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ミッフィーの背後にある『デ・ステイル』という雑誌と運動

《週末アート》マガジン

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オランダの「デ・ステイル」という雑誌と運動

『デ・ステイル』1921年11月号
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=518057

デ・ステイル (De Stijl)とは、1917年テオ・ファン・ドースブルフ(Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)氏オランダのライデン(Leiden)で創刊した雑誌であり、それに基づくグループの名称でもあります。「デ・ステイル」とはオランダ語で「様式」(The Style)を意味しています。

テオ・ファン・ドースブルフ(Theo van Doesburg, 1883年 - 1931年)

その理念は、グループの重要なメンバーでもあるピート・モンドリアン氏が主張した「新造形主義(ネオ・プラスティシズム、英: Neoplasticism、蘭: Nieuwe beelding)」そのものでした。しかし、リーダーであるドースブルフ氏の考えは、絵画よりも建築を重視し、1924年には、垂直と水平だけでなく、対角線を導入した要素主義(エレメンタリズム)を主張します。そのため、ドースブルフ氏とモンドリアン氏が対立し、モンドリアン氏は、1925年に「デ・ステイル」グループを脱退します。

ピート・モンドリアン氏(1922)

モンドリアン氏とその作品についてはこちらの記事で書いています。

その後、雑誌は、1928年まで刊行され、グループ自体はドースブルフの死(1931年)まで続きます。「デ・ステイル」の洗練されたスタイルは、ディック・ブルーナ氏「ミッフィー」(1955年)や、イヴ・サン=ローラン氏「モンドリアン・ルック」(1955年)などに影響を与えました。

ディック・ブルーナ氏
Dolph Kohnstamm - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3098209による
ミッフィー
source: miffy shop

ミッフィーと『デ・ステイル』

ミッフィーは、オランダのグラフィックデザイナー、ディック・ブルーナ(Dick Bruna, 1927–2017)の絵本に登場するうさぎのキャラクター(女の子)。ブルーナ氏は、雑誌『デ・ステイル』の理念から影響を受けて、太い黒線、鮮やかな原色そして無彩色という構成要素で絵を描きました。用いられるカラーは、ブルーナカラーと呼ばれ、最初は、最初は赤、青、黄、緑の4色でしたが、後年は灰色、茶色がこれに加わりました。


イヴ・サンローランのモンドリアンコレクション

Mondrian dresses by Yves St Laurent (1966)
By Eric Koch for Anefo - Nationaal Archief, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=37627630


『デ・ステイル』の理念

『デ・ステイル』1921年11月号、ダダイズム
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=518057

モンドリアンは「絵画芸術における新可塑主義(Neo-Plasticism in Pictorial Art)」というエッセイの中で、新可塑主義の限界を打ち出しています。彼は、「この新しい造形思想は、外観の特殊性、すなわち自然の形態や色彩を無視するものである。それどころか、形と色の抽象化つまり直線と明確に定義された原色の中にその表現を見出さなければならない」と書いています。この制約のもと、モンドリアンの芸術は、原色と非色、正方形と長方形、直線と水平または垂直線のみを許容したものとなりました。デ・ステイル運動は、直線、正方形、長方形の幾何学と強い非対称性、白と黒の純原色の優勢な使用、非目的の形と線の配置における正と負の要素間の関係を基本原理として提起していました。

デ・ステイルのマニフェスト(1918年11月)
By Theo van Doesburg (1883-1931) - http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/De_Stijl/2/1/pages/04.htm, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3301251

一般に、デ・ステイルは、建築でも絵画でも、水平と垂直の直線と直方体だけを用いて究極の単純化、抽象化を提唱しました。色においては、赤・黄・青の3原色と、黒・白・グレーの3原色(濃度)に限定していました。対称性を避け、対立するものを用いて美的バランスをとるものとしています。

デ・ステイル・グループの立体作品の多くは、垂直線と水平線が交差しない層や平面で配置されており、それによって各要素が他の要素に妨げられることなく独立して存在することができることを意図しています。この特徴は、リートフェルトによる「レッド&ブルー・チェア」や「リートフェルト・シュレーダー・ハウス」に見ることができます。

赤と青の椅子、リートフェルト氏によるデザイン。色なしバージョン1919年、色ありバージョン1923年。
By Rainer Zenz - https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rietveld_chair_1b.jpg, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29638973
ユトレヒトのリートフェルト・シュレーダー邸、(1924年)
『デ・ステイル』の原則に従って完全に実現された唯一の建築物
By No machine-readable author provided. Steinbach assumed (based on copyright claims). - No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims)., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=746548

