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読書記録・写真の哲学にむけて①〜シャーカフスキー『『写真家の眼』序論』part1

※こちらは、少し前に書いた記事になります。読み下しのところで文調が変わるのはご愛嬌です笑※

皆様、鹿人(仮)です。

最近、写真に凝っていて、ある種の理論的な探究心というか、作品作りのために、そして「写真の哲学」的なものを始めようと思い、こちらの本を選びました。しばらく、今回のような形で、読書記録を積み上げていこうと思っております。(もちろん、書きたいことがあれば、その都度書きます!)

まず手始めに、月曜社出版の『写真の理論』(甲斐義明編訳)を読んでいきたいと思います。こちらの本は、「写真史や写真理論を学ぶために必読書とされる論文や著作を発表してきた」(P8)ことで知られる5人(ジョン・シャーカフスキー、アラン・クセーラ、ロザリンド・クラウス、ジェフ・ウォール、ジェフリー・バッチェン)の著作の一部を取り上げ、解説を付したものになります。

今回は、その中で、ジョン・シャーカフスキー『写真家の眼』序論の読書記録になります。

原文はこちら

https://www.jnevins.com/szarkowskireading.htm

解説によれば、シャーカフスキーはニューヨーク近代美術館写真部門のディレクターを務めた写真キュレーターであり、それ以前は写真家としても活動していた人物です。また、この『写真家の眼』という本は、1964年に開催された同名の展覧会の内容をもとに、1966年に発行された書籍であり、様々な時代や地域の作例が含まれた170点余りの写真を紹介しています。(収録元の『写真の理論』には、写真の掲載はなし。)そして、この序論は、同書の解説であり、「ニューヨーク近代美術館のキュレーターに就任して間もないシャーカフスキーの写真観が表明されたマニュフェストとしても読むことができる」(P189~190)ものになります。

解説ではさらに、シャーカフスキーの写真観について広範にかつ、端的にまとめられておりますが、とりわけ印象に残ったのは、その偏りや恣意性が指摘されており、「芸術写真概念の相対性(何が芸術的に優れた写真と見なされるかは時代によって変化する)も覆い隠されてしまっている」(P198)ところです。
 シャーカフスキーの写真観には、「過去に生み出されてきた写真に刺激を受けて、写真家が生み出していく過程」を「伝統(tradition)という言葉で表現する」(P197)という特徴があり、そこで紡がれる伝統は「力強さと生命力」によって特徴づけられると言います。しかしながら、これは写真の歴史そのものとは異なるものであり、シャーカフスキーの写真観によって恣意的に決定されたものです。
 そうは言うものの、これは、写真というカメラを通した機械的プロセスがいかにして、いい写真とそうでない写真を分けるのか(シャーカフスキーの言葉でいえば「この機械的で、心を持たないプロセスがいかにして、人間的な観点から見た際に意味のある画像(中略)を生み出しうるのか」(P12))、という問いの一つの答えにたどり着くためのアプローチかと思います。こうした、突き詰めた問いの探求の軌跡を辿っていくことこそが、「写真の哲学」のための読書記録として意義あることかと思います。

さて、以上では解説部分と共に、シャーカフスキーの写真観をのぞき見しましたが、以下では、『『写真家の眼』序論』を、トピックごとに主張と論拠をまとめながら、コメントを書いていく、という形で読書記録にしたいと思います。

それでは、内容を詳しく見ていきましょう!

1.問の提示(P12)

  • 『写真家の眼』という書は、「写真がどのように見えるか、そして、なぜ写真がそのように見えるか、についての探求」である。

  •  そして、「写真のスタイルと伝統、すなわち今日の写真家が自身の作品に取り組む様々な可能性の感覚」に大きな関心を抱く。

読み下し・疑問

「写真がどのように見えるか」、というのはどの立場からなのだろう。おそらく、写真家がどのように見て、どのように写真を生み出すか、という問いにも言い換えられるかもしれない。
 この、少々読みにくい訳文は、「今日の写真家が自身の作品に取り組む様々な可能性の感覚 the sense of possibilities that a photographer today takes to his work.」そのように読む可能性を示しているように思う。原文では、「今日の写真家が彼の作品を撮る」ということが、that節でくくられており、可能性~そういうことが起こる(または真実)~という、その感覚について関心があると述べられている。
 それは、写真家の作品を見る私たちがそう思う(写真家が自分自身の作品を生み出していると思う)感覚と読むこともできるが、写真家自身の感覚と考えたほうが、しっくり来そうである。
 しかし、「なぜそのように見えるか」とも同時に述べられていることから、そのどちらでもあるのかもしれない。
 一旦ここでは、

  • 写真家自身が写真をどのように見て、それをどのように生み出すか

  • 写真家の写真を見る人が、写真家の写真として、どのようにして見て、なぜそのように見えるのか


という2つの感覚に関心がある、と捉えておこう。

2.写真という媒体(メディウム)について(P12)

