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名前の由来になった戦国武将|山中幸盛について

こんにちは。

noteの初投稿から2週間ほど経ち、2024年も7月に入りました。「もっとコンスタントに投稿したい!」とは思いながらも、ようやく2回目の更新でございます。

そんな今回は、僕の名前の由来についてです。「松本鹿介」という名前はいわゆるペンネームなのですが、これは、ある歴史上の人物から勝手にいただいた名前でして…。その人物は、山中幸盛やまなかゆきもりという男。鹿介の通称で、戦国時代が好きな方々を中心に広く知られている武人です。

今回は、その山中幸盛(以下、鹿介)が辿った人生や、僕から見た彼の魅力について紹介します。ぜひ、最後までお楽しみください。




山中幸盛(鹿介)とは

鹿介について書かれた確実な資料は少なく、とくにその出自には謎が多くあるそうです。そうしたミステリアスな部分も鹿介の魅力ですが、まずはどのような生い立ちだったのか簡単にご紹介します。

※今回の記事は『山中鹿介幸盛~山中鹿介ハンドブック』(藤岡大拙 著/ハーベスト出版)を参考に執筆しています。


謎多き出自

鹿介が生まれたのは、天文14年(1545年)8月15日のこと。生まれてすぐ、2歳のころに父・満幸が死去したため、兄の甚太郎が家督を継ぎました。しかし甚太郎が病弱だったことから、間もなく鹿介(幼名:甚次郎)が兄に替わり家督を継ぎます。

鹿介は幼少期から武功を立て、16歳のころには主君の尼子あまご家による伯耆(鳥取県中西部)の尾高城攻めに参加しました。この戦で、敵の猛将・菊池音八を討ち取ったとされています(出典:甫庵太閤記)。

武人として華々しいルーキー時代を過ごした鹿介ですが、この後苦行にも思える人生を歩むことになるとは、本人も思ってもみなかったでしょう。


尼子家と鹿介の人生

鹿介について語る上で切っても切り離せないのが尼子家です。ここでは、尼子家と鹿介の人生についてざっくりと紹介します。

※少し長くなりそうなので、だ・である口調で淡々と進めます。


終わりの始まり

応仁の乱に端を発し、戦国時代が到来。日本各地で下剋上が頻発したが、鹿介が仕えた尼子家も例外ではなく、尼子経久つねひさの代で出雲(島根県東部)一円を支配下に治めた。その後も西へ東へと兵を動かし、山陰地方を中心に一大勢力を築く。

しかし、経久の後を継いだ晴久はるひさの代で、その権勢に翳りが見え始めた。天文9年(1540年)、西の毛利家を討つため安芸(広島県西部)の吉田郡山城よしだこおりやまじょうへ遠征するも、この戦に大敗北を喫してしまう。

勝利した毛利元就はその後、西国最大の勢力である大内氏に謀反を起こした陶晴賢すえはるかたを「厳島の戦い」で破り勢力を拡大した。一方、尼子家では内紛が勃発。尼子軍の中心的存在だった戦闘集団「新宮党しんぐうとう」が、毛利元就の謀略で謀反の疑いをかけられ殲滅されたのだ。これにより、尼子家の軍事力は著しく低下することになる。


尼子家の滅亡

新宮党の脅威がなくなった毛利家は、機に乗じて尼子家に対して侵攻を開始した。まずは永禄3年(1560年)6月に石見の山吹城を攻め落とし、石見銀山を奪取する。その後、尼子家のお膝元である出雲に進軍し、尼子側の重要拠点である白鹿城しらがじょうを攻め立てた。尼子軍は白鹿城へ救援を送るも毛利軍に敗北してしまう。このとき鹿介は、敗走する味方を逃がすべく殿(しんがり)の大役を務め上げた。

白鹿城の落城後、毛利軍は永禄6年(1563年)9月に尼子家の月山富田城がっさんとだじょうに迫る。籠城の構えを見せた尼子軍に対して、毛利軍は城を包囲して兵糧攻めを行った。鹿介は、敵将の品川将員との一騎打ちに勝利する活躍を見せるも、尼子軍は過酷な籠城戦で食料不足に悩み、将兵の中には次第に毛利軍へ投降する者が現れ始める。そして永禄9年(1566年)11月、尼子軍は降伏。富田城は毛利家に明け渡された。

大将の尼子義久よしひさおよび、倫久ともひさ秀久ひでひさの尼子三兄弟と、籠城戦に加わった家臣団は杵築大社(現・出雲大社)に護送。鹿介ら尼子家の残党は日本各地に散る一方で、三兄弟は円明寺に送られて幽囚生活に入った。その後、鹿介と主君の義久が相まみえることは一度もなかったという。

富田月山城絵図


尼子再興軍

永禄10年(1567年)ごろ、毛利家は九州へ出兵して大友家と戦を行っていた。それにより尼子家の所領だった出雲が手薄な状態になると、京都にいた鹿介は好機と捉えて行動に出る。かつて毛利元就の謀略により殲滅された新宮党の遺児が、京都の東福寺にいるという情報を耳にした鹿介は、自ら東福寺へと赴き尼子再興軍の大将とした。この遺児こそが、これから鹿介と運命を共にすることとなる尼子勝久かつひさである。

勝久を大将に据えた再興軍は一度隠岐に渡り、領主の隠岐為清おきためきよの援助を得て出雲へ上陸。島根半島の新山城しんやまじょうを奪取すると、次の目標を月山富田城に定めた。このとき、月山富田城にいた手勢は天野隆重あまのたかしげが率いる兵200人ほど。尼子の残党が次々に集結し、勢いを増す再興軍を前に落城寸前かと思われていたが、毛利軍は難攻不落の月山富田城を死守する。一方の再興軍は、隠岐為清が叛旗を翻した美保関みほのせきの合戦もあって足並みがそろわない中、毛利輝元が率いる援軍が出雲に到着。布部山ふべやま(島根県安来市)で両軍は衝突する。