デ・ステイルは、キュビズム絵画や、数学者、M・H・J・シェーンマッカーズ(M. H. J. Schoenmaekers)の新プラトン哲学における神秘主義や「理想的」幾何学形態(「完全な直線」など)についての考え方に影響を受けていました。デ・ステイルの作品は、バウハウス様式や建築の国際様式、衣服やインテリアのデザインにも影響を与えることになります。

音楽では、デ・ステイルは、モンドリアンの親友である作曲家ヤコブ・ファン・ドムゼラー(Jakob van Domselaer)の作品にのみ影響を及ぼしています。1913年から1916年にかけて、ドムゼラー氏は主にモンドリアンの絵画に触発されて「芸術的様式の実験(Promeven van Stijlkunst)」を作曲しました。

このミニマルな音楽は、当時としては画期的なもので、「水平」と「垂直」の音楽要素を定義し、そのバランスをとることを目指したものでした。ドムゼラー氏は生前は比較的無名であり、デ・ステイルの中で重要な役割を果たすことはなかったようです。

『デ・ステイル』の歴史

初期の歴史

印象派の絵画に対する革命的な新認識に続く新しい芸術運動の中から、20世紀初頭に重要かつ影響力のある新しい方向性としてキュビズムが生まれました。オランダでも、この「新しい芸術」に対して関心が集まりはじめました。

しかし、第一次世界大戦でオランダは中立を保っていたため、1914年以降、オランダの芸術家たちは国外に出ることができず、当時の国際的な芸術の中心であったパリから孤立していました。

そのような中、テオ・ファン・ドースブルフ氏は、他の芸術家たちを探して雑誌を作り、芸術運動を始めます。作家、詩人、批評家でもあり、独立した芸術家としての活動よりも、芸術についての執筆活動で成功を収めていたテオ・ファン・ドースブルフ氏は、その華やかな性格と社交性から人脈作りに長けており、芸術界に多くの有益なコネクションを持っていました。

テオ・ファン・ドースブルフ《コンポジション VII (3つの恵み)》(1917年)
By Theo van Doesburg - kemperartmuseum.wustl.edu : Home : Info, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3696892


『デ・ステイル』設立

1915年頃、テオ・ファン・ドースブルフ氏は、やがて雑誌の創刊者となる芸術家たちと出会い始めます。彼が初めてピート・モンドリアン氏と出会ったのは、アムステルダムのステデライク美術館で開催された展覧会でした。1912年にパリに移住し、そこで「Mondriaan」から改名したモンドリアン(Mondrian)氏は、オランダを訪れていたときに戦争が勃発してしまいます。モンドリアン氏は、パリには戻れず、ラレン(Laren)の芸術家集団に滞在しました。そこでバート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck)と出会い、数学者のM・H・J・シェーンメーカーズ氏と定期的に会っていました。1915年、シェーンメカーズは『新しい世界像』(Het nieuwe wereldbeeld)を、1916年には『造形数学の原理』(Beginselen der beeldende wiskunde)を出版。この2つの出版物は、モンドリアンをはじめとするデ・ステイルのメンバーに大きな影響を与えることになりました。

1918年、メンバー全員が署名したマニフェストが発行されました。当時の社会・経済状況は、彼らの理論の重要なインスピレーション源となり、建築に関する彼らの考えは、ヘンドリック・ペトルス・ベルラーゲ(Hendrik Petrus Berlage)氏フランク・ロイド・ライト氏から大きな影響を受けていた。

1920年以降

1921年頃から、デ・ステイル・グループの性格が変化し始めます。ファン・ドースブルフ氏がバウハウスに参加した頃から、他からの影響も受け始めます。その影響とは、主にロシアのカジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich)ロシア構成主義でした。しかしメンバー全員がこれに同意したわけではありませんでした。

1924年、ファン・ドースブルフ氏が「水平・垂直の線よりも斜めの線が重要である」とする要素主義(elementarism)を提唱すると、モンドリアン氏はデ・ステイル・グループと決別します。一方でデ・ステイルは、多くの新しい「メンバー」を獲得していきます。

ファン・ドースブルフの死後

テオ・ファン・ドースブルフ(右)とコルネリス・ファン・エステレン(左)。パリのアトリエにて(1923年
By Anonymous(photographer) - Manfred Bock, Vincent van Rossem, Kees Somer. Cornelis van Eesteren, architect, urbanist [volume 1]. Rotterdam: NAi Publishers, Den Haag: EFL Stichting (ISBN 9072469623), p. 154., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4447355

1931年、ファン・ドースブルフ氏がスイスのダボスで死去。没年47。デ・ステイルは、ファン・ドースブルフ氏が中心的な役割を果たしていたため、彼の死後、グループは存続しませんでした。

