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笠置山「六畳城とトランジスタ」(『小筆生活』第3号(2020.9)掲載)についての感想と試論。

まずは『小筆生活』の紹介からはじまる。

 さて、今回は後輩が出している同人文芸誌掲載作について書きたいと思う。雑誌名は『小筆生活』。書道のメイン・ウェポンである大筆でも、さまざまな絵の具を乗せる絵筆でもなく、敢えて選ばれたのが〈小筆〉である。

 初心者には大筆より小筆で書く方が難しい。力の入れ具合に慣れないと、すぐに字が崩れてしまう。
 大きな主題の〈文学〉を描くよりも、自分の生を見つめながら細やかに筆を進めていくことの方にこそ、技術が必要になる――そんな理念が感じられるタイトルだ。
 この『小筆生活』は、2020(令和2)年5月に名古屋市で創刊された。同人制度は取っていないが、知り合い同士で作っている粒ぞろいの文芸誌だ。第1号巻頭の《あいさつにかえて》では、編集部の田本さんが次のように書いている。

 このように文芸誌の片隅で細々と続いている企画のようなタイトルをつけたのは、今回のような執筆の場が長く続けばいいなと思ったからです。同人誌のようなたいそうなものではなく、小さくてもいいからちまちまと、気長に作品を書いて読んでもらう場所があるといいな、という小さな願望から「小筆生活」というタイトルをつけておきました。
   ――第1号「《あいさつにかえて》」

 たしかに、同人誌はみんなまずそのために創刊される。
 同人誌は一般的にインディーズ雑誌だから、少しバンド活動に近いところがある。メジャー・デビューを目指して結成しても、メンバーに実力差や活動に対する動機付けのバラつきがあったりすると、けっこう簡単に無理が出て、音楽性の違いで解散云々ということになってしまう。

 僕のいたとある学生短歌会も、いろいろあって内部崩壊してしまった。たぶん、させてしまったのは僕なんだけど。とにかく、「長く続け」ていくことを目標として掲げたのは、さすがだと思う。

では、「六畳城とトランジスタ」を見ていこう。

 今回は第3号(2020年9月)の掲載作品。
 ちなみに掲載されるのは、基本的に掌編小説である。
 編集部の整えた舞台で、どれだけ面白く踊れるかを競っていくのがこの雑誌の特徴的なところだ。 

 今回の条件は大きく分けてふたつありました。ひとつは、小説を書くにあたって必ず取り入れなければならないワード(「迂回」、「14°C」、「しょるしょる」)を設けました。二つ目は、三〇〇〇字から四〇〇〇字の字数指定を設けました。
     ――第3号「はじめに」

 なんで「六畳城とトランジスタ」という作品を扱うのかというと、どうやらあまり評判がよくないみたいに感じたからだ。この雑誌は巻末で、全員の作品を、ひとつひとつ全員で論評し合っている。同じ号で、同じ号の作品をである。これはほかではみたことがないオリジナリティある試みだと感じるが(※大学院の先輩によると、横光利一が同人誌時代にやっていた手法らしい)、「六畳城とトランジスタ」は寄稿者の多くが文系なこともあってまともに評されていない。

 短い作品の中で主人公にポジティブな変化が起きていて、読後感は爽やかだった。ただ主人公が変化するきっかけがいまいち掴めなかった。トランジスタがイカやタコに見えて、それでだから……? でも、人がやる気を出すときっていうのはそんなものなのかもしれないなぁとも思った。
     ――同誌「作品評」

 いや、確かにそうなんだけれど、この作品ではトランジスタという小道具の存在は大きい。

 トランジスタの機能としては以下の2つがある。

① 入力信号の波形を変えず、電圧や電流の大きさのみ拡大する(増幅)。
② デジタル信号の0と1を切り換える(スイッチング)。

 作中の「トランジスタ」は、主人公をこの2つの機能から象徴化している、と取り合えず読むことが出来る。
 気持や感覚の増幅と、行動のスイッチングが、エピソードの因果関係ではなく象徴的な(誤解をおそれず言えば詩的な)描写で行われているし、作者が理系なので、「杞憂杞憂、そんなことするわけないじゃん」とみんなスルーしちゃったのだろう。

