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限界大学院生2021 ふりかえりその2

12月頭から、コツコツこの記事を書いていたが、ついに大晦日になってしまった。この計画性のなさを来年はどうにかしたい。なんでこんなに筆が進まないのかというと、下半期の内容を書いていたら途中で内容が暗過ぎて世に出していいのかと不安になったから。まあ、自分用の文章だし、いいか。

来年は社会人になるし、誰かにとって有益な情報発信がしたいな。

今回は下半期編。よし。

7月。正直あまり記憶がない。調査が落ち着いて、分析をしたり少しずつ執筆に取り掛かったのだと思う。私の研究は質的調査だったのでそこまで分析は大変ではなかったが、膨大なインタビュー記録をどう調理するか、結構悩んだ。
修論の中間発表もあり、なんとなく発表してなんとなく過ごした。

7月の頭に保井先生のお見舞いに御茶ノ水の病院へ行った。コロナ禍で面会はできなかったが、受付にお見舞いの品(?)を預けて帰った。同期と選んだストール。
帰りの電車に乗っている時、なんか胸騒ぎがして、「○○病院(先生が入院している病院) ○階 病棟」で検索をかけた。緩和ケアの病棟だった。頭が真っ白になった。
院生のLINEグループに、先生から「お見舞いありがとう」のLINEが来て、その最後の文章に「3人とも、元気でね!」と書かれていた。「自信を持って、我が道を貫いてくださいね。」とも。周りの人に、とりわけ学生の前では弱いところを見せない人だった。「緩和ケア」の意味は、頭が悪い私でも知っていた。
正直研究どころではなく、「先生が居なくなってしまう」と怖く悲しかった。代打で指導教員になってくれた野田先生の部屋に泣きながら押しかけて話を聞いてもらった。不安すぎて、1日に何回も保井先生のFacebookの最終ログイン時間をチェックしていた。(ヤバイ奴ですよね〜)
少しでも明るい話題を、と思って先生に多摩キャンパスの写真を送ったりした。

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あとは、7月には栃木市嘉右衛門町伝建地区に「栃木市嘉右衛門町伝建地区ガイダンスセンター」がオープンした。

伝建地区内の旧味噌工場を市が取得して改修した地域拠点。これから飲食、物販、コミュニティスペース、防災の機能もどんどん増えていく。
ここは市からNPO法人嘉右衛門町伝建地区まちづくり協議会に業務委託し、住民が運営を担っている。そこで、私もNPO法人の一員としてアルバイトをさせていただくことになった。

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思わぬ形で、「伝建地区で働く」という夢が叶った。これからもっと面白い場所にしていきたいな。

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↑看板も描かせてもらった。とち介LOVE

8月。24歳になった。美味しいものをたくさん食べた。
毎年恒例、保井先生からもメッセージをいただいた。

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よく考えたら、これが最後の文面でのやりとりだったんだな。メッセージの最後は、「ここで絶筆です。ごめんなさい。体調が良い時に続けます。」と書かれていた。この続きが送られてくることはなかった。
「古谷栞節」。ずっと悩んでいる。グラレコはあくまでまちづくりを支援するツールだ。シンポジウム等では登壇者の話の理解を深めるためのツール。私はまちづくりのどこに軸を置いて、何をしたいのだろう?自分の軸が欲しい。

お盆が明けてから2週間、内定先の企業の研修があった。防災や福祉、エリマネなどなど、自分の関心ある分野にたくさん関われて、面白かった。mtgに参加したり、資料を作ったり、GISを使わせてもらったり、中学校の建て替えワークショップではグラレコまでやらせていただいた。社会人になるの憂鬱だったけど、少し楽しみになりました。

そんなこんなしている時に、保井先生からメッセージが入った。体調の悪化、これからのこと、手書きのメッセージだった。ああいよいよなのか、と思った。

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後悔したくなかったし、私は本当に先生に出会えてよかった、と感じている。その5年間の想いを全部伝えなきゃ!と思って、先生に長文のメッセージで愛を伝えた。


そして、先生との別れが近づいていることを悟った同期と企画して、OBOG会をzoomでやった。たくさんの先輩と話ができて嬉しかったな。1人じゃないんだ、と思えた。先輩後輩同期、本当にありがとう。

