近くのケーキ屋で焼き菓子のセットを買い、その場で遥の家への配送を頼んだ。
 僕は自分でもどうしたいのかわからずにいた。遥が先輩とわかれたら、僕のことを見てくれるのではないかと、まだ、期待しているのかもしれなかった。
 一方で、このままの距離を保ち続ければ、いつか、遥の結婚式に呼ばれてしまう可能性もあると、考えることもあった。
 いつだって僕は受け身だった。いつか、きっと、遥がただの幼馴染という関係を壊してくれるはずだと、ずっと待っていた。
 遥から、お菓子のお礼のメッセージが届いた。そのあとで、今年も例の誕生会に誘われた。「最後にするから、来てほしい」と言われて、絶対に行きたくない気分だったのに、断れなかった。
 もう、いい加減に諦めなければいけない。だから、最後に二人で会って自分の想いに区切りをつけようと、僕はそう心に決めた。

 結局、毎年恒例となっていた12月21日の誕生会は、開けなくなった。
 遥が、12月にはいってすぐに、交通事故で亡くなったのだ。あまりにも突然のことで僕は受け入れられずにいた。頭の中で繰り返し嘘だと言い続けたけれど、しめやかに執りおこなわれた葬儀も、周りの悲しみようも何もかもが、「遥が死んでしまった」という事実を僕に突きつけてきた。
 なぜ、素直になれなかったのだろう。
 あれだけ一緒に過ごしてきて、もっと優しくすることも、楽しませることも、いくらでもできたはずだった。
 目を閉じると、棺の中で眠っていた遥の顔が浮かぶ。笑顔は思い出せなくなっていた。
 遥の葬儀が終わってからは、ほとんど自室から出ずに過ごしていた。泣き暮らしているわけでもない。ただひたすら、ああすればよかった、こうすればよかったと考え続けていた。
 両親は、心配しながらもそっとしておいてくれた。
 そんな日々は二週間ほど続き、とうとう遥と会う約束をしていた12月21日になった。
 遥が生きていれば今頃、二人でケーキを食べながらスピッツを聴いていた。考えただけで、泣いてしまいそうだった。
 僕はただひたすら、時間が過ぎてくれることを願った。僕たちにとって、特別な日に終わってほしかった。
 日も沈み、暗くなった部屋で座り込んでいると、僕のスマートフォンが震えはじめた。知らない番号だったので一度無視をしたけれど、すぐにまたかかってきた。仕方なく出ると、いきなり、啜り泣きが聞こえてきた。
 電話をかけてきたのは、遥と仲の良かった松村サキだった。
「どうしても伝えたいことがあって、遥のお母さんに電話番号を教えてもらったの」
 松村サキは、しゃくりあげながらそう言った。
「遥、夏頃から、距離を置かれてたのをすごく気にしてたの」
 ライブへ行くのを断った時のことだと思った。
「それは、遥の彼氏に悪いと思ったからで」
 言い訳せずにはいられなかった。一緒にライブへ行かなかったことは、僕自身がかなり後悔していた。
「何か誤解があるって、私、何度も言ってたの」
 僕は、言葉の続きを待った。
「遥に彼氏なんかいなかったのに」
 あの日、先輩と一緒に歩いていたのは、なんだったんだ?
 僕は、なんとか疑問を言葉にした。
 松村サキが、「先輩とは大学が同じだから、たまたま一緒になっただけだと思う」と、言った。
 僕に、ほんの少しの勇気があれば、誤解なんてせずにすんだ。
「遥が、12月21日に、会ってもらえることになったから、ダメ元で想いを伝えるって……」
 松村サキが嗚咽を漏らした。
 僕は固く固く瞼を閉じて、必死で涙を堪えた。
「今更、どうにもならないけど、どうしても、遥の気持ちを知っておいてもらいたくて」
 電話が終わった後も、僕は、歯を食いしばり続けた。体に熱がたまっていく。
 どうしようもない怒りがあった。
 自分自身への怒りだ。
 遥が僕にかけてくれた言葉、向けてくれた笑顔が、いくつもいくつも脳裏に浮かんでくる。あの頃はすべてが当たり前のように思っていた。
 どうにも抑えられず、涙が溢れ出した。
 もう二度と、遥には会えないのだ。
 僕は、『空の飛び方』に手を伸ばした。ケースの裏面に入ったヒビを指でなぞった。
 僕と遥が出会えたのが『奇跡』だったなら、こうやって会えなくなったのは、『掟』なのか『運命』なのか。
「遥……」
 僕はアルバムを抱きしめて泣いた。
 こうして12月21日は終わった。僕はそのうち眠りにつく。
 そして、また、遥のいない世界には朝が訪れる。

         ☆☆☆☆☆

「まー君、誕生日おめでとう」
 遥の声が聞こえた気がした。僕の誕生日はもうとっくに過ぎているのにと思った。
「まー君、ねえ、起きて」
 さっきよりはっきりと聞こえた。僕は意識を瞼に向けて、うっすらと目を開けた。まつげの影の向こうにぼんやりと遥の顔が見える。
「ああ、夢か……」
「夢じゃないよ」
 目を擦ると視界が澄んだ。遥が笑っている。夢だとわかっていても嬉しかった。懐かしさに胸が締めつけられる。
 遥がいるだけで、部屋が暖かくなった気がした。手に、タオルケットが触れた。撫でると、少しごわついていて、所々糸が飛び出している。
「手触りがリアル」
「まー君、寝ぼけてる?」
「まだ、寝てるらしい」
 遥が声を立てて笑った。
「誕生日のプレゼントを渡しに来たの」
 遥から水色の包みを渡された。高一の誕生日の日の夢だ。
「『空の飛び方』かあ」
「どうしてわかったの? お母さんから聞いてたの?」
 僕は「違うよ」と返した。
 遥がちゃんとあの日と同じ服を着ている。丸い襟のついたクリーム色のブラウスと水色のカーディガン、そして紺色のスカートだ。
 遥と会話ができている。
 僕には、遥に伝えたいことがたくさんあった。
「会いたかった」
 最初に出たのは、その言葉だった。遥は、僕を見て首を傾げた。
 次はいつ、夢に出てきてくれるのかわからない。僕は、言えずにいたことを、全部、全部、遥に伝えてしまいたかった。
「ずっと、好きだった」
 遥が、目を見開いた。瞬きもせずに僕を見ている。
「抱きしめてみたかった」
「何、急に、どうしたの?」
 遥の頬が赤く染まっていく。
 どうせ、夢だから。
 僕はベッドから降りて、遥を抱きしめた。遥は、思っていたよりもずっと小さくて、柔らかで、良い香りがした。
「まー君、おかしいよ」
 Tシャツの薄い生地を通り抜けて、遥の呼吸が僕の肌に触れた。鼓動を感じる。段々速く強くなっていく。少しずれながら、二つのリズムが刻まれていた。
 遥に触れている個所が熱い。
「遥と、ずっとずっと一緒にいたい」
 言葉にすると涙が溢れた。僕の頬を伝い、遥の髪を濡らしていく。
「どうして泣いてるの? 大丈夫、ずっと、まー君と一緒にいるよ」
 遥の死が夢だったら良かったのに。
 この夢が、現実なら良いのに。
 このまま夢から覚めなければ良いと思いながら、僕は遥を抱きしめる腕に力を込める。遥が僕の背中に、腕を回してくれた。

                     〈了〉

嬉しいです♪