子どもを、子ども扱いしない
「親友のような親子の関係性がいいね」と言われ、ハッとした。私にとって、5歳の娘は、仲間であり同志であり、自分の一部。正直いうと、子育てが大変だと思ったことはない。それは、自分の事だから。ライオンが食べ物を分け与えるように、お腹がすいたらごはんを食べる。機嫌のいい日もあればわるい日もある、そんな人生の一部だから。今となっては、ごく自然な流れに思える。もし授かることができたなら、子育てによってキャリアが途絶えることを心配したり、何かを諦めるより、本来はもっと自然体のものなのかもしれない。
そんな私たちにターニングポイントが訪れた。親の離婚が、子に与える影響は大きいことを、私は知っている。親の2度の離婚経験があり、自分の子どもにはそんな思いはさせたくない。けれど、その時は来てしまった。両親の仲が悪いことを、子どもは知っていたし、隠すつもりもなかった。自分の気持ちも、どんな状況なのかも伝えていたしよく理解している。
何度も自分さえ我慢すればと思ったが、それではこれまでと変わらない。ハードな離婚交渉を経て、新しい一歩をようやく踏み出した。そのことを、子どもと真っすぐに向き合って話した。彼女は小さな身体を震わせ、口をへの字にして、しくしく泣いた。慣れ親しんだ保育園の先生やお友達との別れがつらい。環境が変わること、家族構成が変わること、新しいことへの不安は付き物だ。
前の保育園と新しい保育園とをいちいち比較して、文句ばかり。毎朝、保育園に行きたくない娘を、布団から引っ張り出すところから始まる。慣らし保育もないのに、今日のお迎えは1時だの3時だのむちゃな要望ばかり。最初はなんとか持ち上げて行かせようと必死に試みたけど断念。「もう、いい!行きたくないなら行かなければいい。新しい友達も作らなくていい。ひとりで遊べば?」そんな中、名字が変わることが一番のネックになるなんて想定外。彼女にとって、その名前で立派に生きてきた、自分のアイデンティティ。こだわりがある部分においては、絶対考えを曲げない。10日まで待って欲しい、いや月末までと交渉が続く。「もし明日他国に責められて逃げなければならなくなったら、名字が違うことで家族がばらばらになっても、独りで生きていけるのか?」と大人げない、究極の問いを真顔でする私。そんな毎日はしばらくして落ち着いた。わかってはいたけど、最初からうまくいくはずがない。つらいのに我慢して、感情を抑え込むよりずっといい。だから嫌なら嫌と、思いっきりぶつかろう、そう決めた。
子育てという言葉がどうも好きじゃない。自分が子を育ててやったという、上から目線でトップダウンなニュアンスを感じるからだ。親と子が上下関係だなんて思わないし、子どもの方がよっぽど魂レベルが高い。事実、5歳の娘は本当にまわりがよく見えていて、人の心がよくわかる。親のエゴにならないように、親には親の人生があり、子も同様にそれぞれの生き方がある。大人も子どもも関係なく、泣いたり、笑ったり、失敗しながらすったもんだする人生が、生きた心地がして楽しい。フェアでフラットに、お互いがお互いから学び、成長し、対等でいたい。
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