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そして、8/20、その日が来た。
そこまで涙は出なかった。実感が湧いていないのか、覚悟ができていたからなのか、わからない。会社の研修がちょうど折り返しになったところだった。それでも研修には休まずに行った。ここで休んでしまったらきっと先生は怒るだろうなと思ったから。「無理しなくていいからね」と会社の人が言ってくれた。入社前のペーペーに寄り添ってくれることが嬉しかった。

先生がいなくなって、寂しくて空っぽではあったけど、後悔は無かった。言いたいことは全部言えたから。

8/28には、エリマネ人材研の皆さんとzoomで話をした。先生との思い出を共有できて、ここでもあ〜私は1人じゃないんだな、と思えた。
学生は私だけだし、仲間と呼ぶには烏滸がましすぎるほどの偉大な方々なのだけど、あえて仲間と呼ばせてください。保井先生のおかげで出会うことができて、こうして一緒に涙を流して、悲しみを分かち合える人たちがいることが嬉しかった。
これから、胸を張って『仲間』と呼ばせていただけるように、頑張ります。

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ここから、今も、こんなにもたくさんの周りの方々に支えられて、なんとか前を向いて生きています。

9月。少しずつ周りが前を向き始めた。保井先生が居ない組織の再編、大学の体制。自分だけが取り残されているような感覚になった。苦しかったけど、私が1人で悲しんでいることで先生の存在が近いままになるのなら、私だけは悲しんでいたいと思った。
そんな葛藤を抱えながら、研究と授業。たくさんの先生方が声をかけてくれて嬉しかった。授業時間以外にも相談に乗ってくれた。本当に、周りの人に恵まれたと感じています。

少しずつ、ゼミも動き出しました。

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そして、9月には全国エリマネの若手実務者会議(AMU35)でグラレコをした。『保井先生の一番弟子で〜』っていう紹介をされることが嬉しかった。
現場で最前線で活躍するエリマネの実務者の方々の話を聞くことが面白かったし、就活の前に聞きたかった〜〜〜となった!

10月。「修論が終わらないかもしれない」という漠然とした不安に襲われた。毎日泣いていたし、泣きながら同期に電話したりした(そんな暇あったら修論やれw)内容も不安だったし、何より精神的に終わっていたので卒業できないのでは・・・と不安に駆られていた。夢に野田先生が出てきてうなされたりした(笑)

そんな中で、日暮里のマンション防災マニュアル策定のワークショップにグラレコで参加した。

地域がこれまでの災害でどんな被害にあって、どのように乗り越えてきたのか。その「文脈」が必ず現在のまちの姿に何かしらの形で現れていることに感銘を受けた。これは自分の研究にも通ずる部分があって、大きな学びだった。

個人的(?)には、宇都宮に帰省して、LRTの見学会に参加したことが楽しかった(笑)宇都宮市、どんどん面白くなります。

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11月。修論、修論、修論の時期。2週間に1回野田先生とやりとりをして、なんとか結論につなげて内容を練っていた。いや〜〜〜苦しかった。1番苦しかった時期かもしれない。毎日PCと睨めっこして、なんか不安で眠れなくて、偏頭痛も悪化していた。野田先生に「順調だね!大丈夫だよ」と言われても「ほんとかよ」と思っていた(ごめんなさい)
朝から晩まで大学に缶詰になっていたし、大学院に友達がいないので誰とも話せないことがストレスだったな〜

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執筆の合間を縫って高校の友達と会ったり、帰省したことでストレス発散してた。11/29に行ったカネコアヤノの武道館ライブが最高だった。一緒に行った友達と感情がダバダバになった。

あと、ここで初めて、ずっと逃げてきた「先生の死と向き合う」ことをした。

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先生のご自宅に行って、手を合わせることができた。一歩成長だと思う。
自分を縛り付けていたものがふっと軽くなったような気がした。悲しんでいることは楽だった。ずっと受け入れようとしてこなかった。だけど、別れを受け入れることで先生の存在が自分の中で前向きに残ってくれるような感覚になった。行ってよかった。先生の旦那さんに「彼女は何よりも古谷さんたちの教育、人材育成を大切にしていました。」と言われて、さらに泣いた。


