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大きく息を吸い込んで

白状すると僕はとある夏のひと月、たったひと月という極狭い期間だけ煙草を吸っていた。

嗜むには到底及ばない。もともと飲み会などがあると喫煙者の多い職場柄からついつい1本もらって吸ってはいた。とはいってもせいぜい1mm程度のものしか受け付けず、口中に含む程度の扱い方だ。しかしまあ程よく酔った脳内をめぐるニコチンとは愉快なもので、一口吸って吐く濃い息に、なにか、巫山戯た幻影が映りもした。

それでなぜひと月で煙草をやめたかというと、その後1mmに慣れ、もう1段上の煙草を買い、深く肺に満たしたとき、ひどい吐き気と悪酔いに襲われたのである。

(ヴェ、なんだこれ、最悪…)

それを境に、僕はきっぱり煙草と別れた。


しかし情景としてはとても色濃く僕の心に残っている。夏の夕方前、うだる暑さに耐えきれず部屋のかげへと避暑しては、陽の当たらない東向きの窓辺に少し顔を出し、咥えていた。

けぶる視界の奥には河川敷でこどもらが鬼ごっこをして走り回っている。暑いだろうにと思ってしまうその間の線が色濃く目立つので、また濁った白い息を吐いてかき消す。汗ばむ喉元を手の甲で拭っては空まで視線を遠ざける。夏の日差しは明暗をくっきり分けたが、居心地良くあり、また悪くもあった。

黄昏にたそがれる頃、いつの間にか河川敷の子供らは消え、代わりに大人が数人ベンチで屯っていた。そんな時間かと僕はかごを持ち、下駄を履いては近くにある銭湯へと向かう。だいぶ低いところに白い月が浮いていて、その隣では鉄塔が黒く、凛としていた。

その後銭湯の番台に子銭を落とし、湯船に浸かって体をさっぱりさせた僕は、番台隣りの氷水に浸かった350mlの発泡酒を買うと、左手にかごを持ち、右手に缶を持ちながら暖簾を擡げた。

すっかり夜に変わった世界に吹く風は、火照った体に滲み入るように心地いい。少し歩いた先にビールの自販機があり、手前で飲み干しては隣の缶専用ゴミ箱にすて、すぐもう1本、また発泡酒を買った。今度はそれを飲まずに持ったままあの土手へと向かう。鶯が一度潔くキョケキキョと鳴いては黙った。僕はその声のした方を探したが、夏の闇に紛れ、なにも見えなかった。

それでも土手は公園の古い電灯が数本寂しく立っており、目が慣れればずいぶん遠くまで見通すことができた。土手の傾斜に腰掛けプルタブを開ける。カプスと鳴ると夏の夜が一際深まった気がしたが、一体具体的になにが深まったのかはわからなかった。

月はまだ正面付近にいた。東の空には星星が大きな大三角をつくり、小さなな星たちはそこを上手にくぐる遊びをしていた。僕は微笑ましいその風景にくすっと笑う。川は双子の星座を抱えどこまでも流れていく。耳をすませばその音が包み込むように聞こえ始める。天の川には魚が跳ねた。僕はアテが欲しくなった。

しばらく経った。相変わらず月は正面に座している。少々自己主張の強さを感じた僕は不安になり強く缶を握る。するとすでに空っぽのはずのアルミ缶から水が溢れ出した。それはあっという間に膨大な量となり周囲に新たな川の筋を作った。また嵩も増すばかりだった。しかし夏にいる僕は冷静に、月に届いてしまうな、そう肩まで水に浸かりながら思っていた。

そして、僕は今12月の空にいる。あの夏の空より派生し、多次元的な解釈により、夏から12月の空にいた。相変わらず水は収まらず肩付近までアルミ缶より溢れたそれが空の底に満ちていた。生ぬるく、それは案外心地良かった。

溢れた水はよく見れば黄金色に輝き、あぶくを発していた。口に含んで見れば今まで飲んだことのない、極上のビールの味がする。僕は思い出したようにポケットに浮きでる四角の箱を掴む。1mのマイセン。反対のポケットにはライターが入っていた。

湿気た、それが。

そして現在に至る。まだ、GOLDMOON前の静かな現実だ。僕は待ち遠しく空を見つめている。そして同時にnoteを漁っている。温泉に久しぶりに行きたいなあ、それに、サウナも近々体験したい。すると勝手に僕の肺は膨大な酸素を要求し膨れるほど大きく大きく吸い込んだ。

そう、準備はできている。まやかしなんかにこの快適をかっさらわれてたまるか。

さあ、みんな、大きく大きく、冬の透明で新鮮で感覚の研ぎ澄まされた肺に空気を取り込もうではないか。少し、痛むが、それはなにかの証拠だ。言わずもがな。

みんな準備はできている。


…そう。




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