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文系理系問題について考えてみた

YouTubeのRe:Hack」の慶応大学塾長の伊藤公平さんと成田さん、ひろゆきさんとの対談番組の中で、文系要らないかもね問題にインスピレーション。

文系か理系か問題について私なりに考えてみました。

文系要らない論が少し前にありました。その後、文系要らない論はどうなったかは分かりません。日本の大学について、東大は理系が8割、慶応、早稲田は文系が7割なのだそうです。番組の中でひろゆきさんが、文系の人の「~思います」についてアバウトすぎはしないかというニュアンスの指摘。なるほど、そうだなぁ、文系の人って主観で話してる?と思いました。
「思います」の中には、「他のデータや情報ではどうなってるか知らんけど」の前置きがあるんだと。言論の自由のもとの当然な発言ですが、精緻度、データドリブンという点では主観で悪く言えばいい加減だということになるんでしょう。

じゃあ、文系は要らんかと言えばそうではないと思います。(でた、思います!!)なぜなら、理系の人であっても、最先端の物事を考えなければならない直面に遭遇した時は、〇〇じゃないだろうか、〇〇だと思うんだけど、などに代表される主観で考える必要があるからです。

必要部分を生み出すのが文系の感性


必要は発明の母とありますが、必要部分を生み出すのが文系の感性だと思うんです。必要とは、

人間のDNAに蓄積された危機管理能力、古来から生存競争に打ち克ってきた能力など① + 想像力

の想像力部分なので、一概に文系アカン系となるのはいかがなものかと。

一方で、ある特定の研究課題について限定するならば、①の部分はある特定の研究課題の実験結果の累積となりますので、理系の方がその知識の専門性を有するので、それに基づいた想像力を発揮できるので当然、決められた分野の発展に関する想像力は文系の人より有利となるんでしょう。

じゃあ、同じ結果を文系の人も知った上なら(土俵を同じにしたのなら)想像力の部分はどちらが有利なんでしょうか?

「何についての想像力」の問題


それは、「何についての想像力」の問題になっていくと思われます。
その「何」の部分が、やはり①の研究課題の延長線上の話題なら理系が当然有利になります。なぜなら、①の研究課題を解いて来たからです。ここに、問題の答えよりも、問題作りの方が重要という最近の教育にも関連してきます。

簡単に言えば、プリンという結果があります。プリンの作り方を知っているとは、プリンをつくれるとなります。で、「何」の部分は、プリンという結果(①)に対して、「同じ材料でプリンでない何か別のお菓子をつくる」となれば、プリンの材料についての性質を知っているほうが有利となります。プリンしか知らないとなれば、次のお菓子について、プリンそのものを使ってフライパンで焼いてみたり、プリンを崩してシェイクにしてみたり、クレープに乗せてホイップいちごも載せてみたりします。

つまり、①の研究課題の結果を文系にも与えられたとすれば、研究課程を知らない文系の場合、結果を使って別のことをする、つまりリユース、リサイクル的な発想になります。これは何を表しているのかと言いますと、今ある資源を使った有効な社会問題の解決が文系にはできるとなります。もちろん理系にもできます。同じ結果を知っているのですから。

一方、お菓子作りの話に戻しますと、作り方を知っている場合、他のお菓子という課題が与えられた場合、素材を使って別の調理をした結果、プリンとはかけ離れた別のお菓子を作ることも可能になります。例えば、卵、砂糖、牛乳を使っているので、ここにバター、小麦粉をプラスすればケーキ、クッキー、生クリームならババロアをつくれます。

つまり、新しい何かを創る場合、理系の方が過去の領域と素材も想像範囲に取り込むことができる利点があります。

一方、誰も経験したことのない未踏の分野という新しい課題が与えられた場合、つまり、①の研究結果とは直接的に結びつかない問題解決が必要になったとき、理系の人も文系の人も、問題解決のための別のヒントが同じだけ与えられたとしたらどうでしょうか。

文系の方がより人間ファーストな考え方を生み出せることもある?