  • 「写真の発明は根本的に新しい画像制作プロセス」である。(絵画は「作られる」のであるのに対し、写真は「撮られる」ものだ。「統合ではなく、選択のプロセス」)

  • この違いは、写真(「機械的で心を持たないプロセス」)が「人間的に意味のある画像」をいかにして生み出すか、という疑問を生む。

  • しかしながら、「昔からの形式を愛しすぎる者」にはその答えを見つけることができない。(昔からの伝統を持たない写真家自身が見つけるものだ。)

  • それゆえ、「写真家は自身の意義を明らかにするための新たなやり方を見出さなければならなかった。」

読み下し・疑問

シャーカフスキーは、絵画と写真について比較し、写真のその画像を作る過程(プロセス)が根本的に新しい、と述べている。
 たしかに、写真は「撮る」ことによって、カメラを持った人が目を向ける世界を切り取り、あるいは、世界をそのような形になるよう準備して、一つの画像にする。
 解説でも指摘されていたと思うが、これは写真という総体のごく一部(と言っても、これが根本的なものであることは間違いないが)であり、フォトモンタージュや、ピクチャリズムによって制作された作品については当てはまらない。そして、この現代においては、写真を修正し加工することはごく当たり前ですらあるし、また絵画自体もデジタル技術の発達によって、選択のプロセスを取ることもあるように思う。
 しかしながら、描画を積み上げていくボトムアップ式の絵画に対して、世界から画像を切り出すトップダウン式の写真、という指摘は、その根源において正しいように思う。

3.写真というメディウムの新しさ・絵画との違い

3.1. 写真を実践してきた人たち

  • (自身の意義を明らかにする)新たなやり方は、「伝統的な絵画の基準に対する忠誠を捨てることができた人」、「芸術的に無知で、破るべき昔からの忠誠など持たない人々」によって見いだされる。

  • 実際、「芸術的に無知」な、何千もの人々によって、写真の実践はなされてきた。

  • 写真を発明したのは、科学者や画家たちだったが、職業的実践者はそれとはずいぶん異なった人だった。

3.2.イメージの多様性と特徴

  • 新たなメディウム(写真)の人気は、様々な経歴を持つ新たな職業的写真師を生み出した(ex.細工師、金物の修繕屋、薬屋、家事屋、印刷屋)。「もし写真が新たな芸術的問題であったならば、これらの人々は学んだことを捨て去る必要がなかったという点で有利であった。」

  • 新たな写真師たちは、おびただしい数のイメージを生産した。しかし、これらの写真のうちいくらかは「知識、芸術、感受性、創意の産物」だったが、多くは「偶然、即興、誤解、経験に基づく実験の産物」だった。

  • 技巧か幸運にかかわらず、それらの個々の写真は、「伝統的な視覚の習慣に対する大規模襲撃の一部」だった。


  • 19世紀の最後の数十年間には、「職業的写真家と熱心なアマチュア」に加え、「多数のお気楽スナップシューター」が現れた。湿版に替わり「すぐ使用できる状態で購入できる乾版」が普及したからである。

  • あるイギリス人の書き手は1893年に述べた※。(写真家の多くは、)様々な対象を様々な状況下で撮影するが「これやあれは芸術的だろうか?」と自問することは全くない。しかし彼らにとってそれは必要か。詩人が「芸術は間違いを犯すかもしれないが、自然は失敗しない」と言うように、彼らにとって「構図、光、影、質感などはあまりにも多くの標語である」。※ E. E. Cohen, "Bad Form in Photography," in The International Annual of Anthony's Photographic Bulletin. New York and London: E. and H. T. Anthony, 1893, p. 18.

  • 写真家たちに撮られた何千もの写真は、それ以前のいかなる画像とも異なっていた。

  • それらのイメージ群の多様性は並外れていた。画家たちが十数もの視点から頭や手を描くことができたのに対し、写真家は、「視点や光の微妙な変動のそれぞれ、過ぎ去りゆく各々の瞬間、プリントの諧調のあらゆる変化」などから、際限なく多様なイメージ群を生み出すことを発見した。

  • 氾濫する画像の大半は、形式を欠いていて、偶然の産物に見えるものだったが、中には一貫性を獲得したものもあり、その「奇妙さ strangeness」においても一貫していた。

  • それらの新たな画像の中でも、記憶に残り、作者の意図を超えて意義あるように見えたものもある。それらの記憶された画像が、人が画像から現実世界に目を向け変えたときに、「彼(撮る人)の可能性の感覚を拡大した」。「それらの画像が記憶されているあいだは、それらはまるで有機体のように繁殖し、進化した。」

3.3.対象の新しさ

  • だが、写真の新しさは、事物の描写の仕方だけではなく、描写される対象も新しかった。絵画は「難しく、高価で、貴重であ」る、ために、重要だと知られているものだった。対して写真は、「簡単で、安価で、いたるところに存在」するために、なんでも記録した。

