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派遣先企業が廃業

川口の日当たりの悪い部屋でうつ病の悪化に悩まされながらも、年を越し、一月中に次の仕事を見つけられた。

門前仲町でのCADを使った仕事だった。通勤時間はややかかるものの、時給も1500円を超えていた。生活費で悩まされることはなくなった。

スマホやケータイのディスプレイ部品を製造する会社で、最新技術の製品を扱っていたわりにかなり古い会社で、従業員数も少なかった。社内では図面作成から、製造、検査、梱包というすべてのことをしていた。

 

入社したはいいものの、なかなか業務が始まらなかった。海外の取引先から注文書・参考図面が送られてこないのだ。一週間くらいはそこの上司(係長だったか)と、ずっと世間話をしていた。仕事の話題はほとんどなく、どこの学校卒業とか、趣味の話だとか(その上司が喋ってくれて、こっちは聞き役。ある意味気楽な会話だった)。その上司が気さくな人だったこともある。子供が熱を出したことで休んだり早退したりと、男性でも育児にしっかり携わる・仕事より家庭を優先する、いわゆるホワイトな上司だ。

しかし、やることがない。ほぼ一日何もせずに終わったこともあった。まだ年明けで海外の取引先が忙しくないから、ということだった。例年この時期は暇だということで、こっちも納得していた。

二月に入り、ようやく注文書がFAXで送られてきてCADで図面を書くことになる。CAD操作にはブランクがあったものの、図面自体はすごく簡単だったから、操作を思い出すくらいのものとしてちょうどよかった。

段々と仕事も忙しくなってきて、図面作成から、樹脂を作成するためのフィルムの印刷、測定、目視検査、梱包など、当初言われた通り色々な業務をこなしていくことになった。

眠気との闘いもあったけれど、人が少ないので(というか本当に作業場に誰もいないことが多いので)、注意されることなく気楽だった。

ただ、トイレ問題には相変わらず悩まされた。とにかく古い会社だったので、トイレがほぼ使えない状態(ペーパーが置いてなく、小の方しかできないなど)。ちゃんとトイレを使うなら社長室のある階のところを使わないといけなかった。毎日腹痛(過敏性腸症候群)に悩まされるので、トイレ問題は昔から会社に勤めるうえで自分にとって本当に大きな問題だった。

また、川口のアパートでの日照不足でのうつ病の悪化もあり、体がひどく重く、気持ちが憂鬱になることが多かった。二ヶ月目を迎えると、通いたくない・早く辞めたい、そればかりを考えるようになっていた。

 

それでも、職場に通い続け、四月には契約更新して、五月に入った時だった。

会社を廃業するという発表が社長からなされた。

海外の取引先からほとんど注文がこなくなり、会社を経営していけなくなったのだった。

確かに、やることがまた少なくなってきたとは思っていた。この会社、こんなに暇な時間が多くて大丈夫なのだろうか、倒産しないのだろうか、と日々不安に思っていたところだったので、そんな予感はしていた。他の社員の人たちも薄々は感じていたらしかった。

 

それにしても、派遣社員として雇われている間に、その会社が廃業(倒産)するなんて初めてのことだった。

 

一番気まずかったのが、朝のミーティングで廃業の深刻な話をしている中に自分もいなくてはならないことだった。正直、自分は部外者である。契約期間も延長なしで五月末までだった。ここにいていいのだろうかという気持ちになった。会社が突然廃業・倒産する時の社内の雰囲気というものはこういう重たいものなのだろうな、と勉強にはなったけれど。

最期の注文を終わらせるまで製造は続いたものの、今度は会社をたたむことに向けての諸々の片付けも始まった。

 

 ただ、ここで一人、問題となる人物がいた。この会社の部長だ。

部長は週に二日程度しか出社してこない。何か営業とかで外を回っているのかな、とずっと思っていたのだけど、ただ単に出社するのがいやだったから、ということだった。

廃業の手続きで忙しくなるから、せめて週に三日は出てきてくださいよと課長にとがめられても、「だって来たくないんだもーん」と渋っていた。

深刻な雰囲気の中で、駄々っ子のように「来たくないんだもん」「家で遊んでいたいんだもん」発言。

確かに定年間近の年齢とはいえ、部外者のぼくもポカーンとしてしまった。部長はこんなにやる気のない人だったのか、とちょっと呆れてしまった。

部長がこんなにやる気をなくしていた会社だったのなら、まあ、廃業してしまうのも当然かなぁ、と思った。

他の従業員は、それでも次の職場がすぐに決まった様子だったし、大きな悲壮感・緊迫感というものはなかった。よく世間話をした係長も、この会社ではなくもっといい会社へ行けば、もっと高く評価される人物だと思っていたし。

五月末でぼくは先に退職した。個人的には廃業・倒産の渦中にいられたのは、貴重な経験だった。こういうアクシデントに遭遇するのも様々な企業で働ける派遣ならではといったところだろうか。

 

※ちなみに、その数年後、会社があった場所を見に行ってみたのだが、会社のビルはすっかりなくなっていてマンションが建てられていた。働いていたところがなくなっているというのは結構切ないものがある。

 

そして、五月中に住まいも川口から東京の実家の方へと戻っていた。父は家を売るつもりはないし、誰かが住んでいてくれた方が管理もできて(地代も払えていい)、ということで戻ったのだ。

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