この辺りから、先生の研究室とご自宅の本たちをどうするかという話になって、それを公開しながらコミュニティカフェのようなことがしたいな、と思うようになった。それはまた別で記録していきたい。何も進んでいないけど。

そして12月!修論修論ぎゃー!という感じ。私の学校は12/21が修論提出締め切りだったので、ピークで忙しい時期だった。書いては直し書いては直しの繰り返し。修論やばいやばいと思って走って学校に行ったりしていた(笑)

野田先生には「修論に集中して!!!」「活動は今はお休みして!!」と言われていたのに、修論がやばいことは自分が1番よくわかっていたのに、面白いものには飛び込みたくなるのが性。Placemaking Week JAPAN 2021 vol.2のグラレコを何本か担当させていただいた。

春に引き続き、本当に楽しかったし、学びと感動の連続。

修論の研究指導と日程が被っていたりしていたので、朝6時の電車に乗って学校に行ってグラレコした(笑)

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そして、今回はリアルでのグラレコもできて嬉しかった!

やっぱりリアルがいい。個人的に、筑波大の渡先生の講演に心を打たれた。人々の感情、「心」と「場」の関係性というか親和性?というもの・・・ただただハードの整備をすればいいってもんじゃないのね。なんか自分がこれまで考えてきたこと、通ってきた道を肯定してもらえたような気がした。
さらに、これまでネット上で活躍を勝手に拝見していた方々とリアルでお会いできて嬉しかった!会う人みんなに「修論は大丈夫なの??!」と心配していただき、「いや〜(笑)ハハハ」となっていた(笑)

そんなこんなで毎日楽しくグラレコしたり、AMU35でもまたグラレコやらせてもらったりで自分の本業を忘れそうになっていたが、
12/15、無事に修士論文を提出することができました。パフパフドンドン!
おめでとう私!

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最後までたくさんご迷惑をおかけして、たくさんお世話になった野田先生から祝福とこれからの激励のお言葉をもらい、しばらく涙が止まらなかった。この2年間は何も無駄じゃなかった、と思えた。保井先生の「まちづくりの構造」と野田先生の「地域文脈」の両面から伝建地区にアプローチできたことが私の研究の最大のオリジナリティだ。全て意味があったことだった、自分が通ってきた道は間違っていなかった、と言える。そんな論文が書けた。
(これで審査落ちたら笑っちゃうね〜)

そして、大学・大学院でお世話になった先輩がわざわざ京都から来てくれて提出を見届けてくれたり、お世話になった先生方からたくさん「お疲れ様!」という言葉と今後へのエールをもらった。この論文は、私1人の力で書いたものではなく、周りの人たちからの支えがあってのものです。本当にありがとうございました。

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そして、修論が終わって、一息ついている暇はなく、12/18には全国エリアマネジメントネットワーク主催の「保井美樹先生のお別れ会」があった。研究室も共催で企画、運営させてもらいました。

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いい会だった。保井先生がどれだけ周りの人から信頼されて愛されていたのか、さらには保井先生自身が周りの人や地域をどれほどまでに愛していたのか、実感した。私も研究室代表で挨拶をさせていただいた。

ここで思いを述べると、日が暮れてしまうので、一言だけ!
保井先生は自由の女神で、太陽だ!これからもずっと!!!!

保井先生はずっと私の心の中で生きているし、これからもきっと見守ってくれている。から、これはお別れではないです。私は保井先生が残してくれたもの、大切にしてきたものを受け継ぐ使命がある。これからも、しっかりと地に足つけて生きていきます。そして、保井先生の後継者のような存在になれるように、精進していきます。


こうして振り返ると、1年の振り返りではなく保井先生へのラブレターになってしまいました。想定内です。
2021年は、あっという間で、運命に翻弄された1年だった。
周りの人たちの支え、エールがあってやっと年を越せます。本当に感謝でいっぱいです。

私たちの命は有限で、別れは突然で、人は人に生かされている。
来年も強く逞しくしなやかに我が道を進んで参ります。

ギリギリ滑り込みの執筆になりましたが、なんとか1年の振り返りができた。よかった〜〜(笑)

ふう。来年も頑張るぞ。良いお年を。



2021年下半期を象徴する曲はこちら。
緑酒 / 東京事変


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