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「自然は守るもの」という主張に含まれるもの〜短い省察

「自然を守る」とか、「自然保護」といった言葉をよく耳にすると思います。ですが、私たちのもっと原始的な生活を考えてみるとき、「自然」は私たちに「守られる」ものではなく、私たち自身が「その中にある」ものであり、時に大きな牙をむいたりするような、協調を図りながら利用したり、それに対して抵抗するものであるような気がします。

そのように考えた時、「いつから私はそう主張するようになったのか」、「人間にとって何が得られたときそのように主張するようになるのか」といった疑問が浮かび上がります。

つまりこれは、歴史的にエコロジーがどのように成立し、どんな条件のもとで私たちがそれを主張するようになるのか、というような疑問に言い換えることができるでしょう。この疑問は、多くの文献に問われているような事ではあるでしょう。文献探しは後々やっていくとして、本記事では、私自身の直感として、そうした「守られる自然」概念を支えるものがなにかを省察していきたいとおもいます。

それではまず、「自然」という言葉について考えていきますが、私の知る西洋古典の文脈、つまり、ギリシャ語では「フュシス」、ラテン語ではnaturaという言葉は、双方とも「本性」と訳されるものです。つまりこれは、ある物事の本来的な性質を示しており、いわば、あらゆる物事が「自然にそうなる」ような性質のことを言っています。例えば「花は本性的に花を咲かせ種を生む」のように、物事の自然な有様を示します。これは、日本語の「自然」という言葉にも共通するところがあると思います。

このように考えたとき、「守られる自然」概念の中には、本来的で「自然」な事物の有様を「歪め」、「破壊する」、行為またはその存在が対置されていると考えることができそうです。

では、その対置される存在はなにか?これはもちろん人間でしょう。(エコロジーを唱える人たちが、エイリアンのような宇宙からの侵略者が自然を破壊する、と主張するとは普通考えないでしょう。)少なくともこのように考えるとき、私たち人間は「自然」を、歪め、破壊できる存在であると認識していることでしょう。

では、私達人間はどのように「自然」を破壊可能であるのか、そして破壊される「自然」とは何なのか?

よくイメージされるのは「CO2排出による地球温暖化」でしょう。私たちは、産業革命以来CO2の排出の増加によって、地上の気温が上昇傾向であることを、あらゆるメディアから聞き、「知っている」はずです(ここで、「知っている」を「」で括るのは、あくまで常識とかそういったレベルで知っていることを協調するためです)。しかしながら、それが、地球のあるがままの姿の「自然」の破壊として、どのように学術レベルで理解できるか、それを正確に知っている人は稀でしょう。(私も知りません。)

この意味で、じつは私たちの多くが「守られる自然」という意味を、正確に理解できていないことがわかります。他にも、外来種の侵略という話であっても、「その外来種は人間以外によってもたらされる以外で、侵略してくる可能性がなかったか?」と問うことができますし、その回復として外来種を積極的に排除することは、ある種の自然破壊ではないのか?という疑問も提示できるでしょう。(おそらくこの答えは、自然に介入した以上、介入以前の環境を再現することで、本来のあり方=自然を回復することだ、となりそうです。しかし、こう考えるにしても、本来のあり方は人間によって定義されたものであり、「自然」そのものであるか否かは、議論が必要ではないかと思います。)

このように、私たちの大半が「自然を守る」という主張を、なんの反省も抜きに消費しているのではないか、というのが私のいまの思うところです。そして、全く素人考えではありますが、一般がSDGsを語り始めたのは、その「自然」の定義の難しさにあるのではないかと思います。(多分違う。)結局、SDGsにしても、「自然」の定義の難しさには直面するでしょうし、それが無反省に主張されつづける結果、消費されていくことは想像に易いことです。

さて、長くなりましたが、今回は以上となります。

それでは。


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