楽しかった人生

心臓の痛み・自律神経の乱れ・ストレス過多・希死念慮。もう終わりが近い。23年間という短い人生だったが、後悔はない。強いていえばフェンタニルを試せなかったことくらいか。今日は文章が適当だが、気にしないで欲しい。
小学校は、楽しかった。何も余計なことを考えずに、たくさんの友達に恵まれ、毎日が薔薇色だった。中学校は、小学校の時ほどではないが、そこそこ楽しかった。水泳をやっていた。顧問は厳しかったが、それ以上に友達と一緒に泳ぐのは、楽しかった。変な女に好かれてラブレターを貰ったこともあった。クラスメイトみんなと仲が良かった。大切な友人もできた。高校生のときは勉強、ギター、運動と精力的にやっていた。1日8時間以上の勉強、隙間時間にギターの練習、週3でランニング。偏差値は70は超えていた。(3教科で最高80.1)。偏差値62の自称進学校だったが、ほぼ1位。1位じゃない時は皆に驚かれた。テスト返却の時に「この中で1人100点の人がいます、自信がある人は挙手してください」と先生に言われ迷わず挙手。憎まれそうだが、憎まれない人間だった。みんな笑っていた。
対人関係には困らなかった。どうやら、私は人に好かれるタイプの人間だった。(今は知らん) しかし、勉強するにつれて、自分はなぜ勉強なんてものをしているのか、早く人生終わらせたいという考えが出てきた。希死念慮ほどではないが、悲観的だった。好かれている理由は明るい仮面を被っていたから。
高校3年の夏、テスト中にパニック障害を起こした。そこから、テストというものに恐怖を感じるようになった。みんなからは天才と呼ばれていてずっと成績優秀者だったプレッシャーだったのだろう。高校1年の評定平均は4.8、高校2年生の時は5.0、高校3年の時は4.9、3年平均で4.9あった為、指定校推薦でGMARCHの1つに入った。大学生になってからは、真面目に思われたくなかった為、バカを演じた。テストもわざと低い点を出して、酒に溺れた。毎日酒を飲み、色んな女と遊んだ(と言ってもこの頃からインポテンツだったため、性行為はなし)。酒がないと何をしても楽しくなかった。ちなみにこの頃にパキシル(パロキセチン)50mgやトレドミン(ミルナシプラン)100mg、ドグマチール(スルピリド)50mgを処方されていた。大学時代はまだ精神が安定していた。親からは、「お前は鬱病を治す気が無いのか、酒ばっかり飲んで朝帰りして。」と言われた。親の介入は大学生の時から増していくばかりだった。大学2年、急性アルコール中毒で救急搬送された。親に言われる言葉はまあ察して欲しい。ムカついた為、家出を2ヶ月ほどした。また、この頃丁度彼女が出来た。3つ上の彼女だったが、Fカップあった為、付き合った。僕が付き合う彼女は大体酒が弱い。俺が毎日HUBという、イギリス風のBARで酒を飲んでいると、「また飲んでるの?」とよく言われた。HUBは19時までに行くと1杯300円以内でジントニックなどが飲める。僕は友達がいる時はアルコール度数27%くらいの「タランチュラ」やアルコール度数50%の「ダイナマイト・キッド」などを飲んで泥酔していた。週に1回記憶を飛ばしていた。大学3年に入ってからは、そろそろ勉強しようと思い、3ヶ月FP(ファイナンシャルプランナー)の勉強をし、FP2級を取得。投資学に興味を持っていたので、日経新聞を毎日読んでいた。そして就職活動をした。この頃、少し鬱がぶり返して、厳しかったがなんとか薬で活動した。大手外資系保険会社と中堅(とはいっても東証1部上場企業)証券会社から内定を頂いた。話は変わるがアルバイトは4年間日雇い派遣をやっていた。事務所移転や引越し、倉庫内作業やビラ配り、プラカード持ちなど幅広くやった。4年間で800回以上、それらをやった。私は仕事における人間関係はすごく苦手だった為、日雇いのような、毎回人間関係や場所が変わるような仕事は気が楽だった。