1つのことを突き詰めるべく深い知識をもった理系の人と、あらゆる領域の要点を本などで知っている文系の人がいたとしたら。前人未踏の課題については、文系の方がより人間ファーストな考え方を生み出せるかもしれません。

想像力に優劣はない?


文系不要論は、解決すべき課題が、研究結果の延長線上にある場合であるのみだけで、今回のウクライナ攻撃問題のように、前人未踏的な解決については、理系であっても文系であっても総合的な想像力に優劣はないと思います。

理系、文系を超えた部分


もう少し簡単にすると、ああしたらいい、こうしたらいいというのは、直観が働きます。その「ああ」「こう」の部分について、どうやったら「ああ」になるか、どう取り組めば(研究すれば)「こう」になるかの「どうやったら」「どう」の部分が理系にしかできない部分だと思います。
言い換えれば、「ああ」「こう」の直観の部分は、その人の知識、経験、人類ファーストなどを総動員した考えをもとにした直観であり、そこには理系、文系を超えた部分であるとなり、そこは、文系でも理系でも歓迎となる部分だと思います。

相互補完で問題解決を試みるべき


さらにはの例えなら、文章を書いた時、文章そのものが理系であるならば、文系は文と文の間、つまり理系では補えない部分、つなぎ、潤滑油的なところ、さらには助詞、助動詞的な役割、方向性の決定権みたいな部分が文系にしか出来ない部分となるのなら、相互補完で問題解決を試みるべきではないだろうか。


理系:文明を大きく前に進めてくれる頼もしいヒーロー

一方、理系による①の部分、既存データ、古来からの文明の飛躍部分、つまり積み木部分がなければ、塔はたたないので、やはり二者択一となれば礎を築く理系が文明を大きく前に進めてくれる頼もしいヒーローとも言えます。
昔から〇〇学は理系科目はマストでしたし。

決断スピード:文系の方が当然早い!?


一方、視点を変えると、決断力のスピードという点では文系の方が当然早いと言えます。理系は確固たる裏付けがなければ進まないからです。一方、想像力で分かる範囲の暗黙知があるので、そんなのいちいち証明せんでもいいやんって文系は進めることができますので、仮説・検証のニーズが必要十二分に必要だと判断しない部分については、当然の様に進めていけます。

信憑性は理系にはかなわない


一方、信憑性は理系にはかないません。例えば、計算機では間違えはあってはいけませんが、今は瞬時に膨大な計算をいとも簡単にしてくれる時代です。つまり、理系の人は理系のコンピューターに追いつけない状況でもあります。コンピューターからみたら、人間はみんな文系でしょってなるからです。

理系の人には文系ならではの想像力・妄想力、文系の人には理系の理論的思考も必要


人間の範囲でみると理系と文系の分け方はしかりですが、これからはコンピュータとの協業・発展を考えていかなければならないので、理系の人には文系ならではの想像力・妄想力、文系の人には理系の理論的思考も必要になる時代になっているんだと。

何のために意思決定するのかの部分は、理系的思考だけでは分からない


組み合わせの選択について、何のために意思決定するのかの部分は、理系的思考だけでは分からないとなりますし、文系的思考だけでは展開の飛躍に欠けてしまうのではないか、それならどちらも取り入れるべきだと。

文系的思考をもった理系になれるか?

ベストなのはきっと、理系と文系を兼ね備えた場合となりますので、一般的に理系的経営者は鬼に金棒となります。では、文系的経営者はどうかと言いますと、いくつか問題があります。

・経営者になるには理系的思考も必要なので、そもそも文系的経営者、文系出身の経営者という概念がピンとこない
・計算こそできない、でも理系的思考のある文系の人もいる

つまり、絶対的評価だと文系の経営者でも何の問題もないとなりますが、企業競争となり、事業が拡大した場合、二者択一(理系経営者か文系経営者か)となった場合の問題だとわかります。

