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夢のまた夢で無いで書🌠メリット書いてみた「AGREE ベーシックインカム」

こんにちは。

年齢による線引きも多様性に関係していて、健康寿命が延びればどこからが中高年なの?のイメージもきっと変わってくるんだろう。
年齢関係ないから出来るよねというより、年齢関係ないからどうぞ的になれば働きたい人は制限なく働けて、活動できて、取り組めてで。
効率性だけ重視すればそれ体力のある方大歓迎より若い方へwelcomeとなるんだろう、けれど、多様性広げてけばきっとTPOによってより効率、効果、モチベーション、融合などあり矢印的いうより雪だるま式で転がるような幸福度波及効果みたいなのあるんじゃないかと。

ひろゆきさん言わくのyoutube、一定の生活に必要な資金が個人で調達出来れば、そこからは働く為だけに使わなければならなかったいわゆる仕事だけに費やしていた時間を、仕事だけに費やすこともできるし、スキルUPにも繋げることもできますし、働くを制限するものでは決してないねと。

結果的に意欲、モチベみたいなものが増えることになるわけですよね。
好きな趣味に使えば、そこからまた収益を生み出す小さなミニマムスタートアップみたくな実験にも多くの人が取り組めるわけで、生活費が先でしょがない世界、生活費が保障される世界なんてユートピアと思う。
けれどベーシックインカムはそんな夢のような話を実現してくれるゴール。

AIか今ある財源か?


どんな形で財源の調達が進められるのかの案アイデアあるのかは存じ上げません知りませんが思ったのは、今の財源もしくはAIによる収益です。AIだけで収益を得られる時代になるのが先か、ある財源を効果的に循環させ経済格差に係る社会問題を一気にある程度解決していくかになります。

ベーシックインカム時代はDX時代の次?



ベーシックインカムは受け取ってもさらに働くことができるので、今よりもさらに隙間時間を効率的に使った働き方が出来るように大々的にシステム化していく必要もあります。

完全に自動化だけで収益化出来ないとダメというのではなく、実証実験しながらどの部分が問題点かがわかることで、その部分に関するAIシステム開発づくりを追加、補填、新規していくこともできるのではないかと。

あらゆる働くが自動化され、人でなくAIだけで企業収益や生活ができるようになるまでベーシックインカムはお預けとなるのでしょうか。それだと、それに到着するまでどれだけの人が、AIと労働力の交換、過渡期にあぶれてしまうのでしょう。

人からAIへの可能性における未開拓領域って?



第4次産業革命の入口にいる今、まだ高度経済成長期の名残ありで人が会社の収益を生むのシステムのまま続くとは思いますが、いつかは人にとってかわるAIが、AIと少しの人だけで会社の収益を生むスタイルが主流になる日もくるんだろうか。

ところで、いつまでに今開発されたり想定されているAIがすべて稼働するのがいつ何時なのでしょうか。自動運転の場合、ここ数年でというのを聞いたの思い出しました。今は人の生活を豊かにしてくれるAIで、人という労働力を軽減するという事象は今はまだ結果論で、完全にAIが人に変わって労働力となり、AIと一緒に働く人は超少ないとなるようなAIシステムが目的開発されるのはこれからなんだろう。

完全デジタル化までの移行期における問題



今デジタルネイティブになろうとしている赤ちゃん世代はいいとして、過渡期にある人が取り残されないための施策が必要なのではないでしょうか。それは独身を望む若者が意外に増えているだったり、少子化にも反映されているところあるように思えました。そして、外国では仕事を変えることについて日本ほど抵抗はないそうですが、日本だと点々としていると言われるように、点々とした場合トータルで成長していても、その繋ぎをマイナスに捉えられる風潮がまだ強いように思います。即戦力となる部分をAIが担える時代になれば、それはそのAIを扱える人とAIの労働力でいいわけですから、それ以外の人は要らないとなります。
そうなるとどうなるのかと思います。導入成功企業側からみたら人件費が安くなっていいね、投資額は数年かけたら回収できるからとなります。もし、ベーシックインカム制度があればその労働時間を有意義に使えるとなりますね。twitterの解雇ニュース、不本意にもとれる強制的な解雇はこれから増えてくるとすれば、日本にも波及してくるわけで、そんな時にベーシックインカム制度があれば捉え方も変わるんだろうなと。そして、これから日本でそうなった時、ベーシックインカム制度がないと悪手も打てません。


景気後退・デフレ・企業全盛時代の衰退のしわよせはどこへ?


今も昔もかわらず、一度企業を退職したのなら、相当なことでない限り難しい再就職はの流れはあります。もちろん一概には言えませんが、例えば何か個人的な理由でそうなった場合、年齢問題もあったりで復帰というかそれ以上のスペックを求めることに対して難しさがあるのではないでしょうか。

団塊の世代の恩恵を受けている今の世代そしてその次の世代が直面する課題


戦後の復興期そしてバブル期と団塊の世代が日本の好景気を作り、今は衰退期とも言われつつありますが、まだ定年雇用制度が崩壊していない会社で働けている今の世代は、ある意味団塊の世代の恩恵を受けていることにはなると言えます。

今後継続的に賃金は下がることが言及されていました。景気は良くなっているのに賃金が上がらない、これは内部留保が問題になっていたりするそうで、働く人に収益が十分分配されていないことがうかがえます。


日本においては、雇用制度を抜本的に変えて雇用の流動性を高めない限り、今後も継続して賃金が下がる可能性が高いのだ。
若いビジネスパーソンにとっては、逃げ切りにも見える中高年社員に対しては複雑な感情だろうが、とりあえず雇用だけは保障されている点において、若い世代も日本型雇用慣行の恩恵を受けている。