戦いは当初、地の利がある再興軍が優勢に進めたが、毛利軍の吉川元春による本陣強襲で状況は一変。数で勝る毛利軍の攻勢により、再興軍は多大な被害を出して敗走する。その後、出雲の尼子勢は一掃され、尼子再興軍による戦いは失敗に終わった。


織田家で再起の時を待つ

出雲から追い出された再興軍だが、鹿介はその後も但馬(兵庫県北部)や伯耆を転戦して毛利軍に反抗。再び出雲への侵攻を図るが困難を極め、一転して京都へ上る。そこで出会った明智光秀の仲介を受けて織田信長と面会し、尼子家再興への援助を懇願した。

信長の命により光秀の軍に加わった鹿介は、丹波(京都府中部および兵庫県の一部)の攻略や、信長に反旗を翻した松永久秀との信貴山城しぎさんじょうの戦いなどに参戦。松永との戦では、敵将の河合将監かわいしょうげんを一騎打ちで打ち取るなどの活躍を見せたという。

信貴山城の戦いのあと、ついに鹿介に尼子再興の機会が巡ってくる。信長が羽柴秀吉に対して毛利征伐を命じたのだ。鹿介は秀吉の配下となり、毛利征伐に従軍。織田家のもとで大願成就を目指す。


山陰の麒麟児の最期

羽柴軍はまず、赤松家の上月城こうづきじょう(兵庫県佐用町)を攻めた。壮絶な城攻めの末、落城した城には鹿介ら尼子残党が入城。すると天正6年(1578年)、毛利軍は上月城を奪還すべく3万の兵を伴って進軍し、城を包囲したのちに兵糧攻めを行った。

秀吉の本隊は、織田家に反旗を翻した別所家の対応に苦しみ、信長が別所家の居城・三木城の攻略を優先する方針を取ったため、援軍を出せずにいた。孤立無援となった上月城内では水や食料が不足し、次第に困憊する。

そして迎えた天正6年(1578年)7月、尼子再興軍は毛利家に降伏。主君の勝久らの切腹により上月城は開城した。鹿介は毛利家の捕虜となり、毛利輝元のもとへ送られる途中、高梁川たかはしがわの岸辺(阿井あいの渡し)で殺害される。このとき鹿介、34歳の夏だった。

阿井の渡し(岡山県高梁市)


鹿介の魅力

尼子家再興を目指しながらも、ついに叶わなかった鹿介。人によっては不幸とも見て取れる人生を歩んだ鹿介が、なぜこうも人を魅了するのか。ここでは、僕個人が思う彼の魅力について語ります。


忠義心

戦国時代と聞くと「家臣が主君に忠誠を誓い、ともに天下の覇者を目指す」というイメージがあるかもしれません。もちろんそれは間違いとは断定できませんが、僕が思う戦国時代のイメージは、親兄弟でさえも骨肉の争いを繰り広げる裏切りの時代です。

たとえば、かの織田信長も家督争いで弟の信勝を殺していますし、信長本人も家臣の明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で命を落としました。また、日本各地に点在した国衆くにしゅうと呼ばれる領主たちの中には、下剋上で独立した者がいれば、敵味方を品定めして有利な大名に鞍替えした者もいます。

そうしたいつ誰が裏切るかわからない戦国時代において、滅亡までした主家の再興を目指す鹿介の忠義心には、一門衆だという事情はありながらも、目を見張るものがあるでしょう。

鹿介の忠義にまつわるエピソードは、儒教を国教とした江戸時代の創作などで脚色されている部分も多いかもしれません。しかし、主君を見放さず、多くの挫折を経験しながら大業を成そうとする鹿介の精神が、僕を含む多くの人々を魅了して止まないのではないでしょうか。


不屈の精神

大正11年(1922年)に発刊された『山中鹿之助』(大町桂月 著)に、こんなエピソードが書かれています。

願はくは我をして
七難八苦に遣はしめ給へ

『山中鹿之助』(大町桂月 著)

七難八苦とは、ありとあらゆる苦しみや災難のこと。鹿介は尼子再興という大願成就のため、自ら望んで苦難に立ち向かおうとしました。

現代、とくにビジネスの現場では、可能な限りリスクを減らし、より効率的に成果を上げることが重要視されているでしょう。もちろん、何事もスマートにできたほうが良いでしょうし、まわりからの評価も得やすいはずです。

かくいう自分は、エリートだとか、期待の新星だと言われる存在とはほど遠い位置にいます。これまでの努力が足りなかったといえば、反論の余地はありません。しかし、大きな壁にぶつかりながら、それを乗り越えて泥臭く生きる鹿介のような人にこそ憧れがありますし、僕はそうした生き方を目指したい。その中で、自分などたかが知れていると思いつつも、鹿介の苦難の人生に自らを重ね合わせずにはいられないのです。


終わりに

僕自身、これからライターとしての独立を目指すうえで、その道には七難八苦が待っていることでしょう。ひょっとしたら、すでに七難八苦の最中にあるのかもしれません。この世はひどく残酷で、胡蝶の夢のごとく「夢であってくれ」と目を覆いたくなるほどの現実ばかりです。

でも僕は、行けるところまで行ってみたい。
山中幸盛という益荒男を人生の先生に据えて。



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