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「志高く」バックナンバー㉔~(続)俺そう言うよな(後編)~

こんにちは、志高塾です。

ホームページにて毎週火曜日に更新されている「志高く」ですが、本日はお休みとなっております(来週は更新されますのでお楽しみに!)。

上記のため、本日はnoteのほうでバックナンバーを再掲しました。
「俺そう言うよな」シリーズ、これにて一旦完結です。もちろん、日々は続いていきます。


Vol.423「(続)俺そう言うよな(後編)」(2019年11月19日/HP掲載)

「あいつうざいから、縁切ったった」
引っ越すまでの4年間毎日一緒に学校に行き、帰宅後もよく2人で遊んでいた親友が、他の同級生に言いふらしていたのとのこと。もちろん、我が子がそんな風に言われていることを聞いて、「ふーん」で済ますほど私の肝は据わっていない。このことに関していくつか思うことがある。1つ目は、子供はこういうことを平気で口にするので、親として必要以上に気にする必要がないこと。2つ目は、近所に住んでいたその子とばかりいたのを私は元々良いこととは感じていなかったこと。一番仲が良いのは何も悪くないのだが、それ以外の子供とも遊べばいいのに、と考えていた。3つ目は、5年生と言うのは思春期の入り口なのでいろいろと変化が起こるため、その一環に過ぎないこと。

あの晩、仕事から帰り、妻から学校での状況を聞いた私は2階の自室に上がろうとした長男を引き留めて、リビングのソファに座るように指示した。食卓でご飯を食べながら、まずは何が起こっているのかを確認した。「誰も話しかけてくれない。だから休憩時間は一人ぼっちで席に座っている」と本人が泣きながら言うので、無視されているのかと尋ねると、そうではないとのこと。また、帰り道、前を歩いている家の方向が一緒の数少ない(家が校区の端に位置していることもあり)クラスメイトに声を掛けたら逃げられた、と悲しそうに漏らした。

まず、休憩時間に何しているのかと聞くと「ただ座っているだけ」と答えるので、読書好きと言うこともあり、本を読んどけばいいじゃない、と伝えた。間違いなく「僕さびしいよ~。誰か話しかけてくれないかな」というのを醸し出しているのだ。私だったらそんな奴には近づきたくない。「休憩時間に人と話したかったら自分から行きなさい。大した話題もないのに、自分のところに寄ってきて欲しいなんて期待していること自体が厚かましすぎる。一人で読書をするんだったら、背筋を伸ばして堂々としなさい。また、人は追いかけたら逃げるんだからそれはやめなさい。一人でも堂々と胸を張って帰ってきなさい」と話した。何をするかは任せるが、「堂々」だけは守りなさい、ということである。

そう言えば、私が子供の頃、地域の子供会のソフトボールチームの監督をしていた父が、ある一人のチームメイトが三振をしたときだけ「胸を張って帰ってこい」と怒っていた。彼は毎回、うつむき加減で首をかしげてぶつぶつ言い訳をしながらバッターボックスからベンチに戻って来ていたからだ。三振をしたことそれ自体ではなく、その後の態度を叱り飛ばしていたのだ。自分の考えに何がどのように影響を与えているのかは分からないが、きっとこのように親から間接的にいろいろなことを学んでいるのであろう。ちなみに、上のことを話している最中に、前回の次回予告で紹介した発言をした。

口でいろいろ言うだけではなくアクションを起こそうと考えて、学校に持って行ってもいいかの確認をした上で、食べ終えると近くのコンビニに歩いてサッカーの雑誌を買いに行った。思いもよらず見つけられなかったので少し遠い離れたところでも探したもののやはり駄目であった。一度家に戻って自転車でいくつか回って結局5店舗目でようやく手にすることができた。帰宅して「ほれ。これを機に、もう少しサッカーに詳しくなったら」と手渡した。翌日の夜、「どうだった?」と尋ねたら「(サッカー好きの)〇〇君が寄ってきた」と嬉しそうに答えたので「そういうもんや。興味があるものを持っていたら(物理的なものだけではなく)人は近づいてくるんだから、理求には今そのようなものがないんだよ」と話した。こんなのは1回きりで、次は何を買ってあげようかな、なんて当然のことながら考えはしない。

