「友達」という言葉がない国
僕は昔から本を読むのが好きで、好きになったきっかけは好きな漫画のスピンオフの小説が始まりでした。
他の小説とは違い登場人物の顔は漫画ではっきりしているため、とても想像しやすく小説の入り口として読みやすかったと今になって思います。
そこから色々な本を読むようになり、何の本かは忘れましたが印象に残ってる言葉の1つに「自分という認識は他人という存在があるからである」みたいなことを読んだとき、ハッとさせられました。
そんなことを今まで考えたこともなかった自分にとって新しい風が吹いたような、読書が好きな瞬間でもあります。
そして今読んでいる本にも似たような驚きがありました。
その本は「語学の天才まで1億光年」という本で(ぜひ読んで欲しいのでリンク貼っておきます)、様々な語学を学びその国を旅するドキュメンタリーに近い本で、アジアを始め、アフリカにも身一つで行ってしまう自分には出来ない経験を擬似体験させてくれるような本です。
英語の勉強をしたいのですがどうもモチベーションが上がらないので、こういう本を読んだら上がるかもと思い買ったのですが、そんなモチベーションはもとより、そもそもこの本が面白く、気付けば読み終わっていました。
そしてこの本を読み通して特に印象的だったのが、ワ州というミャンマーのシャン州の中にある小さなエリアで、そこでは挨拶の言葉も「友達」という意味の言葉もないことでした。(この本では1990年代のワ州の話でした)
村人のみんな顔見知りだからわざわざ挨拶する必要も、他人と区別するための友達という言葉も必要がなかった。
これを見て、言葉というのは"区切り"であり"認識させるもの"なんだと強く思いました。
それを知ると1つ納得したのが「言霊」の存在でした。
僕が19歳の頃、少し気になってる女の子がいました。
好きというほどでもないけど、気にはなるみたいなはっきりしない感じだったのですが、友達と歩いて帰ってるとき、なぜかふと「〇〇のこと好きかも」と言ってしまいました。
そこからは以前より気になり、気づけば好きになっていました。
このときに言葉にするというのは気持ちをはっきりさせるもので、言霊はあるのだなと身をもって経験していました。
言霊というと少しスピリチュアルな感じがしてあまり好きではなかったのですが、このワ州のことを読み、言葉というものを改めて考えることで、言霊と言われるふわっとしたものの正体が分かったような気がしました。
言霊とは言葉そのものであり、言葉とは境界線を作ること。
自分と他人。気になると好き。
言葉にはあまりグラデーションはなく、だからこそつい人も0.100で極端に考えてしまうのかもしれません。
技術が発展してますます1人で生きていける世の中だからこそ、言葉の使い方、自分が幸せになるためのコミュニケーションの取り方を意識したいなと感じました。
最後に本のリンクを載せておきますので興味のある方は是非読んでみてください。
ありがとうございました。
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