そうなると、理系経営者(理系思考が文系思考よりも大きな割合を占めている経営者)のほうがより深い部分まで考えられます、つまりY軸ですね。検証部分もきっちり分かっておきたいタイプです。何なら専門家よりも詳しい経営者もいらっしゃるそうです。身近な例ですと、今回のRE:Hackの慶応大学塾長の伊藤公平さん、成田さんは文系的要素も兼ね備えた理系出身の経営者となります。あれ、ひろゆきさん、ひろゆきさん!!こそ理系ご出身の経営者でしたね!!あまりにも文系感、感性に響く内容ご発言が多いので、ついつい文系かと。ぐるんぐるん、理系脳と文系脳を使い分けておられる(感嘆)。乙武さんと初めての天野川?でのご遭遇のとき、乙武さんの車椅子があまりにも自動運転で速かったので、おもわずダッシュして追いかけたという微笑ましいエピソードをお持ちのひろゆきさん、ひろゆきさ~ん、もし私がそのひろゆきさんを目撃していたら、追いかけていたでしょう(爆笑:妄想入りすぎました)。それくらい少年の様な心をお持ちなんだとまるっと

カコーン(なぜか甲子園のナイター時の夜空)

戻ってきました。

わー!!ひろゆきさん、文系であらしたのですね!!文系問題をご提起されておられたので、つい理系かと思っておりました。そう言えば、ひろゆきさんはひろゆきさんのコメントの中で、自分野こと(ひろゆきさんのことについて)はどうだっていい、ただコメントすべき対象のことについてだけに一生懸命になって話しているだけだ的内容を聞いたことがあります。ついつい自分がまず大事で自分ファーストで発言とかしがちになりますが、そういう考えがない方なんだなと。そして、今回の文系か理系かについての課題提供についても、ご自身が文系にもかかわらず、文系ってどうなの?的に話題提供をされているところが凄いってなりました。

もうお分かりだと思いますが、理系的考え方が出来る人以外の人、いわゆる文系の場合ですね、理論的思考よりも経験などの直観を重視する経営者の場合は不利かというとひろゆきさんの様な敏腕経営者もおられることからも分かりますように、必ずしも不利でもありません。なぜなら、自分が経営術を身に付けることのほか、そうできなくても理系の人に理系的思考部分つまりブレインとなり協力してもらえばいいからです。そうなると、頂点は文系、支えるのが理系という、一般的に理系>文系の構図がひっくりかえりますので、補填関係つまり、協業、協力こそ重要となるんじゃないかと。

さらには、ヒットするか否かの問題となれば、理系よりも感性に敏感な理系でない人のほうが的中することも。もちろん、理系でもその要素を備えた方もおられるでしょうけれど。

感性=文系的思考!?


文系的思考とは、感性の部分でもあります。誰でも持ち合わせている部分ではありますが、その部分が必要をつくる重要部分でもあるんだなと。言い換えますと、ニーズだったり不平不満部分だったり。

生み出された商品の評価をする人はその機器をつくれない人達


例えば、IOTをつくれるのは理系でしかなく、でもその生み出された商品の評価をする人はその機器をつくれない理系もいれば、理系よりも多い文系な人達によって決まっていきます。
超合理的経済的な言い方でたとえてみると、理系の大学・大学院を出ても、IOT機器をつくれない人は理系ではないということになってしまうのです。それだけ文系いらない論では、文系を理系でない人としての要素が強いと思うのです。
その逆もしかりで、文系だけどIOT機器をつくれた人は学生の頃は文系だったけど、文系の枠を超えたとなりますので理系な人の位置づけになるんですよね。なので、学生時代の理系、文系は将来的に理系な人になるための一時的な分類であり指標であり確実性であるという認識が必要だと思いました。