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2104/13/news038_3.html



「新卒から定年退職まで」は当たり前の確約ではなくなっている現代



希望退職を募る大手企業があったり、最近ではtwitterの解雇ニュースなど会社は会社都合で定年までの雇用契約をきる時代になっています。
会社都合的な解雇を余儀なくされるにもかかわらず、子どもの皆さん青春時代もその企業に入るために学び続けている実情があります。
勉強しても成功しないことと、日本の素晴らしい教育とは別物です。
その目的がやっぱりいい大学に入学する事しか残されていなくて、それはいいシステムなのですが、その目的がいい人材を育てるつまり企業戦士ガンダムを育て上げる理由だけで、そこには学ぶ実感よりも受験戦争に対する時間の枠を超えた勉強量によって素晴らしい教育システムさえ良くないシステムだと思いがちになり、人生紆余曲折あってそう言えば、結果的に学んでいてよかったよねの恩恵を受けていることもあります。

・いい大学に入学できた人すべての人にいい会社がエスカレーターや昔のような定年雇用制度について、昔の全盛時代よりも難しくなっていること
・twitterの如く不本意な解雇的リスクを超えた幼少青年期時代の受験勉強への取り組みにおいて充実を感じられない場合

それでも投資する価値あるの?と思い迷いながら学ぶこと、子育てすることへの不安感は大きくはないでしょうか。昔なら、希望の大学、希望の会社に入社出来た地点で、これでもう安心だと言われたのではないでしょうか。
でも今はどうでしょうか、これからが大変だねとなっていないでしょうか。

これは何を意味しているかといいますと、取り組みは永遠に続く、つまり不安は永遠に尽きないということにつながりはしないかと。そして何かの拍子に崩れて退社となった時、維持できるシステムにあるだろうかの疑問。

別にそんなのどっちでも構わない、取り組むことに意義があるとなればそうですねとなりますが。

「定年雇用の保障ない」が当たり前はいつから?

いつ解雇されるか分かりまてんの企業へ入社したものの何かしらで退職、無職になった場合、定年雇用までを目的にしてきた人にとれば、何のためにとなりかねません。

それは当然で人間は🤖ではないので、いつどう自分に変化が訪れるかは予測できないからです。それは昔もそうだったよと言われればそうなのですが、その傾向つまり会社都合で社員はどうなるか分かりません的な部分についてここ数年から数十年くらいでより強くなってきているにもかかわらず国は高見の見物的ではないかの疑問を持ちました。
健康診断で血液検査とかの決定的な異常がないから主訴としてはあるし傾向としてはあるなと思いつつ、まだ治療に入れないから、患者側に治癒を求めるのとは違い、決定的に悪くなると予測できるのに何の治療もほどこさないみたいな感さえあります。


これからはAIと少しの人だけが必要な時代なの?

これからはAIと少しの人だけが必要な時代になるというのなら、そこにならない人はこのままでは青春時代を無駄に過ごすとなりかねません。ここで問題視しているのは、そう思わざるおえないという事なぜそう思えないのか、それは大企業や優良企業への就職神格化論が前提にあり、それに漏れたと考えるからではないでしょうか。そう思わないですむのなら、学べや学ぼ、山登ろうってなりますから。そしてそこへ至までの経済的な問題もあります。


昔よりも働くが厳しくなっていないだろうか


定年まで保障は無いかもね、でも頑張ろうね。そういうスタンスだと、これから自営業者やフリーランスの方がお得、とにかく会社員は損な風潮になってはいくことはますます強くならないでしょうか。こちらでも年収低下で会社員としてだけでは難しいと言及されていました。

もはや節約だけでカバーできる状況ではなく、年収の絶対値を増やさなければ、今の生活水準は維持できない。スキルアップに成功し、年収が上がっている一部のビジネスパーソンを除き、副業への取り組みはもはや必須になったと考えるべきだろう。

https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2104/13/news038_4.html


定年雇用制度崩壊による悪影響~個人の責任の部分大きくない?


大企業神話、会社員神話にもなりかねない副業のススメや、フリーランスへのススメ的な思想が若者からお年寄りまで普通になってはいますが、実は景気いいけど儲からないが続けば結果的にをフリーランスや事業主という形で個人の責任にシフトしてないでしょうか。賃金減っていきますね、フリーランスや副業始まりましたね、儲かりませんねそれは実力がないからデショ的になっていないかと。

名ばかりフリーランスといわゆるフリーランスは雲泥の差

フリーランスで最頻値は100万後半から300万くらいが最も多く、1000万円プレーヤーレベル付近の額(500万以上?)はまだまだ少ない職種に限られている気がします。

同じ人数の会社員とフリーランスを比較した場合、年収は会社員の方が多く、生涯収入も計算可能、社会保障制度も充実なのに対し、フリーランスは自営業者と同じく雇用が保証されていないので不安定、これからも国の景気に大きく左右されがち、つまり収入が得にくい状況になりやすいことになります。

さらに低収入の区間にいる場合、それはフリーランスというよりフリーター的で、サイト登録などでの職業選択欄でも無職しかないフリーランスは不安定な働き方にもかかわらず、収入があるというところで無職よりはいいというメリットを受けている程度な場合もあります。そして、本当はフリータ―的働き方なんだけど、世間体もあるのでフリーランスと言っておくことが知らぬ間に板についてしまっていて、それがはずせないとなることも。

さらに言えば、フリーランスという響きがいいことは、名ばかりフリーランスにとってはけっこう離し難い働き方というか職種でもあるのです。

何かあった時悪影響を受けるのは名ばかりフリーランスという働き方でもある



これからもし何か大地震や第二第三のコロナ的なことがあれば、これからどんどん増えていくであろうフリーランスという目的としては素晴らしいは働き方が裏目にでてしまい、一番打撃を受けやすくなる職種にもなります。それは個人事業主でも同じ、副業も同じとなるのでしょう。

