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潜る赤の旅路

35
改竄と浄化の連作短編集です。34篇
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#短編

1−5 摩擦

赤いハンカチ、私のものだ。 「安心して下さい、私の血は清潔です」 黒瀬花春はそう言った。幼い頃から胸に疾患を患っており、突然の鼻血は投薬による副作用らしい。アルコールは平気なのかと聞くと「アルコールは胸に良い」そうだ。簡素な街並みに不和を齎す高尚なバーで、私たちは肩を並べていた。 「早苗さんは……そう呼んで良い?」 「勿論です」 「早苗さんはどう思った?私の個展……何か思うところがあったら」 来た。この手の質問への解答は、基本テンプレートがある。それは内省を気取ること

1−6 湯船

深夜二時、最終的にタクシーに乗り込んで、私は都内の家路についた。玄関を開けると「おかえり、遅かったね」母親気取りの姉の一声。「飲んできたの?何か食べる?」食なんてどうでもいい。私の心は黒瀬花春の赤に首ったけだった。それ以外喉を通る気がしない。『暇なとき、遊びに来てね』彼女は私にそう言った。その日が待ち遠しい。「早苗、大丈夫?気分悪い?」うるさい女……私は無言の内に浴室の前で衣服を脱いだ。ぬるま湯に浸かり、臀部に微かな痛みを覚える。そう……私は再現できなかった、あのどす黒い赤を

1−8 深淵

クガちゃんは、所謂昔馴染みだ。仲は良かった筈。家族ぐるみの付き合いで小中高、同じ学校に通い、同じ美術部に在籍していた……らしい。彼女の口ぶりから察するに、そうだった筈、よく覚えていない。しかし奇妙な感覚だ。私たちはもう学生服の似合わない大人の女性、でもこうして肩を並べていると青い感性が再び発芽してくるのを感じる。ある程度の酔いが進んだ頃合い、クガちゃんは清涼感のある声で尋ねた。 「まだモネとか好きなの?」 「モネ?」 「モネの青、好きだったじゃん」 「嫌いだよ。モネの魅力は

1−9 無垢

黄金色の空、透き通る地平、亜麻の大地、何も無い世界。私の身体は……ある。訂正、私以外何も無い世界。奇妙な世界観だ、こんな画風の作家がいた気がする、誰だっけ?分からない。私が少しの頭を回すと藍色の雲が上空に孤を描いた。黄金色の空、藍色のドーナツ、透き通る地平、亜麻の大地、一つのカンバス……。 カンバス?カンバスだ。恐らくM12カンバス木枠側、その陰に隠れて丸椅子が一つ。私は怖気無く近づき、カンバスの表面を覗き込んでみる。それは一面の青だった。アクリルじゃ無い、恐らく顔料から溶

2−青

白木希美は早熟でした 他人を見下しました 善人ではありませんでした でも彼女は綺麗でした 話術に長けました 身体が大人びてました だから愛されました 柿崎早苗は未熟でした 他人を見下したりしません 柿崎早苗は基本的には善人でした 語るに及ばない少女でもありました 一つの症状を除いては 症状は白木希美にもありました それは少しずつ彼女を蝕みました 彼女は蝕まれるほどに輝きました 事ある毎に胸に手を当て 己の虚無に爪を立てていました 二人は執着しました 二人は固執しました

3−6 全ての不幸に

 『穴』を前にクガは語った。柿崎早苗の過去を、白木希美の顛末を、まるで童話を語るように、音に情報を乗せないように、淡々とした一人称のドキュメンタリィを。そこで客が来たので話は一旦打ち切り、続きは昼時、アトリエの裏手に持ち越した。柿崎早苗と赤を交わしたパラソルの下、溜まりの名残あるテーブルを挟んで。そこでクガは柿崎早苗の症状について語り出した。今度は記憶の想起では無い、今の私と会話をする体裁で。 「心の傷は時間が解決してくれる。でもその時間には無意識という名の意識が必ず介在し

3−9 潜る赤の旅路

『黒の奪者よ  箱庭の空を擡ぐ死よ  嘆き呻く青き奪者よ  死が燃えて空が青に溶ける日に  君の心は黒の臓を掻き毟る』  私は死に戯けて欲しくない。だから生に戯けるのだ。しかしそれは誤りだった。纏った道化の装束はいつしか私の皮膚になり、心の臓は風船と化した。空っぽの私、空虚な人生、虚空の心。最後に残されたのは私の器官。この血肉だけが、私に残された最後の無垢となった。  誰も気付かない。筆を取り言葉を話す肉体が黒瀬花春だと疑わない。それは世界に象られた黒瀬花春の偶像で、本当の

4−転 不可知な心

 ノーヴス・アーフ刊行の美術雑誌、黒瀬花春特集号は爆発的なヒットとなった。個展の開催中、自殺未遂を起こした美人芸術家、有象無象の格好の餌食だ。個展自体は彼女に近親者がいない点もあり閉鎖中、しかし小屋主が独断でマスコミの取材を受け入り口を施錠、彼女の作品は日本中に広まり様々な火種を巻き起こした。嘗て無い芸術論と善悪論が渦巻く世情、黒瀬花春は時代のアイコンとなった。彼女の意識は今だ戻らない。情報では大量の薬を飲み手首を切ったところ、自分で救急車を呼んだらしい。救急隊が到着した時彼

5−4 白木希美

 妹は……幼い頃からある病気を患っていた。心筋症だ。上手く付き合えばそこまで恐ろしい病気じゃ無い。でも想像力が豊かすぎる子供にとっては別の話だ。彼女は肥大する死の恐怖に怯えた。『安心なさい』『大丈夫だよ』そんな大人の言葉は全て欺瞞に聞こえる。希美は大人への不信から己の心の殻に閉じ籠った。そして孤独な省察家は幼い態に自分が生きた証を残そうとした。それが絵だ。幸か不幸か妹にはその才能があった。それは直ぐに彼女の忌み嫌う大人の目に止まってしまう。そして祭り上げられた、『病と闘う天才

5−6 透明な海

想像と記憶の小さな海 漂う生は全て幻想であり現実でもある そこは神秘も厄災も起こらない海 『記憶のネガは死の領域に近い』 そこはアレゴリーの海 実績と改竄が形成したオブジェ 儀礼的世界のオマージュ 沈殿した甘い悪夢の堆積 その幽閉者メタファーは 海より青い純然たるメタファーは 呼吸を希求する ある現実を表現し提示するために 『それは境界線を横断する運動』 それは感覚的な色彩を拒絶する 必要性を下に孤独な放蕩者は アレゴリーの海を泳ぐ

5−7 生命の謀反

 無機顔料の紺青を基調としたモノクロームを前に私の目は眩んだ。そして痛みが目覚めた。それは先ず膿んだ左目を襲い、迫り上がる吐き気と共に私の器官を掻き乱す。次いで痛みは身体中の傷を撫で回した。挫いた足を、足裏の捲れ上がった皮を、軋む掌を、額の瘤を。口内が酸っぱい味に満たされて、左目から止めどない無色透明な血が溢れ出た。私に忘れられた痛みは復讐の牙を突き立てるように、私のあらゆる器官を蝕んでいった。 「痛い」  口に出さずにはいられなかった。何度も、舌が縺れるまで何度も。その