  • 写真に撮られた対象が、画像の中で「客観的、永続的、不死のものへ」と変えられると、これらの「取るに足らないもの」が重要性を帯びた。「歴史上初めて、貧しいものでさえも自分の先祖がどのような外見だったのか」を、19世紀末には知った。

読み下し・疑問

まず注目したいのは、写真家自身の意義を見出す人々が「芸術に無知」であるか、「伝統的な絵画の基準に対する忠誠を捨てることができた人」と指摘している。それを証左する形で、写真を実践してきた人たちが、絵画とは異なる分野の人たちだったことをシャーカフスキーは述べる。
 解説にも指摘があるのだが、シャーカフスキーには、写真と絵画、つまり画像の芸術としてこの2つを対比する。事実、カメラの祖と言われるカメラ・オブスキュラは画家たちによって用いられたものであり、これは、レンズを通して写った像をなぞり描くためのものだった。写真家と画家は、一枚の画像を作り上げるという点でおなじだが、そのプロセスは異なる。描画の作業を画家自身が行うか、カメラや自然の化学反応が行うかの違いだ。(もちろん、先に述べたように曖昧な部分もあるが。)
 このような、描画プロセスの違いが、画家ではなかった人たちの新たな参入を呼んだ。現代でも、画家としての専門的な教養を身につけることなく、写真を撮る人は多いだろう。そして、画家として仕事を身につけるよりも、カメラマンとして仕事を見つけるほうが難しくないように思う。これは、写真を制作するためのプロセスが、より簡略化したことも大きな要因だろう。写真は、良くも悪くも、誰でも撮ることができる。これが、シャーカフスキーも指摘する画像の多様性を生んだことは間違いない。

次に考えてみたいのは、「もし写真が新たな芸術的問題であったならば、これらの人々は学んだことを捨て去る必要がなかったという点で有利であった。」という部分だ。おそらく、絵画と比較して「写真が新しい芸術問題」であると仮定したら、画家としての伝統を持たない人が有利だと述べているのだろう。これが実際どうだったか、すぐに検証することは難しい。とはいえ、写真独自の芸術性を探ろうとするモダニズム芸術の発想からすれば、画家であることが写真の独自性を探る妨げになるというのは頷ける。このトピックについては解説が詳しい。
 解説では、このモダニズム芸術的な発想について触れながらも、シャーカフスキーがそれとは異なる形で写真のあり方について説明していると述べる。具体的に言えば、「絵画では不可能な、写真にしかできない表現を写真家は追求すべきである」という考え方を、彼がもちながらも、モダニズム芸術に影響を受けた他の写真家や批評家とは異なり、写真とは〇〇であると固定することはない。代わりに、以降の本文でも登場する5項目を取り上げる。そして、この5項目は同時に、彼の示す「写真の固有性」である。

さて、以上の解説部分を見ると、この論文の主張の要旨をつかむことができるように思う。しかしながら、私自身はもう少し別の主張の部分にも注目したい。それは、先程の要約部分で触れた「人が画像から現実世界に目を向け変えたときに、「彼(撮る人)の可能性の感覚を拡大した」。「それらの画像が記憶されているあいだは、それらはまるで有機体のように繁殖し、進化した。」という部分だ。これは、本記事の最初に取り上げた「可能性の感覚」に関連があるように、個人的には見える。
 偶然か意図的にか、実験的か知識を伴ってかにせよ、一貫性と「奇妙さ」をもった写真たちが、見る人と撮る人の眼に記憶され、それが写真を撮るときに、眼前の風景とあわさって変化し、新たな作品が生まれる…。これこそが最初に示された関心を、シャーカフスキーが言い表したものなのだろう。そして、この「有機体のように繁殖し、進化した」という部分が、彼の写真論に特徴的な「力強さと生命力」につながっていくようにも思える。

 もう一つ、注目しておきたい部分がある。それは、描写される対象が絵画とは異なり、どんな些細なものでも記録したという部分だ。もちろん、歴史的な画家たちも、デッサンやその作品の中で、様々なオブジェクトや自然の中に生きる小動物などを記録してきたのを私たちは知っているだろう。しかし、写真の多様さたるや、それをゆうに超える。それは、カメラ付きの携帯端末が普及した現在では、より顕著なことであろう。
 また、余談ではあるが、「取るに足らないもの」が重要性を帯びた、という指摘が、なんとなく私の心には響く。カメラを向けて写真を残す、この行為は、この切り取られた時間と対象に、価値を見出そうとすることに他ならないのかもしれない。当日、初めて写真というメディウムを獲得した人たちが、自分たちの「顔」を、その日常性を、残すことができると歓喜したことが容易に想像できる。

ここまでのまとめ

以上に、シャーカフスキーの『『写真家の目』序論』の前半部分を見てきました。彼がどのようなトピックに関心を持ち、どのように論を進めていくか、その端緒を見ることができたように思います。後半部では、彼が写真の「固有性」とみなす、5つのトピックを中心に語られていきます。次回も同様の形で、読書記録を進めたいと思います!

それでは!


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