【摂食障害】10年間の地獄のはなしをしよう


 タイトルを書いてからキーボードを打つ手が止まる。いつか書きたいと思っていた話なのだ。書くなら今である。けれどそれは、多くのエネルギーと、根気と勇気のいる作業になる。思い出すだけでも動悸がしそうになる私の過去をどう話そうか。摂食障害と共に生きた10年間。あれは紛れもなく地獄の時間だった。

はじまり

 17歳になる年の夏、私はそこそこの食事制限と適度な運動をして10kg体重を減らすことに成功した。思春期の女子高生がダイエットをしようと思うのはよくある話で、順調に落ちていく体重と周りからの反響がとても嬉しかったのを覚えている。「可愛くなった。」「痩せたね。」と声をかけてもらえることは一人の女性として認められたような気持ちにさせてくれた。もっと痩せたい、もっと綺麗になりたいという欲求をさらに加速させるのには十分な理由だった。手っ取り早く痩せられたらいいなという安易な考えから私は食べたものを吐くために口の中に指を突っ込んだ。それが全てのはじまりだった。

「痩せたい」から「太りたくない」に

 吐くことで最初は体重が減った。吐く回数は少しずつ増えていった。週に1回から週2回、気づけば毎日毎食吐くようになる。少しずつ様子がおかしくなっていった。減っていた体重はピタッと減るのを止め、顔だけがパンパンになっていく。体は自分の異常を察知して飢餓状態に入り、吐きすぎて唾液腺が腫れ、目の周りはむくみ、顔は不自然に腫れていた。「あれ?なんか太った?」と言われることも増え、苦笑いを返しながら頭の中は真っ白になった。太りたくない、太りたくない、太りたくない。毎日5回も6回も体重計に乗ってはその数字に一喜一憂するようになった。体重計の数字だけが私の世界になりそんな生活は高校を卒業するまで続いた。この時には既に自分自身でコントロールが効かなくなっていた。

何かを埋めるために食べ、何かから逃れたくて吐いた

 いつからだろう、気付けば嘔吐だけではなく過食も伴うようになってきていて、太る太らないの次元ではなくなってきていることを自分自身でも理解していたような気がする。私はこの時の自分を「第二ステージ」と勝手に呼んでいる。何か悲しいことがあったとき、大きなショックを受けたとき、私はむさぼるように何かを口に入れた。麻薬と一緒だった。ほんの一瞬無心になるために何もかもを犠牲にした。
 今日は絶対吐かない。過食しないと決めていてもジュースを一口、ご飯を一口、そのたった一口で抗えないほどの罪悪感が押し寄せ、食べて吐きたいという衝動に駆られた。
 家族とご飯を食べた後隠れてコンビニ行っては5000円分の食べ物を全て食べ全て吐いた。財布は軽くなる一方で心はずっと重いままだった。吐いた後手は震え、鏡に写る自分は別人のように浮腫んでいた。吐き残しが怖くて水を3L一気飲みしてまた吐いた。胃の中を物理的に濯いでいたのだ。胃液しか吐けなくなった瞬間が一番安心した。安心したあとは決まって絶望感が押し寄せてきた。「いつまでこんなことを繰り返しているのだろう。」「誰か助けてお願い。」嗚咽が出るほど泣いた。トイレの中の私はいつも孤独だった。

摂食障害に苦しめられ、摂食障害に救われてきた

 気付けば初めて吐いた日から8年が経過していた。症状が酷いときもあればそうでないときもある。一時期過食が止まったことがあった。このまま完治できるかもしれないという期待が日に日に大きくなっていく。
 あれは、日常が少しキラキラしてき出した頃だ。久しぶりに会った男友だちに「太ったでしょ〜」と指を指して笑われた。この瞬間血の気が引いた。終わったと思った。次の瞬間には「食べたい、吐きたい、食べたい、吐きたい」その二言で頭はいっぱいになっていた。
 この日私は強いストレスを感じたときに逃げるように過食に走り、悲しみを胃の中に一度全て押し込んでそれを全て外に吐き出すことで自分の孤独と悲しみから少しでも逃げ出そうとしていることに気づいた。
 私を長い間苦しめてきたこの病気が、私自身のバランスを保っていてくれたことにぼんやりと気づいたのだ。今思えばこの気付きこそが完治への第一歩だった。
 