建築への影響

デ・ステイルが建築に与えた影響は、その誕生から長い年月を経てもなお大きく、ミース・ファン・デル・ローエ氏はその思想のもっとも重要な提唱者の一人でした。1923年から1924年にかけてリートフェルト氏が設計した「リートフェルト・シュレーダー邸」は、デ・ステイルの原則に完全に従った唯一の建築物でした。チャールズ&レイ・イームズ夫妻によるイームズハウスや、ソフィー・タウバー・アルプ、ジャン・アルプ、ヴァン・ドエスブルクのデザインによるストラスブールのダンスホール「オーベット」の内装もその一例と考えられています。


デ・ステイルのメンバー

テオ・ファン・ドースブルフ

テオ・ファン・ドゥースブルフ『自画像』

テオ・ファン・ドゥースブルフ(Theo van Doesburg、1883–1931)は、オランダの画家、建築家、美術家。本名はChristiaan Emil Marie Küper。I・K・ボンセット(I. K. Bonset)、アルド・カミーニ(Aldo Camini)などの筆名も用いていました。

ピート・モンドリアン

ピート・モンドリアン(1922)
Anonymous (photographer) - De Stijl. [vol.] 2. 1921_1932. Complete Reprint 1968. Amsterdam: Athenaeum, Den Haag: Bert Bakker, Amsterdam: Polak & Van Gennep, 1968, p. 304., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5184523による

ピート・モンドリアン(Piet Mondrian、本名ピーテル・コルネーリス・モンドリアーン、Pieter Cornelis Mondriaan 、1872–1944)は、19世紀末から20世紀のオランダ出身の画家。ワシリー・カンディンスキー、カジミール・マレーヴィチらと並び、本格的な抽象絵画を描いた最初期の画家とされています。

ヘリット・リートフェルト

ヘリット・リートフェルト
By Oscar at Dutch Wikipedia, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1992886

ヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld、1888–1964年)は、20世紀オランダの建築家、デザイナー。

ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト

ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト
Anonymous (photographer) - Taverne, Ed, Cor Wagenaar, Martien de Vletter (eds.; 2001; ISBN 905662198X). J.J.P. Oud. Poëtisch functionalist, 1890-1963. Compleet werk. Rotterdam: NAi Uitgevers, p. 14., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4076093による

ヤコーブス・ヨハネス・ピーター・アウト、またはJ.J.P.アウト(Jacobus Johannes Pieter Oud, J.J.P Oud、1890–1963年)は、プルメレント出身のオランダの建築家。

ジョルジュ・ヴァントンゲルロー

ジョルジュ・ファントンゲルロー(Georges Vantongerloo; 1886年-1965年)ベルギーの抽象彫刻家、画家。「デ・ステイル」の共同創刊者のひとり。

ジョルジュ・ヴァントンゲルロー氏の作品(1919年)
「無題」(左)、「立体の均衡」(右)
Anonymous (photographer) - http://sdrc.lib.uiowa.edu/dada/Classique_Baroque/pages/033.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3472037による


フィルモス・フサール

フィルモス・フサール
匿名 - Holland's bankroet door dada. Documenten van een dadaïstische triomftocht door Nederland. Amsterdam: Ravijn, 1995 (ISBN 9072768418): p. 150., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3448732による

フィルモス・フサール(Vilmos Huszár、1884–1960年)は、ハンガリーの画家およびデザイナー。オランダで活動。

バート・ファン・デル・レック

バート・ファン・デル・レック氏
By J.D. Noske / Anefo; - Nationaal Archief, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30524823

バート・ファン・デル・レック(Bart van der Leck、1876−1958)
)(Bart van der Leck; 1876年-1958年)は、オランダの画家、デザイナー、陶芸家。

まとめ

第一次世界大戦のさなか、芸術の中心と隔絶されたオランダが、隔絶されたがゆえに独自に進化させた芸術思想が、『デ・ステイル』という運動に集約されていました。一番わかりやすいのがピート・モンドリアン氏の絵画であり、その単純な構成に反して、思想は「見えるものの本質を描こうとしてたどり着いた」ものでした。そういみでは、キュビスムと近いものがあります。しかし現代からするとこの見せるものの構成要素を因数分解していった結果である単純化(シンプル化)が、ディック・ブルーナ氏のミッフィーの誕生の背景にあるというのは驚きだったりします。デ・ステイルは、時代的にもロシアの構成主義、抽象絵画、バウハウス、モダン建築などに関わり、影響を及ぼし合う関係になります。

このあたりの芸術を調べていくとかならず「デ・ステイル」という言葉ができてきますので、その実態がなんだったのかということをなんとなくでも知っておくと理解がとてもスムーズになります。またおもしろいのは、単純化された表現の背後に試行錯誤や思想がある場合がある、という好例でもあることです。だれでも描けそうな絵の背後にあるものを知ることは、もしかしたら、「背後になにかあるかも」という好奇心を常駐させることになるかもしれません。


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参照

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