家族も人間関係も仕事も、望むもの×距離感の、グラデーション。
先日、息子と山形の古民家へ、夏休み旅行に行ってきました。
大学の時の同期とその子供たち、総勢5家族で。
虫を捕ったり、家の中を走り回ったり、プールに入ったり、友達の農家のトマトをとってみんなで食べたり、家の中を走り回ったり、家の中をやはり走り回ったり、ツリーハウスにのぼったり、五右衛門風呂にはいったり、家の中をもうずっと走り回ったり…
何にもないが、何でもある。
そんな時間。
すごく楽しかったです。楽しくて温かい時間。
旧知の仲の友人と、その子供達と、時間の流れを共有しながら、昔話をしたり。なんてありがたいんだろうと思いました。
同時に感じたのが、「いいんだけど、なんか疲れるなぁ…」という感情。(ひどいw)
当たり前といえば当たり前で。子供達がいるのでそれを軸として四六時中みんなで一緒にいて。旧知とはいえ、数年ぶりの再会だし、普段のライフスタイルもバラバラ。
それらがギュギュッと一緒に濃い時間を過ごすわけですから、楽しいこといい事はあるけど、それぞれの差=違和感は発生して当然です。
人間も感情を持った動物であり物質。それらが合わさるという場。
それは、化学反応が起きるときにどうしても発生する、余剰物資みたいなものかもしれません。
わたしがこの感情を捉えたとき、最初はそれに蓋をしていました。
「楽しくてすてきな貴重な時間なのに、そんなことを感じるなんて失礼だ。」
「そんなことを感じるわたしはなんて失礼なんだ。」
感じることは、それを認めること、
そう思っていたのか、真っ先にとった蓋をするという意識。
でもよく考えると、そんな違和感を感じるなんていうのは普通のことで。
他者と一緒にいるとある程度疲れますよ。
というなんとも当たり前なこと。
でもそれを認識できてなかったのは、
「一緒にいるひととは、いついかなるときも、100パーセント、ハッピーでなくてはならない。」
そんなゼロイチな思考が実はわたしの根にあったのだな、ということでした。
そして同時にわかったことが、
「仲良くいる、ということを目的にしていて、わたしが彼ら彼女らに求めていて、同時に与えられていた価値そのものを、きちんと認識できていない。」
その瞬間に、「なんか疲れる…」と思っていたということに。
みんなと一緒に過ごすことで、
普段味わえない体験をし、子供達と交流でき、過去を肴にお酒を遅くまで飲んだり、
これらの価値を享受していました。
でも、
みんなにペースをあわせたり、様子を伺ったり、それでもタイミングがズレてしまったり、
与えられている価値を味わずに、関係性、状態を保つことに注力しているとき、疲れるのだ、と。
これはおそらく、このテンポラリーな「友人たちとの夏休み旅行」だけの話ではなくて、
仕事でも、家族でも、多くの人間関係において、
その人と過ごす瞬間の価値を享受せずに、関係性を保つことにエネルギーを注ぐと、おそらく「疲れて」しまうのだろうな、と。
そして、なぜ関係性を保つことにエネルギーを注いでしまうかというと、
その仕事で、その家族との時間で、その人とすごすことで得られる「わたしが味わいたいこと」「わたしが望んでいること」それを忘れてしまっているときだ、と、そう気づきました。
自分が望むもの、そしてその価値が認識できれば、
おそらく「時間」は重要でないことにすぐに気付くはずです。
また、同じように「距離感」も多様に存在するということに。
働き方改革や、ダイバーシティ、家族の多様性。
どれもこれからますます「枠」を超えて繋がり、それはつまり個人がよりベースになるということだと思うのですが、
どんなときでもそこに存在するのは「人間関係」。
そのときにきっと、
家族も人間関係も仕事も、望むもの×距離感の、グラデーション
で個人が捉えることが、これからの多様性社会でキーになるんではないかな
とそんなことを思いました。
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