悪いことばかりじゃないのも名ばかりフリーランス



目的として素晴らしい働き方についてそう思うのは、低年収になったとしても、そういう働き方を可能にしている人について、好きな事を見つけられたので複数の仕事を掛け持ちの働き方が出来ているつまりはその仕事は仕事ではなく、取り組みなのであって、それ故に心が豊かになり、心豊かな人が生まれる、そうでなければ難しいとも言えるとは思いますが。そういう仕事を取組みにさえ変えてしまえる働き方という面でそう思ったからです。ただし、収益を考えさえしなければということになります。

名ばかりフリーランスという微妙な働き方


一方好きな事もないけれど必要だから低賃金でも受けなければならないの過酷な理由の場合もあります。

「好きで働けないお金追求型はもう古い」の段階にまでいかない働き手は放置されていないだろうか

そもそも好きな事で働けている人なんているのでしょうか、必要だからこれ頑張ろう的になるのがほぼな感じで、だったら働く時間を少なくしたいよねとなります。そうなると賃金が減るので本末転倒になり、働くとはそういうものだという固定概念はいつまでも変わらず、それは続けられない人にとって、その人が生きにくい社会にもなっています。

そしてその考え方はもう古いという考え方も実際には広まっています。お金にこだわっていては窮屈だよね、人生はお金だけじゃないよねと。それは一定の生活に必要な資金が調達出来ている人だけが言えることではないでしょうか。

会社に頼らないでほしい、個人で働くをインスパイアと半ば国が強要的国会での演説場面も見受けられます。株価でいえばいわゆるジリ貧状況で、その先を個人の裁量任せにしているイメージです。

賃金対策しないままさらには会社以外の働き方を全面的に推奨する事への疑問~個人の努力だけに焦点が当てられ過ぎてはいない?


好きな仕事を選ぶことはできていても、どれだけの人が安定して未来に希望が持てていると思って働けているのでしょうか。個人の努力だけに焦点が当てられ過ぎてはいないでしょうか。

大企業なら優遇措置がありますが、個人でフリーランスや個人経営者の場合、単なる放置、収益となるのも同志、働き手側だけに大いにお任せでその結果、実は昔で言うフリーター?になっていても不思議でもありません。

さらには今後AIが労働市場の主な働き手となることになれば、より限定されます。今、中高年さらにはまだまだこれからの20代後半でさえ、時代にシフトしていくことについて、ある意味会社員以外の働き方で両立していくことに抵抗を感じる事が多くなりはしないでしょうか。

ベーシックインカムは多くの問題を解決する?



一方ですね、それでもフリーターよりもまだ働けている、さらにはリモートでとなれば、それはドラえもんの机の引き出しに入るくらい画期的なことではあります。でもねというところなんです。実際は会社員よりも大変なことも多いというのもあります。そんな時働けなくなった時にあったらいいなと思うのが、もしベーシックインカムがあればそれは賃金と同じになります。

「好き」は最強で最高のモチベーションを人に与える


楽したいから働かないは論外として、ライフの充実、1日8時間も働けない事情を加味した公平性という視点の時、本来働くことは楽しいはずなのに、働く事が辛いと思う現状の理由は様々ありますが、好きな事が見つけられた場合つまり何かしらの目的や目標がみつけられればきっと働くことが労働ではなく目的達成のための活動の1つとなると思います。

労働市場が男性がメインの団塊の世代

一方、働きづめでは好きな事すら見つけられる時間、休息がなく考えたり実感したりすること自体難しく余裕のないいつも追われる感があり休めないため慢性疲労になりがちです。そしてそれを実践されてきたのが団塊の世代でした。

女性にとって窮屈とも言える家制度


我慢我慢の連続でその名残は家族にも波及しがちです。一方、収入をもたらす一家の主を支える日本の家制度、一家の主を支える役割が仕事だと言われている女性に忍耐を強要するスタイルが当たり前の時代。
当然といえば当然でもあり、専業主婦は定年雇用が保証されていたからでもある特権的スタイルでもありました。ここで当然と書いていますが、その理由がお金が夫婦の強弱の最大指標だったからではないでしょうか。とても大袈裟に言ってしまえば、お金だけ、つまり、それだけお金だけが重要視されていたことになります。

夫婦の勢力関係をめぐる研究では、「最終的な意思決定者」や「家事育児分担」を勢力 の指標として、夫婦の対等性が判断されてきた。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

これらの指標としてお金が判断基準として大きな部分を占めていたのではないでしょうか。


養老孟司さんは常用的な表現で「食べられなくなる」ということについて、今の人は美味しいものが食べられなくなるのニュアンスで使っている人もいる、食べることについては昔ほど困らないでしょと。けれども養老さんの時代、終戦時小中学生だった団塊の世代では生活に必要な食事が摂れないの意味だったんだよと。
それだけ食べられなくなってしまう事に対して今よりも交換手段として、お金しかなかったということがうかがえます。
昔、ダメおやじという風刺アニメが放映されていたんですが、なんでいつも鬼のようなお嫁さんに怒られてばかりいるんだろうとあさりちゃんを見慣れていたので、初めてみたときは絵のタッチとかもホラー映画をみている怖い悲しい気持ちになっていました。
今は感謝の指標はお金だけでなく、家族のために費やしてくれている時間や内容も入っています。相手の気持ちや立場や状況をトータルで感謝基準になっているのではないでしょかね。それはお金はもちろん重要で無ければ生活が成り立たないことは分かってはいても、それに+して気持ちに余裕が生まれているからだと思いました。

