しきすみ

命中率ほぼ0%から奇跡を起こす射手座の人。 二十年以上うつ病ながらプロの作家を目指し…

しきすみ

命中率ほぼ0%から奇跡を起こす射手座の人。 二十年以上うつ病ながらプロの作家を目指して執筆活動を続けている。寓話・童話・児童文学などを創作。 孤独な人生を歩み続けてますが、人生好転するのか挑戦中!

最近の記事

出版社での仕事は忍耐力が試された

シフトの仕事を終えてから数か月後、新しい派遣会社に登録して採用されたのは、大手出版社でのデータ入力だった。 季節は冬になっていた。仕事が決まるまでの空白期間中は、文芸賞に応募する小説を書いたり、ゲームを作っていた。作ったゲームをダウンロードサイトで販売しても全く売れずに落ち込んでいた気がするが。 データ入力はこれまで何度もやってきて慣れているから、そんなに苦もなくできるだろうと思った。 それに小説家を目指しているので、出版社の中で働けるのは本当に嬉しかった。文芸出版社ではない

    • シフト制の仕事で生活リズムが崩れる

      東京タワーが見える職場から次にやった仕事は、シフト制の仕事だった。 シフト制の仕事は今までにしたことがなかったけれど、職場は自宅最寄駅から三駅目だし、基本週四で入るという契約にしたので、心身ともに負担は少なそうに思えた。 ちなみに、お中元に関する仕事だった。データ入力と配達業者への電話確認業務だ。電話対応の業務というのはすごく苦手で避けてきたけれど、丁寧なマニュアルがあったのでやりやすかった。 ここでの電話対応業務の経験が、のちのち他の会社で電話対応業務があっても、無難

      • 精神的に参るのは自分だけじゃない

        2014年の十一月から新しい職場で就業することとなった。 やっとオフィスソフト(といっても、ほぼWordのみ)を使っての仕事で、給料も1700円くらいとかなり良かった。 東京タワーが近い職場で、昼休みなどは見に行ってみたりもした。通勤時や帰宅時にも見えた。早く日が落ちる冬の帰宅時には東京タワーのイルミネーションもよく見えた。 幸稲荷神社というのも付近にあって、縁起の良い名前の神社だなぁ、と昼休みによくお参りをしに行った。 前職で、職場仲間とコミュニケーションを取ること

        • 厳しい規則とパワハラと

          廃業になった会社を辞めた後に、再び失業保険をもらえる権利を得た。 そこで失業保険をもらいながら、何かの資格を取ろうと思い、職業訓練校に通って、マイクロソフトのMOS検定を受けた。Word・Excel・Access。オフィスソフトの資格を持っていれば事務系の求職活動にも有利だし、給料も今までよりも高いところでできそうな気がしたからだ。 訓練校に休むことなく通い、試験を受けた。 Excelは950点(1000点満点中)と九割越えの高得点で合格。 Wordは862点と思って

        出版社での仕事は忍耐力が試された

          派遣先企業が廃業

          川口の日当たりの悪い部屋でうつ病の悪化に悩まされながらも、年を越し、一月中に次の仕事を見つけられた。 門前仲町でのCADを使った仕事だった。通勤時間はややかかるものの、時給も1500円を超えていた。生活費で悩まされることはなくなった。 スマホやケータイのディスプレイ部品を製造する会社で、最新技術の製品を扱っていたわりにかなり古い会社で、従業員数も少なかった。社内では図面作成から、製造、検査、梱包というすべてのことをしていた。 入社したはいいものの、なかなか業務が始

          派遣先企業が廃業

          川口での一人暮らしは、日照不足で、うつ病悪化

          父の実家は、新築に建て直した当初、売りに出そうとしていたのだけれど、そこに無理言って住まわせてもらっていた。本当は数年で出ていくという約束だった。けれど、なかなか仕事先が見つからず、また仕事をしても長続きせず、ずるずると長く住んでしまっていた。 父に責められるのも当然だと思い、結局、死んでいない自分が一番悪いのではないのか、と自分を責めるばかりだった。 だから、母の遺産も二十万くらい入ったことで、いよいよこの家から出ようと思った。出ていけば、父にも責められず、家を売りたいと

          川口での一人暮らしは、日照不足で、うつ病悪化

          母の死

          2013年の2月から今度は建設会社に派遣社員として入社した。CADやExcel・Wordを用いての資料作成の仕事をすることになった。二ヶ月の短期契約だ。 建設系のCADの勉強はほとんどしたことがなかったので、内心びくびくしていた。しかも、上司の人はいつも不機嫌そうな感じの人で、言葉遣いもやや乱暴な感があった。 また叱責される日々が始まるのかと思ったけれど、上司の人はとにかく外出や出張が多く、会社にいないことがしょっちゅうで、気持ち的に楽だった。失敗をしても、眠気に襲われても

          派遣で入った会社で起きたアクシデントと意外な再会

          2012年の十一月と十二月の二か月間、久しぶりに3D‐CADを使った派遣の仕事に就いた。しかもすごい大手企業。給料も時給2000円と今までやってきたどこよりも高かった。 CADの仕事にはブランクがあったものの、できると思った。専門学校や正社員で働いていた頃に使用していたソフトだったし、あれだけプラモデルを使ってモデリングをやってきて操作に慣れていたのだから自信があった。 けれど、実際入社してみると、やはり実務で通用するほどの技術はなく(正社員の頃にパワハラを受けながら教え

