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じいの葬祭19

 一番手前の個室に篭り、すぐさま便座へ顔を近づける。口を開いた瞬間、胃が収縮し、胃液が吐き出された。
 やばいやばいやばい、薬持ってないのにパニック発作起きた……!
 鳩尾あたりが凍ったように冷たくなる。それはゆっくりと全身に広がり、比例して感覚が麻痺し、立てなくなった。
 平衡感覚を失った体は崩れ落ち、ガタンと頭を壁に打ちつける。その拍子に、サングラスはカシャンと音を立てて床に落ちた。
 バクバクバクと高速に鼓動する心臓、じーんと痺れていく脳みそ、ぼんやりと霞み、次第にぐるぐるとする視界。
 こんなはずじゃなかった。
 穏やかに、何の問題もなくじいを見送るつもりだった。
 しかし現実では、こうして発作を起こしている。それも、じいの目の前でだ。
 吐き気は止まず、胃液に続いて大量の水が便器に吐き出される。正直、胃液よりも水を吐く方がマシである。イガイガ感や酸っぱい臭い、独特の苦味がないのだから。
 ーー弟を置いてきてしまった。
 アウェーな空間で一人、弟は何をしてるだろう。私はすぐには戻れない。戻りたくもない。
 綺麗に磨かれた便座をぼーっと見つめながら、重だるい体を壁にもたれかける
 清掃されているとはいえ、衛生面を考えれば避けるべき行為だが、そんなことを考える余裕も、動く気力もない。
 涙は治まったものの、視界が明滅し始め、目を開けられなくなる。初めての発作はベッドの上で動けなかった時のことを思い出した。
 恐らく、十五分ほどでなんとか回復するだろう。
 私は何も考えない様に目を閉じたまま、発作が治るのを待つことにしたのだった。
 



 ひとしきり泣いて、ひとしきり吐いて、起きてしまったパニック発作も何とか抑えて、治るのを待っていれば、徐々に体の感覚が戻って来る。
 力の入らなかった足も、震えながらなんとか立つことができて、壁伝いに個室から出た。
 洗面台に設置された鏡で顔を確認すると、血の気が引き、目元が赤い。誤魔化す様にサングラスを掛けて、私は女子トイレの入り口を開けた。
 「ん」
 そこには弟が立っていた。
 ポカンとしていると、軽く手を開き私をそっと抱きしめてくる。
 私はあまり人に触られるのが好きではない。服の擦れた感触すら酷い時には痛みを覚えるほど、感覚が過敏なのだ。まして、パニック発作が起こった直後ならば尚のことである。
 ぎこちない手つきで背中をポンポンされ、ピリッとした痛みが走った。瞬間的に嫌悪感と鳥肌が立つも、同時に湧き上がる安心感が反射的に振り払おうとした手を止めた。
 こんなことは初めてで、私は治めたばかりの涙が湯水のように流れ、マスクの下の鼻はズビズビと不快な音を発する。子供のように、子供が泣くのを我慢して失敗したように、「うー」と意味のない声をあげる。
 この感情は何なのだろうか。悲しいだけじゃない、申し訳ない、やりきれない……沢山の感情が混じっているが、一際大きな感情。
 「悔しいよな」
 ポツリと、弟が溢した。
 ーー悔しい。
 その言葉を聞いた途端、沸々と煮えたぎった激情が溢れ出てきた。
 悔しい、悔しい、ああそうか。
 「くやしいよぉ……」
 私は、否定したいのに衝撃のあまり言葉が出ず、こうやって小さな子供のように泣きじゃくる自分が情けなくて、とても悔しいのだ。
 母の頑張りを何より知って、何より享受して、何よりその苦悩を察することができなくて、誤解されて、沢山の悪口を言い聞かされて。
 悔しい、悔しい、悔しい!
 悔しいよ、悲しいよ、すっっごく悔しいよぉ。
 「おかあさん、ずっと頑張ってるのに、何であんなこと言われんといかんのかなぁ。悔しいなぁ」
 震えてつっかえながらの言葉は聞きづらいだろうに、弟は一つ頷いて、慣れない手つきで背中をさすってくれた。
 年不相応に幼い精神を持っていると思っていたけれど、この時、弟も二十歳の大人になったのだと実感した。

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