逆に、もし、お金だけを夫婦間、世帯間の評価基準にしてしまうことについて、もしお金の価値がなくなればどうなるのでしょうか。例えば、コウノトリが卵を運んでこなければ、コウノトリだけが渡り鳥になるわけで。だから団塊の世代に熟年離婚が多いのも納得してしまいます。ある意味団塊の世代の専業主婦はいつもどこかで対等ではない、そういうものだと思わされている感、何の疑問も持たない場合が多く当然でしょみたいな。
一方でどこか尊重されていない感じが続けば、きっとどこかでしんどくなり、時にそれがきついと苦しくなったりします。長期間続けばいつのまにか自分の世界が出来てしまっていていつのまにかってことになるんでしょう。もちろん、そういうケースばかりではないと思います。定年後により仲良くなる人もいます。
本当に対等ではないことについて疑問を持つ人が増えてきた、さらには役割分担そのものが縛りになって固定化されていくことについて窮屈をおぼえる人も多くなり、より夫婦間の対等を求める傾向が強まり、役割分担ではなく、共同で協力し合いながらの生活や子育て介護の必要性、公平性を求められているんだと。

今日の一句
デジタル化と夫婦関係 どちらも過渡期 どちらも規制改革

そして、「対等だよね風潮」が当たり前になったとき「対等なはずだよね」になってしまい、実は女性のほうが家事、育児、介護などの負担をいつのまにか担ってしまっているにもかかわらず(客観的事実)、それを対等だとなってしまう(主観的判断)ことがあり新しい問題になっているそうです。

共に就労をしながら、妻のほうに家事育児 分担が偏っている夫婦を「女性の二重役割」タイプと呼んでいる。
この「女性の二重役割」 タイプの夫婦のなかに、自分たちは「平等」と語っている夫婦がおり(中略)

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf


不平等な家事分担を平等だと思い込む理由が6つもあるそうです。私なりにまとめてみました。

1.夫の育児に対して評価し過ぎている
2.折半になりにくい考え方→夫婦は互いに補うものというあまりにも抽象的な思い込み
3.昔から女性主体の家事育児介護などの背景がまずあり、そこへ性別によってできること違うでしょ的考えが加わること。
4.愛さえあればお互い尽くし合ってお互いが満足できていればええじゃないか問題。いつのまにか女性の負担が多くなる考え方なのでしょう。
5.分担と言われても、親の世代が完全に役割分担、それに慣れてしまっているのでどうしようもない問題。
6 .育児休業自体、女性の方が男性より長い。男性の仕事が優先する問題。

一方、男女の役割の意識調査では、役割分担に賛成する人は少数になってきていて、対等には収入や分担は関係ないそうで、むしろこれらに重きを置いているそうです。

・生きがいを持つ
・話し合える
・相手を尊重できる
・精神的な内面的なもの

きっちり決めつけなくても、出来るところはお互いに補い合えばそれでいいんじゃない的な考えなのかしらと思っていたのも束の間、分担や収入の中には対等は無いんですね。例えば、収入格差があっても家計を同じくし、さらにお小遣いも同額にしたり、妻の家事育児に賞賛するなどでお互いに相手を尊重し合っている例などがありました。🍰で言えば、1/4と3/4だけどその場が楽しければいい、それに🍰あまり好きじゃないみたいな感じで譲歩し合うみたいな感じになるのでしょうか。世間はこうだけどうちはこうだよな感じですね。

夫婦の「対等性」には収入や分 担の等しさは重要ではなく、精神的なものが重要であるとする意味づけである。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

相手が大事にしたいことを尊重している、そんな印象を受けました。例えば、妻が夫より収入がある場合、2パターンあって、妻は夫の威厳を保つために敢えて夫に家事や育児をさせない、つまり妻1人で負担することで、夫婦間のバランスを保っているのだそうです。これは夫婦の経済格差について、相手の自尊心を傷つけないようにしているということになるのですね。

対等な役割分担>夫婦間の客観的視点でみた場合のバランス
の構図なんだなと。

一方、家事育児は夫が全部になっているというケースもあるそうです。その理由もいくつか考えられそうです。
・家事育児が好きだから
・収入による評価を重視しているから
など
妻より夫は力をもつべきだの考えが捨てられているからなのかの推測もありつつ、具体的に詳細は分からなかったそうです。

学歴差(妻>夫)についても、夫の面子を保つために、夫が得意とする絵をほめたたえることでバランスとりをしている例もありました。そして夫は自分よりも収入が高い妻に対して敬意を払っていることでバランスをとっているそうです。

お互いの貢献度を同じにするためなら、収入、学歴にこだわらないという感じでしょうか。お互いを立て合うことについて、収入、学歴、年齢も低い妻の場合はこちらでした。

・互いに相手の言い分を聞く。互いに話 し合って物事を決める。妻自身がやりたいことや色々なところに外出することに対して 夫が尊重してくれる。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

対等をお互いが意識しあうことで、それが自然な行動につながっているのですねきっと。ここに昔の夫婦関係との大きな違いがあるように思えました。昔は夫は妻よりも夫婦の力関係で大きくなければいけない、男は男らしくなければならないから始まったのでしょうか、そういうのが当たり前でした。一方、妻はそれに対して抵抗があっても言えない風潮があり、そのズレみたいなのが夫婦間に摩擦として生じてしまい、関係がこじれていくことが多かったんだなと思いました。
例えば、妻が風邪で熱がでていたことにさえ気づいていなかったとか、ご飯の時にいただきますやごちそうさまを言わずに食器もそのまま、美味しいなど相手へのリスペクトが全然なく、文句だけを言うとかですね。一方、対等だと思っている妻は自分が悪いからだということで、余計に頑張りますしそれが当たり前になり疲れる関係になっていました。ここにはコミュニケーションつまり、こちらの論文のように、お互いが対等でいようとか、相手を尊重しようという気持ちがお互いに無かったとまでは言いませんが、顕著ではなかったということなのでしょう。売り言葉に買い言葉というのがありますので、どちらが悪いということも、どちらが原因ということも分からないままという感じなのでしょう。