 そもそも、主人公の町の描写自体が電子回路を思わせる。

 内階段を下りて公道に出ると雲はまばらで、青空がよく見えた。
 彼は身体の慣性に従って左に舵を切り、歩き出した。マンションを出て左にまっすぐ行けば、踏切があり、スーパーがあり、その向こうに駅がある。間もなく踏切に差し掛かった彼は遮断機に進路を阻まれ、立ち止まった。カン、カン、警告音を上書きするような轟音を伴って電車が走り抜け、遮断機が上がった。自転車が先陣を切って彼の右脇を通り過ぎていった。軽トラックがゴトゴトと跳ねながら踏切を渡っていった。彼は踏切の手前で身体を左へ転回した

 踏切が、ちょうどトランジスタの役割を担っている。
 視点人物である彼は、まるで電子回路の中を通っていく電子のように歩き回る。彼はいつのまにか、視座を示す点となり、視界のなかの参照点をテキスト内に前景化させる機能を発揮する装置に切り替わる。
 だが最後の文で彼は、その流れに乗らずに不自然な軌道で歩き始める。彼は日常の中のトランジスタを通過することが出来ない。彼は、だからうまく回路の一部になることができないでいる。

 でも彼は、トランジスタがイカやタコに見えたことで、可愛くみえたことで、それと向き合いたいと思えるようになる。

 彼は画面から視線を外し、箱に入った大量のトランジスタを眺めた。うどんをもぐもぐしながら見ると、胴体に三本足が生えたような形のトランジスタたちは小さなイカやタコにも見えて、大漁だ……、と思った。そのせいか、あるいはおろしうどんが呼び水になったのか、彼は空腹を実感した。それはさっきまでとは違う、地に足のついた感覚だった。そしてその欲求の矛先は、気付くと水揚げされたイカタコたちに向いていた。

 彼は本物のトランジスタを通じて、町の、日常の、他者との回路に復帰する。具体的にその復帰は、研究室のOBである遠藤さんとの思い出を介して行われる。つまり、遠藤さんの卒業前の実験(彼の持っている大量のトランジスタは、その際に遠藤さんからお礼として貰い受けたものだ)を手伝ったときの思い出自体が、この物語における隠された重要なトランジスタである。

「描けると思う。トランジスタ使いたいの?」
「そう、使いたいっていうか、分かりたい」
「あー、じゃあ講義資料とかあげようか?」
「いやいい、遠藤さんの回路がいい
「ちなみにトランジスタっていうのは」
「それ以上言ったらトランジスタあげないからな」
「ええ~~」
 通話を切って工具や電子部品をかき集め、図面が送られてくるのを待つ間、彼はOBの言葉を思い出そうとしていた。あのときトランジスタのことを何と説明してくれていただろうか? 自分は何と質問していただろうか?空腹のときにちょっと食べるともっとお腹すくみたいなことですか、と聞いたような気がするが、それに対する返答はどうだっただろうか? 部屋は二十二度を保ち、彼の体温とは依然十四度の差があった。けれど、さっきまで彼と隔絶されていた温度差分のエネルギーは今、トランジスタを介して彼に流れ始めていた

 彼は、トランジスタという存在を理解したいのだが、でも、それは彼にとってのトランジスタが理解したいのであって、客観的な機能解説を求めているのではない。ある人に恋をしたとき、その人にいきなり履歴書をねだるひとはいないだろう。そのひとの口から何をしてきたのか聞きたいし、どんな人なのかは聞きながら少しずつ知っていきたいと思うはず。