すぐに見つけられなくて逆に良かったのかもしれない。「お父さん、1時間も探し回った」といかに大変だったかを分かって欲しいからではなく、何か困ったことがあったらどうにかしてあげるからな、というメッセージをほんの少し伝えられた気がしたから。うまく行っているときは放っておけばいいのだ。

これに関わることで言えば、生徒たちには居場所を作ってあげたいと常々考えている。きちんと一人一人にスポットライトを当ててあげたいな、と。「塾にそんなことは求めていない。成績だけ伸ばしてくれ」という親御様もおられるかもしれない。「俺(私)、他で思い切り注目されているから志高塾のなんていらん」という生徒がいるかもしれない。それはそれでいい。そういう生徒に関しては、スイッチをオフにした状態でいつでも光を注ぐ準備をしておいてあげればいいのだ。これは他の塾などが用いる「アットホームな雰囲気」という生ぬるいものとは質を異にするものである。

話を戻す。その翌朝、心配であまり寝られなかった妻が、その日がちょうど参観日でその後に懇談会があることから「先生に相談しようかな」と言うので、それは意味がないから絶対にアカン、とやめるように促した。もし、我が子がいじめに近い状態に置かれていた場合、それにすら気づけない先生に何かをお願いしても意味がない。把握はしていても見なかったことにして放っているようであればやはり意味がない。もし、きちんと掴んでいて、タイミングを見計らっているか、もしくは手を加えない方が良いと判断して今に至っているのであればそのまま任せればいいので、やはり伝えることには意味がない。邪魔になるだけだからだ。妻は渋々納得して、結局思い留まった。仮に、先生が問題を解決してくれたとしたら、我が子は問題が起こるたびに、また手助けを求めるようになってしまう。それは、意味がないというゼロではなく、今後の人生にマイナスに作用する。

昨日、中学入試の過去問を見ていて偶然次のような文章を見つけた。バレンタインデーに関する話である。

もちろん、このふしぎな“エールの交換”にすべての女子が加わっているわけではない。こうした浮わついたイベントにまったく興味を示さない文乃のようなタイプの子もいれば、加わりたいのに輪に入れず、遠くからうらやましそうに視線を投げかけているだけの子もいる。「チョコ持ち込み禁止」は、きっと後者のようなさみしい思いをする子どもにも配慮をした結果のことなのだろう。
だが、子どもたちにも、いつかは大人の目の届かないところで人間関係を築いていかなければならないときが訪れる。そのとき、からまった糸を解きほぐすようにして人間関係を調整してくれる担任教師と言う便利な存在はもういない。そのことを考えれば、決して転ぶことがないようにと、子どもたちが歩んでいく道からすべての凹凸を取り除いてしまう学校のあり方には、納得できなかった。嫉妬や葛藤や、もどかしさ―そうした感情を経験させないまま子どもたちを社会に送りだすことの方が無責任だと感じたからこそ、赤尾は学校のルールに反してまで、チョコレートという火種をあえて教室に持ち込ませたのだった。

本文は乙武氏の『だいじょうぶ3組』からの引用であり、一時期世間を騒がせたという意味では、若者風に表現すれば「ビミョー」ということになるのだろうが、内容的には「チョベリグ」である。古すぎるな。

最後に、不器用な長男は、休憩時間にこれまでとは別の友達を誘って図書館に行ったり、クラスで暗号クラブなるものを自ら作ってクラスメイトを巻き込んでそれなりに楽しくやっているようである。今回のことはいい経験になったのではないだろうか。逆に言えば、嫌なことが起これば、それをいい経験にしなければやっていられない。それは大人も子供も同じである。元気な顔をしている限り私の出番はない。

                              松蔭俊輔

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