・彼らは、夫婦間の収入・分担の同等性についてはあまり重視せず、互いに話し合い、 互いに尊重し、互いに敬意を示し合うという夫婦の精神的な結びつきを重視していた。

・夫婦の精神性を重視する人々は、equality (平等性)を重視して「対等」な夫婦関係を構築するので はなく、精神的な結びつきを重視して「対等」な夫婦関係を構築していた。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

「夫婦は『対等』であるべき」という規範を前提に、互 いに敬意を示し、尊重するという行為が繰り返されているのではないか

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

一方で、このようにも展開されています。

「対等性の意味づけ」と相互行為は、夫婦が equality の意味での対等関係を築くための社会的環境が十分整っていない現代だからこ そ、理想と現実の不協和を緩和するために必要な意味づけと代償的な行為として解釈する こともできるだろう。

本研究の対象者は少なくとも「対等」な夫婦関係に関心をもち、共に働きながら 子どもを育てている人々だった。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf


自分達だけのルールづくりをしようとなったわけですね。これは世間体を気にしなければいけなかった時代では考えられなかった発想ですねきっと。

参考サイト:庭野晃子:夫婦の勢力関係をめぐる客観的現実と 主観的判断の不一致にかんする考察
http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf


対等性 の判断は、家事育児分担を指標とした客観的なものと、当事者による主観的判断は必ずし も一致しないのである。

ジェンダーの観点からみれば、女性が重い負担を負っているにも かかわらずパートナーと「対等」と判断するならば、女性自らが仕事と家庭の「二重負担」 を温存させているとみなすこともできるだろう。

http://trail.tsuru.ac.jp/dspace/bitstream/trair/588/3/Y075077.pdf

分担すべき、夫婦の力関係は平等であるべきなど、規定を決めなければならない理由は、そもそも結婚生活による日々の幸福感を感じたいからで、その目的が達成できてさえいれば、家事分担や収入折半などの形にこだわらない人が多いんだなと。

逆に、しんどさ、息苦しさという窮屈さみたいなのを日々ストレスフルに感じてしまうようになれば、その方法論の1つが家事分担であったり、夫婦平等などで負担になっていると思う側への軽減みたいなことになるんだなと。

でも、今は平等にこだわらず、必要なら状況によって、出来る人が出来る事をしてあげる、二人なのでどうにでもなりますよね、ということで、勢力関係は一概にこうだというのがなくなってきているんだなと。


女性にとって嬉しいのは共働きなのか専業主婦なのか?


どちらとも言い難いというのはあります。それは働き方全てに言えることですが、自由を選ぶか、安定ゆえの束縛を選ぶかの問題だからです。

今は自由を選ぶ人が多くなり、共働きの考え方は普通になってしまっていて、それが実現できない女性は結婚が難しくなり、結果として結婚しずらい時代にもなっているのではないだろうかとも。もちろん、男女とも充実しているから結婚が面倒だという独身貴族的な考えで独身てのもあります。

結婚の形も多様でいい


問題が起こった時、先人の知恵の考えでもって、今まではこうだったからこうしておいた方が安全だよの考えから、こうあるべきの概念は生まれていると思いました。その結果、今が不安定な時代となれば、当然、結婚についても夫婦間がなんだかんだと上手くいっていた団塊の世代以前からの形にこだわれば問題ないだろうの思いや恩恵に伴う名残も残っています。それは決して悪いことではありませんし、そういう過程で育ってきた場合、同じようにできまてんという問題さえあることもあるでしょう。

一方で、団塊の世代の人々はきっとこれからの混沌とした未来に対し、自由に闊歩してほしいと思ってはいるものの、どうしたらいいのか、どうしてあげればいいのか分からないが故の押し付けみたいなこともあるのでしょう。なので、一概に全否定をするのでもなく、先人の知恵として受け取れるところは肥しにし、新しい自由な考えでもって対等を築いていくしかないんだろうと。ダメおやじのアニメの時代には、不機嫌に怒鳴りつける妻とそれを泣き泣き受け入れる夫との間には、その時代のサラリーマンの辛さやおかしみが風刺的に描かれていました。こちらアニメに代表されますように、アニメでは鬼嫁でしたが、実際は鬼夫などもあり、ほぼアニメもそうですがDV問題にもなったりしていて、今も名残が残っていることも多々あります。

3高4高というスペック重視の結婚観がステータス的になっていたこともあり、ある一定の収入がない男性の場合、自分の両親そして、相手の両親との価値観の問題もあったりで、不安定が理由で結婚にあえて持って行かないケースもあります。昔は家のための結婚とも言われていたこともあり、親の気に入る人も条件の1つでもあったようです、そのため男性は女性よりも年上で、女性は若く無ければだめなど照準を世間一般に合わせている傾向が強かったのではないかなと。親の反対にあったので結婚を諦めた人もいました。親としては子を思うあまりというところでしょう。

一方、親としては本当は賛成したいけれど、固定概念に照らし合わせればやっぱり賛成できないというように、経験していない領域に対して大いに保守的になるのは当然だとも言えます。

本心とは別に何か世間体みたいなところも大きかったのではないかなと。それは結婚観のほか人生のイベントについても変化が起こり始め、仏壇、お墓、同居問題など慣習からの脱却ということで、断捨離なども主流になっていますが、一方でまた新しい電灯、ではなく、昔とは違った視点で、日本ならではの伝統が見直されその良さを取り入れ重んじようとする風潮もでてきています。