 でも、もうその人には会えないから、その人の残した回路とトランジスタによって遠藤さんのこと=トランジスタを知ろうとするしかない。彼の身体は、自然と熱くなる。

 なんだ、これってBLじゃん。


ついでに、柴田翔の短篇小説「ロクタル管の話」にも触れておこう。


 ……たまたま最近読んだ柴田翔の「ロクタル管の話」という小説も、少し似たところのある話だった(以下のリンクは収録書)。

 ロクタル管は真空管の一種で、機能としてはトランジスタに近い
 ただガラス管なので、トランジスタに比べるとある種の美術的な外観を持っている。

 1950年代、中学生のエリート少年たちは、それらの電子部品で、自分だけの精確ですべてが制御された、ひとつの回路=ひとつの世界を組み立てることを夢見ていた。

 ぼくらを掴んでしまって決して離そうとしない配線の向う側の本当の魅力は、おそらく、その世界で起きることが、それは非常に正確であり、そのことは疑いえないのだけれども、同時に、決してぼくらの眼に見えることはないのだという点にあったのだ。(中略)もっと簡単な現象、例えば前に挙げた五十キロオームの抵抗の両端に五ボルトの電位差の変化が生じる場合だって、眼でも、耳でも、触っても、何もぼくらに知覚されはしないぼくらは何事も見ぬままに信じているのだ

 閉じた、それだけに完璧な電子回路の内実を、その回路の純粋さを保ったまま知覚するには、実際のところ、電流を波形に変換するオシロスコープに繋げるくらいしかない、と語り手は作中で述べる。

 でも作中では、語り手が言明してはいないのだが、描写されているもうひとつの知覚方法が登場する。それは、電子回路をラジオの部品として作動させるという方法である。
 電流はオシロスコープと同じように波に変換され、電子回路が閉じ込めている世界を少年に知覚させることになる。

 気がつくと、ぼくらのセットは早口の外国語で、コーリアン・ウォーがどうしたとか、レッド・チャイナがこうしたとか、訳の判らぬことをしゃべり散らしている。ぼくらはそれに気がつくと、急いでスイッチを切り、いつもに似ずおとなしく「うん。もう寝るよ」と言うのだった。そしてその夜、蒲団の中にもぐり込んだぼくらの小さい胸は、ぼくらが確かにある世界を作りえたという喜び、そして、たとえ一瞬なりとも、それとの神秘的な触れ合いを体験したのだという秘めやかな幸福感、で一杯になっているのだった。

 ここでは、電子回路がラジオというメディアの部品として作動することで、海外のニュース情報を少年は得ている。しかしこの時点での彼は、それを社会とのつながり=回路を開く言葉として受け取ることができない。
 彼がラジオから聴いた音声は、電気信号が精確に音声へと変換された結果起きている現象としての意味合いしか持たされることがない。彼は、「神秘的な触れ合い」とのみ、その音声のことを表現する。
 電子回路の世界と、日常を超えた海外の事件(現実の世界情勢)という両者は、個人が直接知覚することが不可能であるという点で、共通の特徴をもつ。そして電子回路の作動は、そうした本来知覚不可能であるはずの、現実世界で起きている事項との回路を開く現象を引き起こす。電子回路ラジオの起動は、電子回路の世界・海外の戦争(そしてこの時期、それは決して日本と無関係ではなかった)を含んだ現実の世界、この両方を少年に知覚させることが可能な音声を響かせることになる。
 「六畳城とトランジスタ」と同様に、「ロクタル管の話」もまた、電子回路によって現実世界との回路を回復する物語、という枠組みを有する

 だが、「ロクタル管の話」では、結局さいごまで少年はロクタル管を使って回路を完成させることはできないし、電子回路という世界に参加できないヒビ割れた惨めなロクタル管としての自己を、彼はのちのちまで怒りとともに回想することしかできない。

 2020年代の「六畳城とトランジスタ」が、他者や社会と形成する回路への参加を容易に想定させていることからは、スマホをはじめとしたメディアの発達および普遍化という社会の現状以上に、具体的なものごとの裏に隠された見えない世界に対する不信感の欠落陰謀論的なものに対する免疫力の低下と、そうした(「ロクタル管の話」の言葉を借りれば「神秘的な」)世界に接続することに対する恐れに似た感情の衰微、というわれわれの現状を読み取ることができるのかもしれない。


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