見出し画像

二十二歳の夏、寮付きのアルバイトへ

大学を中退してから、東急ハンズでバイトをしてみたが体が予想以上に重く、通勤時や就業中の気持ちの沈み方が尋常ではなかった。店内品出しと裏での梱包いう業務だったが、接客することも少なからずあった。ただ、挨拶するのにまったく声が出なかったりして難儀した。それに社員からのパワハラもあり、二週間くらいで辞めてしまった。

うつ病でバイトは難しいと思ったが、うつ病を悪化させる東京の家から何とか逃れる方法はないか。せめて熱中症の危険が高い夏の時期だけでも出られないか、と思い仕事を探した。

そして見つけたのが、寮付きのバイトだった。長野県安曇野での短期工場バイト。

バイトといっても、扱いは一応派遣社員。

高速バスで長野県松本市に行き、そこから大糸線に乗って安曇野市へ。穂高駅の寮に入って(普通の賃貸アパート。家賃も五万円ほど)、パソコン工場での仕事がスタートした。

そこにはかなり多くの人が働きにやってきていた。それも様々な県からだ。北は北海道、南は沖縄まで。二十代・三十代が多かったが、みんな地元の方で仕事がなくて困っている人たちだった。

一日中立ち続ける仕事で、とにかく体力的に過酷だったけれど、仕事を通じて人と接することに徐々に慣れていった。ぼくと同じように人と接することが苦手な人も多く、逆に気さくな人も多い。無口なぼくに対してもよく話しかけてくれたし、ぼくのことを受け入れてくれた。

同じラインには、アパートの部屋が隣の人もいた。入社が同じ日で、一週間の研修も一緒に受けた。送迎バスも一緒なので、帰りにはよく話すようになった。

自分から人に積極的に話しかけられるようになったのは、死ぬことしか考えずに他者を完全に拒絶していた頃からは、とても想像できないことだった。

職場では仕事をこなす処理能力がかなり高いと評価され、それもあってか自分に対する自信も少しずつ生まれ、周囲からも頼られるようになった。人を気遣うということもできるようになった。過酷な仕事をしているということもあって、仲間意識がみんなの中で芽生えていた。

寮には愛用のワープロ専用機を持ってきていて、執筆活動をしていたのも気持ちを安定させられた一つの要因だった。

けれど、一か月で体力に限界が来てしまった。眩暈と吐き気(えずき)が止まらなくなり、仕事ができなくなるほどまで症状が悪化した。内科の病院でMRIなども使って診てもらうも異常はなし。やはり精神的なものだった。自律神経失調症と診断された。

それでも、なんとか任期満了までこなし、東京の家に帰った。

 

体調不良で仕事から離れるという結果になってしまったが、ここでの経験がぼくの狭かった視野を広げてくれ、少しずつ気持ちを良い方向に向かわせてくれるものになった。二十三歳で死ぬという考えを変えてくれたのもここでの経験が大きかったかもしれない。生きづらくても、生きるのが下手でも、みんなそれぞれに頑張っている。

精神的病を患っていても、自分を卑下する必要はない。

みんなのためにももう少し生きてみよう、みんなのためにも小説家になろうと思ったのだ。

 

それに東京の家での生活では、姉とも関係が改善していた。同じ環境下で同じ苦しみを味わう者同士、よく話すようになっていた。

 

翌年の二月、ずっと重い認知症を患っていた祖母が亡くなった。祖母には申し訳なかったが、ぼくの苦しみの要因が一つ消えた。

以降もなかなか仕事ができないのは相変わらずで、うつ病の症状もひどいまま。苦しいとは知っていつつも、この環境から脱するために(熱中症にならないようにするために)、夏になるとまた長野の同じ工場でアルバイトをした。

豊科の寮に入って(去年とは別のアパート。間取り2DKを知らない人と共有)、仕事がスタートした。
やはり多くの人が働きにやってきていた。改めて、みんな仕事がなくて困っているんだな、と思った。

去年一度やっているので、楽な部分もあった。職場でもぼくのことを覚えていてくれる人がいてくれた。

体力的に過酷なのは相変わらずだったけれど、また仕事を通じて人と接することに楽しさを感じられるようになった。特に、配置されたラインには気さくな人が多かった。よく話しかけてくれた。愚痴も言い合える仲になった(ほとんど聞き役だったけど)。

仕事をこなす処理能力はやはり高いと評価され、周囲から頼られ、人を気遣うということも同じくできた。去年以上に仲間意識を強く感じられた(というのも、自分たちのラインは社員から注意されることが特に多く、残業も多かった)。最終工程にいる自分には、他の人の遅れをカバーする・フォローする余裕があったため、精神的に楽だったのかもしれない。

じわじわ吐き気に苛まれていったけれど、体力に限界が来る前に二か月の任期満了まで無事にこなし、東京の家に戻っていった。

やはりもう少し生きてみようという気になれた。自分と似た境遇の人たちを見て、人と接することに慣れ、自信を持つこと・自己を肯定することの大切さを初めて体験したのだ。

うつ病も改善へと向かい、人生の再びの転機となった。

それから翌年、専門学校に入ることになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?