論文でも言及されていましたが、夫婦の形は時代とともに変化していくとされていました。今ある当たり前は未来においてはどうなるかは決めつけることはできないとともに、知ることもできないのですね。

自由を求めたい願望とはうらはらに、安定を求めてもいるんだと。終身雇用制度と同じで、収入にはじまる〇〇格差やそれによる束縛や、夫婦とはこうあるべきだの固定概念からのある凄い窮屈な感じは、一方で安定をもたらしてくれているとなります。

最近はもう、役割分担や対等などについて、そもそも考えなくていいシステム、それは結婚制度にこだわらない新しいスタイルで子育てに励む場合もこれから増えていくのでしょうか。最近ではりゅうちぇるさんとぺこさんのニュース。夫だからこうでなければいけないと、取り様によっては自らを苦しめてしまう役割を脱却、夫はこう、妻はこうなどあるべきにこだわらない夫婦関係、子育てのイメージを持ちました。自分が居心地のいい環境をつくることはそれは周囲にも波及するので、既存の考えが自分を縛るのであればそれに振り回されることも無い合理的な考え方ですね。
多様性は夫婦間の関係性にも波及しているように思いました。

一方、絆を求めて結婚制度を利用するという新しい見方もあり、結婚制度そのものは悪くはないけれど、それに付随することに対して窮屈さを感じてしまうから結婚は疲れるのイメージをもち、束縛されない自由を選ぶということになるのでしょう。しかし、今は昔ほどこうあるべきの考えがゆるいので、結婚は大変なものというイメージは払しょくされているように思えますがどうなんでしょ。

さらに一方ででもやっぱり、何となく不安定な将来につかれてしまい、結婚がピンとこないケースもあります。


https://news.yahoo.co.jp/byline/fuwaraizo/20220822-00310983
2040年時点で男性は29.5%、女性は18.7%になると推計している。

結婚相手に求める最低年収 平均526万円
 
・300万円未満:1.1%  
・300~400万円未満:17.8%  
・400~500万円未満:21.3%  
・500~600万円未満:29.7%  
・600~700万円未満:15.1%  
・700~800万円未満:3.8%  
・800~1000万円未満:6.7%  
・1000万円以上:4.6%
出所:女の転職type

https://news.yahoo.co.jp/articles/4cd1bee633d45cb736399d9792dfb9fca8b4fccb

こちらの記事では、個人事業主とフリーランスの年収は100万円後半から350万円くらいまでが最頻値でした。一方、ヤフーニュースでは、女性が求める最低年収は500万ということでした。
少子化、晩婚化、一生独身について個人的理由で無い環境的具体的には経済的理由も大きく関係してはいないだろうかと思ってしまいました。一方で、価値観がこれからもまた大きく変化したりすればマッチするのだろうかとも思えたり。平均値は、最高値につられて高くなるとも言われていましたので、その影響もあるのかもしれませんが。まぁ、共働きなら問題ないんでしょ。


Internetの情報によるあるべきライフスタイルと実情のギャップがしんどい?



何とかまわせたとしても子育て、介護、仕事、家事をこなすとなれば当然仕事の時間を減らさないと回せない事態も起こるのは必然です。時代的には豊かになっているのに、なぜこんなに充実していないのだろうか、結局親の世代のようにはなれないなどについて、誰でも持つべき不安でもないと思うようになってきました。

仕事以外の楽しみ、何かをみつけなければライフスタイルとして問題がある、偏りがあると言われてしまうインターネット時代でもあり、いいこと、これを実践すればいいということだけは分かっているけれど、実際に実践出来ない現状があるという情報だけが進んでいく時代になっています。

終身雇用制度は奇跡の制度?


なぜ終身雇用制度は維持できていたのでしょうか。それは制度そのものが実現できていたことと、その制度を信じ切ることが出来ていた、つまりモチベーションが十分にあったということではないでしょうか。それだけでどんなに疲れていても、休日は充実していなくても、ただ家族のために、会社を崇拝して働くことができていました。そして今も終身雇用制度を維持できている会社ではその風潮はあり、それは窮屈でタイトではあるけれど、安定性は抜群なので家族にとっては有難い制度ではあります。

一方で、政府や企業側が終身雇用制度の終焉を告げるような風潮があり、そうなると将来に対する不安が先行してしまい、モチベーション、充実度の意味でより妄信的にならざるおえないか、対策として実験的に副業を取り入れてみたり、早い段階から独立してフリーランススタイルで働く場合もあります。それが軌道にのればいいですが、そうでない場合どうなるのでしょうか。もしそこに、ベーシックインカムがあれば状況やモチベーションは180°変化するはずです。当然といえば当然ですけれど。

夢のようなシステム~ベーシックインカム

少子高齢化社会、子育て、介護どちらも楽しんでとまではいかなくても、例えば老々介護の場合や子育てもですが、将来に不安が無いような活動にするためにも生活に必要なだけのベーシックインカムがあるだけで随分内容も取り組み方、モチベーションも違ってきます。お金で時間を買うことはできませんが、ベーシックインカムは将来の不安さえ取り省いてくれる効果があります。

昔は誰が第4次産業革命が来ると思ったでしょうか、ベーシックインカムの時代も何時きてもおかしくありません。今すぐにとはいいません、そういう方向で文明を進めることができれば必然的に実現がされるということです。

問題は財源をどうするか


例えば、国全体としてはまだその段階ではありませんという場合、企業単位で始まるのもありかもしれません。DXが進められていますが、便利さの追求を拡大していけば、AIを人間がサポートする形で、AIが人間にかわる収益をもたらす未来型です。

AIだけで可能にできると想定した場合



ベーシックインカムが導入されれば多くの人の不可能が可能になります。
一方、ベーシックインカムを導入するためのAIとした場合、人間の手も借りて、結果的に人間を超えた、人間では到底及ばない労働力になるまでを考えていく必要があります。それはいつになるかは分かりません。


企業単位でまずは実験?