完治への道のり

 私はその日から、この病気と共に生きていくことを決意した。常に孤独との戦いではあったが、過食嘔吐を繰り返している自分を否定することを止め体重計をクローゼットの奥にしまってい、太ってもいい大丈夫、とひたすら言い聞かせた。過食しても吐かないと心に決めそのまま消化されるのを待った。体重計に乗らなくともみるみる太っていくのがわかる。人と会うのが怖くなり、家から出られない日々に頭がおかしくなりそうだった。
 するとある日圧倒的な死への願望が湧いてきた。「死ねば楽になれる。」「もう終わりにしよう。」「もう疲れた。」身体は鉛のように重かった。これは違う境地にきてしまったと思い気力を振り絞って病院に向かった。診断結果は鬱病だった。予想はしていたが実際に病名を聞いたときのショックは今も鮮明に残っている。
 医学書が本棚にズラっと並ぶその診療室で、また私は絶望の淵に立っていた。来るところまできてしまったなというのが一番最初に感じたことだ。医師は「摂食障害はよく鬱病の引き金になるんですよ。」と事務的に答えると「なにか気分転換してはいかがですか?」と軽く言った。それが出来たら苦労してないと思いつつも言い返す気力もなく「はあ」と曖昧に答えた記憶がある。
 正直言うとここからの記憶がほとんどない。毎日死にたいと願い、毎晩泣いていた記憶だけは残っている。何度か遺書を書いて何度か死のうとしたことがあったが、いつもロープを結ぶ気力がなかった。疲れ果てていた。
 そこからは必死で生きた。その日一日を生きることだけで精一杯だった。次の日また朝がくることを怖いと思ったのは生きていてこの時期だけだ。
 抗うつ剤を飲みながら少しずつ解放へ向かう。鬱病が寛解する頃には摂食障害は完治していた。最後の最後に大きい孤独に飲まれ、その孤独に摂食障害という病気を置いてきたようだ。私の長い長い地獄はここで終わった。

言葉の威力


「鬱は甘え。」「もっと辛い人なんていくらでもいる。」「自分だけが辛いと思うな。」

 これは当時、実際に私が他人に言われてきたことだ。この言葉たちは小さな呪いとなり、その呪いを何十倍もの大きさに丸めて自分自身になげかけ、ひたすらに自分を追いつめ、逃げ場をなくした。あの時の私にはこんな言葉は鋭い凶器でしかなかった。
 美味しいってご飯を食べられる人に言われたくない、そんなに言うなら代わってくれ、鬱病になったことのない人が簡単に言わないでくれ。そう心の中で叫んでは結局自分が弱いのがいけないのだと自分を責めた。

 人を傷つけるのが誰かの言葉だというなら、人を救うのも誰かの言葉なのだろう。何も考えずに放った言葉が誰かの致命傷になることを私は痛いほどわかっている。どうせ放つなら私は誰かを救う言葉を放ちたい。

 人は皆それぞれの地獄を抱えていて、それを隠しながら生きている。笑っていても心では泣いている人がたくさんいることを忘れてはいけない。私はあなたの言葉に傷つきました!と声に出せる人は多くはない。けれど、私は傷ついたら傷ついたと表現することにしている。それは自分の心を守るために必要なことなのだ。心が壊れてしまってからでは取り返しがつかない。自分もまた不本意に誰かを傷つけている可能性があることを忘れずにこれからも生きていこう。
 摂食障害と鬱病は私にとって長くて真っ暗闇の地獄だった。けれどこの道を通らなかったら知り得なかったものの多さを実感して今を生きている。当たり前にある日常がこんなにも幸せなことに溢れていることを教えてくれた。
 ご飯を美味しいと食べられること。空気を美味しいと感じられること。些細な幸せを見つけられること。誰かの優しさに胸が温かくなること。何かをしたいという欲求が湧いてくること。明日が怖くないこと。なに一つとっても幸せなことで溢れている。
 それはあの日、あの時を懸命に乗り越えた自分がいたからこそなのだ。誰がなんと言おうとこの道を通り、生き抜いた自分を誇りに思う。

本当に生きていてくれてありがとう。


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