          派遣で入った会社で起きたアクシデントと意外な再会

          大手企業で契約社員になるもブラック社員に囲まれる

          職業訓練校を卒業して、年が明け、わりとすぐに就職先は決まった。 契約社員としての入社。企業の得意先のデータ修正の業務だ。派遣社員との違いは、月給制だったことだ。交通費もきちんと出る。 難点といえば、女性ばかりの職場だったこと。とはいっても、これまでも女性が多い職場で働いたことはあったので、その点は問題ないだろうとやる前までは思っていた。誰もが知っている有名大手企業だったし、落ち着いた雰囲気でできるだろうと楽観的に思っていた。 ところが実際働いてみると、とにかく騒がしい職

          大手企業で契約社員になるもブラック社員に囲まれる

          会社を退職してから、一年ほど無職の期間

          失業保険を受けながら、ハローワーク(飯田橋駅の東京仕事センター)でビジネスマナー講習や就職セミナーなどをいくつも受けたりした。相談相手もいず、独りで生活していると落ち込むばかりなので、同じ離職中の人とできるだけ交流しようとした。民間のコミュニケーション講座も受けてみたりした。 けれど、同じ離職中の人と積極的に交流しようとしても、長続きしない。暗い人、話しづらい人と思われて距離を置かれるのだ。やはり人と接するだけでびくびくしてしまうからだろう。その時に知り合った人たちと一緒に

          会社を退職してから、一年ほど無職の期間

          賃貸アパートでの騒音問題

          少し話はさかのぼって、正社員として勤めていた頃のこと。西調布のアパートに一年ちょっと暮らしていたけど、隣の部屋の騒音問題に悩まされていた。 出向(派遣)先の会社では、ブラック上司のパワハラに苛まれていて、アパートに帰れば、騒音問題で悩まされる。本当にあの頃は一日中どこに行っても追い詰められていた気がする。 どういう騒音かというと、隣の部屋の人が真夜中に歌い出すのだ。深夜二時か三時くらい。 睡眠障害にも悩まされていて会社ではよく眠気と戦っていた。せっかく二十三時くらいに寝

          賃貸アパートでの騒音問題

          正社員としてのスタートその2

          また、その出向先の職場でトイレの問題に悩まされた。緊張から毎日腹痛に苛まれ、けれど、職場のトイレは総務の机があるすぐそば。老朽化したマンションような室内なので音が漏れてしまうし、男女兼用ということもあって長いこと入っていることができない。お腹が弱く、毎回トイレに長くこもる必要のあるぼくにとっては本当に最悪の環境だった。 だから、毎日、昼休みになると、わざわざ駅前にあるデパートのトイレに行っていた。歩いて片道十分使って。トイレだけで休憩時間が過ぎてしまい、昼ご飯が食べれない時

          正社員としてのスタートその2

          第三部 うつ病を抱えながらの会社勤め複数社を転々と

          正社員としてのスタート その1 会社が始まる前に西調布にアパートを借りて、新生活への準備を整えていった。 引越しして一番の楽しみだったのは、テレビがきちんと映ることだった。今までの家ではテレビはほとんど観られなかった。前にも言ったように古い家でアンテナの方にも問題があり、新品のテレビでもどのチャンネルも映りが悪く、砂嵐のようになってしまっていた。音も出ないことがあった。ほぼゲームをするためにテレビを使っていたくらいだ。 念願の引っ越しをしたことで、テレビがちゃんと観られ

          第三部 うつ病を抱えながらの会社勤め複数社を転々と

          専門学校時代

          安曇野でのバイトで自分に少し自信を持てるようになり、翌年、親の支援も受けてCADの専門学校へ入学したのだが、クラスメートの九割が高校を卒業したばかり。年齢が五歳くらい離れている。他に、二十代前半の留学生が一人、六十を超えた年配の方も一人いてくれたのは良かったが、自分の心はまた萎縮してしまった。 話し相手はできたものの、年齢的なものをいつも意識するようになって、焦りは強くなっていった。うつ病で苦しんできたということも隠して通っていたし、大学を中退したということも卒業する日まで

          専門学校時代

          二十二歳の夏、寮付きのアルバイトへ

          大学を中退してから、東急ハンズでバイトをしてみたが体が予想以上に重く、通勤時や就業中の気持ちの沈み方が尋常ではなかった。店内品出しと裏での梱包いう業務だったが、接客することも少なからずあった。ただ、挨拶するのにまったく声が出なかったりして難儀した。それに社員からのパワハラもあり、二週間くらいで辞めてしまった。 うつ病でバイトは難しいと思ったが、うつ病を悪化させる東京の家から何とか逃れる方法はないか。せめて熱中症の危険が高い夏の時期だけでも出られないか、と思い仕事を探した。

          二十二歳の夏、寮付きのアルバイトへ

          自殺の旅へ

          もう死ぬしかないと思うところまで追い詰められた。 完全に心身ともに参ってしまい、自殺の旅に出た。 二十一歳の二月。真冬だ。各駅停車の列車に乗って、琵琶湖を目指した。琵琶湖付近で自殺する夢を見たからだった。 滋賀県に着いたのはその日の二十三時近くだった。 刃物を現地で調達する予定だったのだが、店は全部閉まっている。街灯もほとんどなく、道も真っ暗で、琵琶湖もどうやって行けばいいのか分からない。焦りと不安と孤独に苛まれた。 どうしていいのか分からず駅周辺をうろうろし

          自殺の旅へ