その企業がAIだけで人件費のすべてをつまり、収益はすべてほぼ8割くらいはAIだけで行う、そうすれば本来2割の人件費ですみ、twitterのように大量解雇になりますが、そうではなく10割の人をそのまま雇用し続けるということが実現できれば、会社単位ミニ単位でのベーシックインカム的モデル、その企業の人件費総額÷社員数分だけのベーシックインカム的企業ができあがります。社員を解雇して新しい対象人を募集するのもいいでしょうと言ってみる。(一句にもならないつまらないたとえでした。)
そんな企業が増えていけば、今度は企業収益のうちの人件費の総額÷日本の人口>100,000、余裕をもたせれば>200,000とAIが判定すれば、ある意味1人10万円のベーシックインカム可能な構造があることになります。

どれだけの企業がそうなればベーシックインカム制度がスタートできるのかということについて、収益額によって早めることにはなります。一方、べーしくインカム可能な構造になり得る会社について、大企業にかかわらずつまり社員数にかかわらず可能となります。
そして、最も難しいことは企業がベーシックインカム体質になったとき、それを人口全体のために移行してくれるか否かです。

寄付に対する意識改革のような協力ともいえる寛容が無ければ成立はなし?

前澤友作さんのお金配りおじさんはあまりにも有名です。

社長退任から前後して、ツイッター上にてお年玉プレゼントを開始して、注目を集めた。その後、同じくツイッター上でお金配りを継続してフォロワーを獲得。その他には、ベンチャー企業や起業希望者を募集して、優れた企画に対して資金を提供する前澤ファンドを始め、16の事業に対して投資を行う。
2020年に、後述の支援活動により紺綬褒章を受賞した。
2020年1月1日、自身2回目となる、いわゆるお年玉キャンペーン「100万円を1,000人にプレゼントします!」をツイッターで開催。また、前澤はツイッター上で、このキャンペーンをベーシックインカムについての調査、実験を兼ねていると語っている[31]
2020年9月29日、上述したリツイート数の世界新記録がギネス世界記録に認定された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BE%A4%E5%8F%8B%E4%BD%9C

お金配りおじさんでお金の概念について考えさせられる大きなうねりになった前澤さんのツイートに多くの方が賛同されたのではないでしょうか。実はこの取り組みはベーシックインカムの調査実験でもあったのですね!ということは、100万円を受け取れた場合、なるほどです、毎月10万円とすれば10か月分を定額で受け取れたとなるわけですね。

実は一昨年、前澤友作さんのアイコン(多分偽アイコンでしょう)Facebookが贈られてきました。まさか!?と思いその日は夢のようでまるでレコード大賞を受賞したか、アカデミー賞を受賞したか、したことない当然ですけど、そんな感じでしたね。そして次の日に夢から覚めたのか、なぜ私に?の疑問が起こったんです。お金配りに当たった、当選したってことでしょ、これって選ばれたってことでもあるじゃ~んと。もし、宝くじとかお年玉ハガキに当選しても選ばれたという感覚にはならないとは思うんですよね。それって前澤友作さんの取り組みの付加価値がそういう形(どういう形?)で当選した人に、同時に選ばれたっていう感覚さえ起こさせるんだなとしみじみ。これって真心って言います、てか当たってねぇし(はるなさん風に)外れだし、グラフにしたら外れ値だって?まぁ、はずれに選ばれたってことにしておこうイグノーベル賞もあるわけだしてか、座標違うでしょ(林先生風?)

教訓のようなもの
〇〇が当選した系のメールについて疑ってみることは、どんな朗報であっても必要ですね。

ググってみたら案の定、迷惑メールそのものであることがわかりました、注意喚起をしてくださっている記事にヒット出来たからでした。
お役立ち記事を書いてくれたことにこの時も本当に感謝しましたね。

朝三暮四どころではありません、喜怒哀楽のオンパレードどのようなものだったかについて想像におまかせします💦まぁ、まんまとよくもまぁ、気を付けてくださいとだけ申し上げておきます。
冷静になれば当然気付くことが出来るのに、話題となっているだけで信じ込んでしまうことってあるんだなと。もし、Twitterでいいねを押したりリツイートをしていなければすぐに疑問を持ったのでしょう。それとよく似ていますが、アップルの当選サイトとかも危なかったですね、やったって思いましたから。

今日の一句
有名人からのメール もうときめかない

いつ頃になるかはわかりませんがこの妄想、AIだけでつまり設備投資でAIを導入することで結果的に実質の人件費を限りなく少なく0にして、それでも採算がとれる企業が増えていき、それが国民1人10万円を保障できる額になったとき、前澤さんのように寄付という形で配って下さる企業さんはどれだけなのでしょう?そして前澤友作さんは今宇宙から帰星され、DAOの世界観をもっておられることをyoutubeで知りました。お金の無い世界、お金がいらない世界・・・ベーシックインカムの次の新時代のことのように拝見。

ところで地球は10億年後は太陽によってヒートアップされて行き、人間が当然生存できなくなるそうなのですが、その時人間はどうするの?って思ったんですね。消滅するんじゃないの推測をしていたのですが、どうやらその頃には地球のような惑星も現れるそうなので人間が絶滅することはないということで、ノアの箱舟感あります。ウクライナ戦争の時に政府専用機で20名のウクライナの人達と帰国された林外務大臣のニュースを見た時もなぜかノアの箱舟を思い出しました。

