何も知らない

僕が昔入っていたサークルのブログで書いた文章です。
僕なりに気に入っているので再掲します。
丁度M-1が開催されたのにも乗っかっています。

 最近、いっちょ世界的名著でも買ったるかな、という気持ちで手に取ったカフカの「変身」を読みました。終始マジで意味わかんねかったんですけど、克明な風景描写と根底に流れる深い絶望をほのかに香らせる素晴らしい文章、選りすぐりの日本語が織りなす翻訳のお陰でめちゃんこ面白く、一晩で読み切ってしまいました。おかげで僕の生活リズムはメチャクチャです。

 この作品に対する解釈は世界中のクソ頭いい人たちがいくらでも発表してるんだろうと思いますが、それらには目を通さないことにしました。僕自身が読んで僕自身が感じたものを、そのままにして保存しておきたかったからです。

 小説の解釈に正解なんてものはありません。それは作者だけが知っている秘密です(カフカがその正解をはっきりと抱えていたのかどうかは知る由もありませんが)。そして、正解のない疑問というのは往々にして人生に多少の彩りを与えてくれるのかな、と思います。また、正解のある問いであってもあえてその正解を知らないままでいる、という選択もまた生きるにあたって大切なことだと思います。

 僕は21年生きてきて、スポンジのやわらけえ面とちょっと硬い面のどっちで食器を洗うのが正しいのかがわかりません。その時々の直感を信じて気ままにゴシゴシしています。少し調べれば正解のわかることなのだろうと思いますが、それを知ってしまったら僕の食器洗いからは選択肢が一つ失われることになります。それはとても堪え難いことのように感じるのです。

 オズワルドという漫才コンビが好きです。M-1に3年連続で出てるので知ってる人が多いと思うんですが、彼らが漫才の締めに何を言ってるのかを僕は知りません。「〜〜〜もらいます。」と言ってるのは聞き取れるのですが、結構ボソリと静かに言っているので、一体何をもらっているのかが僕の大音量イヤホンによってスクラップにされちまった耳ではさっぱり聞き取れないのです。
しかし、それを知らないことによって、彼らの漫才を見る度に「今度こそは締めの台詞をハッキリと言ってくれるやもしれん」という希望が生じています。あるいは、その希望のために僕はあえてオズワルドの締めの言葉を知覚しようとしないのかもしれません。何にせよ、僕がオズワルドの漫才の締めを知らないと言う事実は僕に生きる目的を一つ与えてくれているのです。

 どうか、僕にスポンジの使い方を教えないでください。オズワルドのご両人は締めの際ずっと小声でいてください。それらの取るに足らないような小さい謎は、僕が一生をかけて解き明かすための謎なのです。

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