読書記録:『自己啓発をやめて哲学をはじめよう』

自己啓発をやめて哲学をはじめよう/酒井穣
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4866800275/hatena-blog-22/

書店の心理学コーナーを見てそのままふらーっと哲学コーナーの棚を眺めていたら目に留まり、今の私のための本では?と手に取った。

自己啓発より哲学が良いというわけではない

もちろん、本来の意味における自己啓発とは「自らの意志で勉強する」とこであり、それ自体はいつの時代にも必要なことです、しかし、それが超自然的なアヤシイもので、科学に立脚していない場合は、とても危険です。本書は、そうした本来の意味における自己啓発をはずれてしまっている、現代の日本における自己啓発ブームに警鐘を鳴らすものです。

本来の自己啓発ならまだしも現代日本においては怪しい自己啓発本やセミナーが溢れかえっている、というのが本書の主張で、正直私もその通りだと思う。何も自己啓発というジャンル全てが怪しいというわけではなく、その中の一部に怪しいものがあるというだけの話で自己啓発全てを否定するわけではない。

自己啓発というと何やら脳科学とか心理学とかそこら辺の学問に基づいたもののように聞こえるが、蓋を開けてみるといやこれスピリチュアルでは?というトンデモ論を述べているものがありヤバイのはそれらである。

まあそういったもので本人が自己肯定感だとか自信だとかを身に着けるのは別にいいが、まるで宗教のように盲目的にそれを信じ更に宗教勧誘のように周囲の人々を巻き込み始めると厄介なことになる。

とはいえ、科学にも限界があり、科学的であることは万能ではないことを認めないとなりません、そして自己啓発ビジネスは、得てして目に見えないもの、科学でも症名できない部分で成立するものです。目に見えないものだからこそ信じるというのは、もしかしたら、人間に備わっている本能の一つなのかもしれません。

大抵の人間は魂やら神やらを信じている。信じているとまではいかなくともあるかもしれないくらいに思っている人が大多数を占めるだろう。人は目に見えないものを恐れたり嫌ったりする。そこにつけこむのが宗教やらアヤシイ自己啓発というわけだ。

とりあえず自分をあきらめろ

ここで誤解を避けるために、あきらめるという言葉の語源について少しだけ考えておきます。あきらめるとは、本来「あきらかにする」という意味を持つ言葉です。その大元になっているサンスクリット語は、そもそも真理を意味する言葉です。あきらめるという言葉は、本来、ネガティブな意味を持ちません。

自分をあきらめること、すなわち自分への執着を捨て去ること(無我)の大切さは、多くの哲学者に共通する結論の一つです。

ここでいう”あきらめること”は「どうせ自分はダメ人間だから」という諦めではない。自分の能力を正しく評価し認識せよということである。己の限界を知ることと言ってもいい。人間は無限の可能性を秘めている!とか謳っているが秘めているものを引き出せるのは極々一部の僅かな人間だけで他の人間はそもそも可能性があるかどうかすら不明、無自覚のままだ。そもそも本当に無限の可能性を秘めていて頑張りだけでどうにかなるなら世の受験生は須らく志望校に合格しているはずだし仕事で苦しむことはないし極端に言えば空だって飛べるはずである。

はびこる自己啓発の罠

自己啓発ビジネスは、たとえるならば「お手軽に志望校に合格する方法」があると主張するものです。しかしそうした自己啓発には、中毒性の高い気分転換としての意味以外には、なんの効果もありません。

勉強法をいくら会得したところで肝心の科目を勉強しなければ当然受験に失敗する。要はそういうことである。こういう方法で自分を高めればいいんだ!と方法がわかったとして、そもそも本来の自分を認識し且つそこからどんな方法でどれだけ頑張れば理想の自分になれるのかというのが肝であって、意外とその”本来の自分を知る方法”が書いてある自己啓発本は少ない。自己啓発本でなく思考法の本に実はやり方が書いてあったりするのでむしろそういった本の方が役に立つ。

自分は実はなにも知らない

プロタゴラスは「人間は万物の尺度であるという有名な言葉によって、哲学のはじまりに、一つの重要な立場を築いたという事実です。
この言葉が意味するところは、絶対的な真理というものは存在せず、真理は、それぞれの人間がそれぞれに思い描く主観的なものにすぎないということです。これを相対主義(人間中心主義)と言います。
ソクラテスは、人間にとって最も重要なことは「善く生きる」ことであり、そのために必要なのは「知を愛すること」だと述べています。
 (中略)
そしてソクラテスは「知を愛する」ために必要なことは、自分がなにも知らないということを自覚することだとも考えました。

知恵や知識と自分を知ることは別物である。知恵や知識が豊富で頭が良くて凄い人でも実は自分の事を正しく理解できていなかったりする。自分の思いや意見を正しく述べられるかという話で、これができる人は意外と少ない。

これが真実だ!これが真理だ!と言われてへぇそうなんだと納得してしまうだけだと変な宗教にハマりかねない。それで本当に自分が納得できるならいいが、一度懐疑して本当にそうだろうか、自分にとってそれは本当に真実なのだろうかと考えてみる必要がある。少なくとも宗教勧誘されて怪しいと思えるならそれはできているはずなのだから、そこからもっと深く自分を掘り下げていけばいいだけの話だ。まあそれが難しいのだけども。

自分は自分、他人は他人の考えを持っている。私自身が相対主義者で、たまに意見が合ったらおう気が合うなと思うくらいのもので、けれど一部分の意見が合ったからと言ってその他全部の解釈がその人と一致するかといわれれば否である。世界の全てについて自分と解釈が一致する人間など存在しないと思っている。

結局どうすればいいの

自己啓発本より最近流行りだした思考法の本とか哲学の本とか読んだ方がいい。

もちろんこれは私の個人的な意見なので自己啓発本の方が合っているという人もいるだろうが、自己啓発本もビジネス書もスピリチュアル本も何冊か読んだ結果どれも突き詰めれば書いてあることは一緒であり、それをふんわりとそれっぽく神とか根性論とか偉い社長さん達を持ち出して述べているものであって、具体的な方法論については圧倒的に思考法と哲学の方がわかりやすいし根拠も納得できるので、いちいち自己啓発で遠回りするより(まあ参考程度に数冊読んでみてもいいだろうけど)スパーンとわかりやすくやり方や考え方が書いてある思考法や哲学書の方が圧倒的に参考になる。私はなった。

まあ相対主義者を名乗る以上私の意見など参考の一つくらいに留めて頂いて各々好きな方法を取ればいいと思うが、参考としてこうして書き留めておく。

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