文系のふりした理系の人もいると思うし、理系のふりした実は文系


更には、そもそも文系か理系かなんて、その人が実は左利きだったみたいな感じで、誰にも分からないんじゃないかなとも。文系のふりした理系の人もいると思うし、理系のふりした実は文系だったみたいな事もあると思います。理系、文系を決めるのは小中高時代ですから。人生150年時代、途中でギアチェンジするのも全く変でもないでしょうと。女性のIT人材を増やすについて、女性の理系を増やすと同じで、文系理系問題は、女性男性問題とも大いに関連した問題だと思いました。理系の方が社会貢献度も高いし、可能性もある、でもだからといって、文系が理系よりも劣っているのかについては全くナンセンスだと。

イメージはこんな感じです。
理系体験で応用できる人は少数、それ以外は文系と呼ぶ傾向がある。
理系は文系を満たすが、文系部分の領域の人が担う思考・知識についてその専門家には及ばない。
文系部分の中に理系がある。
社会課題は理系部分の範囲だけでは解決できない。
課題部分で問題発見できる能力は理系だけではない。

などから、文系も理系も切磋琢磨していく必要があると。

実は理系だったってこともある?


理系文系問題に戻しましょう。これは単なる一例ですが、団塊の世代以前の場合、その傾向が特にないでしょうか。現代は文系、理系とはっきりわかりやすく選べる授業展開がありますが、昔は勉強する機会すらなく、女性は家事、習い事で花嫁修業がメインでした。今でいう理系が実は花嫁修業だったり、女性の社会進出が謳歌される前の世代の方だったりすることもあるんだと。

文系理系問題は男女問題にもつながる

理系学習は男性には向いている、それ以外は女性の方が向いているという傾向はマジョリティな考え方です。これからは、マイノリティの〇〇だけれど△△の部分、つまり女性だけど理系、男性だけど文系、理系だと思っていたけど文系、文系だと思っていたけど理系などの部分から、既成概念を変革していく視点も養う必要性があると感じ入りました。

文系も理系に繋がっていて、どう繋げていくかを考えた方がいい


もしくは、理系で扱う科目が嫌い、出来ない場合を文系としてしまう傾向があるのなら、文系についてもう少し深堀して考えていくこと、つまり、文系を切り離すのではなく、文系も理系に繋がっていて、どう繋げていくかを考えた方がいい気もしました。

さらにこんな考え方は?

文学的だねとか、文学が大好きということはよくあります。文学を芸術と考えた場合、理系と比しようがないということになります。そして、数学も文字だと思ったとき、文系になります。そうなると、最終的には文系で囲われることになり、その中で理系と芸術と考えた時の文系がでてくるので、人間ベースで考えた時、どちらも必要となるのではないかと。

5月5日迄「デジタル庁アイデアボックス」ご意見大募集中!!

デジタル庁では「声を届ける」プロジェクトとして、「デジタル庁アイデアボックス」を開催中です!!

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【1】誰一人取り残されないデジタル社会の実現について 

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最近のデジタル化で思うところございましたら、どしどしのご意見お待ちしております!!

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(デジタル庁ウェブサイト)
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そして、デジタル庁アイデアボックス」プラットフォーム、現在無償提供中です。アイデア、コメント、投稿機能がございますので、会議、期間を設定したプロジェクトの進行ツールとして、現在まで省庁、自治体、企業、機関様にご利用いただいてまいりました。気になると思われたり、ご興味関心がございましたら、こちらまでご連絡いただければ、デモも随時開催中です。


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株式会社自動処理のお取引先一覧

採用実績:福井県、千葉市、三重県、高松市、内閣官房、Code for Japan、内閣府、陸別町、伊根町、鶴ヶ島市、経済産業省、国土交通省、文部科学省様


文系が必ずしも不要ではないと思いながら、今日こそ伸びきった草引きせねばと焦りだしています。

ついでにね、伸びきった雑草引き関連で、コンクリートからチョロチョロ伸びきった草引きについては、やかんに熱湯をわかして、それをチョロチョロかけるだけで枯れてくれます。この方法は化学薬品を使わないので、ワンちゃんやネコのお散歩道にとって安全なので気に入っています。

それでは、今日も最後までのご拝読、ありがとうございました!!


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