私は前澤友作さんのお金配りおじさんのニュースをみたとき、お金持ちの方すべてが寄付してくれると思いがちになりましたが、そうではないという所で、それも当然なわけですね。一方、寄付をされている富裕層、資産家の方々がもしベーシックインカムという壮大なシステムのスタートアップ支援者となることで、ベーシックインカムの財源を確保するだけのAIによる収益システムが実現できればと思いました。

どれだけの賛同があるのか、前澤友作さんのような支援者がおられるのかについて、多く寄付をされておられる場合、国の事業として取り行っているとなれば、寄付対象を現状からシフトしていただきそれをもとに一律10万円給付の形で支援が可能になるということにならないでしょうか。結果的に今まで寄付をしてきた対象もカバーしているということになるのは理想ですが。

その辺もわけワカメですが、もしそうなれば企業と国が国民を救済するシステムとが出来上がります、新しい文明開化。

そういう企業少なければ、ベーシックインカム取り行うとき不足する額を国が企業の収益を買い取るという形で支給となることも考えることはできます。
イメージは企業の内部留保が国民のベーシックインカムに使われてくれる、ですね。

ベーシックインカム実現のためのAI事業をスタートアップとして企業させることで財源を確保?



こちらはベーシックインカム実現特化型企業自体をスタートアップ企業として支援していくという形での財源確保の案です。将来のベーシックインカムを見据えた企業の育成です。
何をサービスにするかにもよりますが、世界に需要ある事業にすれば、世界をターゲットにできます。

国民も支援者になることもできる?



富裕層や資産家による支援で完成させることに加え、国民も寄付者つまり支援者となり全員でとすることもできます。もちろん少額でもお賽銭程度からでも回数も自由で額も自由に決めて、クラウドファンディングで寄付を募ってもいいとも思いました。自分達のベーシックインカムを国主導でつくるけれど、クラウドファンディングでは国民の寄付も募集しますみたいな。税金とは違う形で出来る人が出来る範囲でするスタイルでというように。事業を決めるのが最大のポイントであり難しいところなんだろう。

ベーシックインカムを国のスタートアップ事業と考えた時、その場合大富豪たちは支援者。個人への毎月の支援額について、ベーシックインカムを受け取っても働きたいと思う場合、資本金となっていくイメージです。全員ということなら子供もなので毎月のやりくりを考えるだけで貯金にはじまりライフスタイルを描きやすくなります。


ある一定の時期を過ぎれば働く人が増えるために



ここで、ベーシックインカムによって一時的に働かない人が増えるかもしれませんが、働いてはいけないという制限がないため、一定の休息期間を経れば働くを活動にきりかえて活動、働きたいと思う人が逆に増えていく気がします。そのためには、もらったら安泰という考えではなく、どんな形それはボランティアや働くを通じてでもいいですし、アート的なことで社会に潤いを与える的なことでもいいですが、何かに取り組んでいくの考えが浸透すればきっとより豊かな方向に追求されていくのではないでしょうか、その結果、導入前よりも発展を遂げる、活性化、表面的には分かりにくいけれど個人の充実度が上がっているなどの効果はきっとあると。そんな妄想してみたり。

働く・活動するしないを自由に選択可能にするのがベーシックインカムの時代



ベーシックインカムを投資というよりも、支援という形で消費していくことで、生活が楽になるという形の消費の仕方つまり、支給額だけで働くことなく生活をするにしても、以前よりも個人満足度つまり活動的になれるか否かについて、それは外的充実内的充実問わず増えていき、当然ですが、現状と将来的な持っていた不安が軽減解消されていくことになるので、それはライフ充実もたらしていくと思いました。

そして導入前よりも余裕が気持ち的にも生まれるので、社会はより多様性に対し寛容になっていくんじゃないかと思いました。
更に新しい職種も新しい文化もライフスタイルも増え、最終的には誰もがいつまでも働きたい、活動したい社会に変容し、それが更にの新しい文化や働き方を生み出していきはしないだろうかと。

永年給付というわけでもない?



高齢者については、以前年金2000万が必要という報道がされましたが、60歳地点で2000万の貯蓄がある地点で打ち切りにすれば、どれだけ高齢者が増えても問題ない?とふと思いました。今の高齢者については、2000万円の貯蓄になるまで支給とすればいいのではないかと。

これはもうSF的にすら聞こえてしまう夢物語論かもしれません、単なる一例つぶやいてみました。

「夢のまた夢」について。夢があって、さらに向こうの夢、手が届きにくい夢のイメージがありましたが、微妙にそうではなかったようです。

夢の中で夢を見るような、きわめて儚いこと、現実感が無いことを強調する比喩

https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A2%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%9F%E5%A4%A2#:~:text=%E5%A4%A2%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%A7%E5%A4%A2,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%92%E5%BC%B7%E8%AA%BF%E3%81%99%E3%82%8B%E6%AF%94%E5%96%A9%E3%80%82

現実と思っていたところが実はまだ夢だったの意味なんだと。
夢の中のリアルな自分がみていた夢について、その人にとって本当にそうあってほしいという願望なのでしょうか。それとも夢をみている自分という1個の夢をみただけだったのでしょうか。

寝る前に何か食べると悪夢をよく見がちになります。ご参考までに。。

今日の1句

夢がマトリョシカ

好き=mc^2

原点に0のかわりに「好き」をいれたら傾き∞ 



ところでこの前のベーシックインカムyoutube。給付したベーシックインカム額の回収問題、財源問題についてでした。
高所得者から税金で回収することが成功案として言及されていました。

高所得者についてどのラインなのかは分かりませんが、巡り巡って給付を受けてた人がその立場になれば回収される側になりますので、回収される人が増えていくそんな好ましい構図が浮かびましたてか妄想。


いつもは天気予報がでるところになぜかこのマーク。AIが🌞の〇と誤認したのでしょうか?同じ丸だから??



長文をお読みいただきありがとうございました。

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