貯金が50万あったので、5万は仮想通貨に、20万は株式投資に使った。儲かったの?とよく言われるが、結果はトントン。まあいい勉強になった。様々な会社(東証一部全般、バイオベンチャー、IT関連、インフラ関係)を調べていた。このような経緯もあり、僕は証券会社に入社を決めた。入社してすぐ福岡に飛ばされた。そして飛び込み営業をした。1日100件は最低でもした。辛くて1ヶ月半で休職。休職中も給料は23万(額面)出たため、キャバクラとパチンコだけをしていた。休職が終わり、退職。無職になった。新卒という大切なものを失った。それからは転職活動をした。俺は鬱病がかなり酷くなっていたが、死ぬ気で仕事を探していた。しかし両親には「正社員なんかいくらでもあるから早く就職しろ。鬱病なんて甘えだ、言い訳をするな」と言われていた。そしてリフォーム会社に転職する(契約社員)も成果が出ず、1ヶ月で退職。再び無職になった。
それからも親の精神的虐待(僕にとっては虐待)は鳴り止まず、彼女の家に転がり込んだ。この彼女はネットで知り合った。なぜかやたら俺の事を好いてきたので、仕方なく付き合った。彼女も精神疾患を持っていた為、一緒にいるのは楽だったし、次第に僕も彼女を好きになった。まあそこからブロンodなどに目覚めた。彼女には本当にお世話になった。感謝し切れない。3ヶ月半毎日ODをしていた。まあいつだか、ブロンとメジコンと酒を入れて救急搬送された。(某掲示板は少し間違っていることを言っておこう)。そして親と会うことになった。何も言われなかったが、実家に戻ることになった。そしてある時父親の言葉にムカついて大喧嘩になり殴り合いになった。(ツイキャス配信をしていた為、知ってる人はいるかも?)。そしてお金もなかったので、生活保護を受けることを決めた。そこからは鬱が酷くなり、再び市販薬に手を出した。毎日ハッピーだった。そこからは薬の勉強をはじめて、まあ少しは知識がついた。鬱病の人を助けたいと思ったのもそのくらいの時期からだ。それから鬱病や死にたい人、不登校の人や虐待を受けている人の相談にのったりした。何人の相談にのったか、記憶は定かではない。別に何かを求めてやっていた訳では無い。少しでも多くの人が苦しみから解放されて欲しかった。こうして偽善者がまた1人誕生した。俺は力になれたのか不安になったりもした。そしてつい最近、アモキサンという薬で躁状態になり、双極性障害の疑いが生まれた。これはまだ良かった。その数日後にADHDとASDの疑いが生まれた。思い返せば、市販薬をやってからは片付けもできないし物事を先延ばしにしたり、衝動的になったり、過集中したりした。その日は、訳が分からなくなった。自分は絶対にADHDじゃないという自信があった。彼女と電話していたら涙が止まらなくなった。信じたくなかったのかもしれない。衝撃が強すぎて、理解が出来なかった。ここに記載されてないアルバイトや仕事もやって来たが、どうしても上手く行かなかったことに合点がいった。とうとう立派な障害者になった。
まあこんな感じの人生だった。人よりは恵まれていたのかもしれないし、恵まれているのかもしれない。それでもodは辞められず、勘ぐりも酷くなり、鬱も希死念慮も酷くなった。死ぬかは分からない。でも近いうちに死んでしまうかもしれない。生きる気力がなくなった。すべてどうでもよくなった。人生に疲れてしまった。まあ遺書と言っては正しくないかもしれないが、ブログもその1つか。多くの出会いがあり、経験をした。色んな価値観に出逢えた。沢山学ぶこともあった。だから良かったのかもしれない。この先生きていることがあれば、ブログは書くつもりだ。心臓も肝臓も痛いし、精神も終わってる為、いつ死ぬかはわからない。
長くなってしまったがここら辺にしておこう。見てくれた方には感謝します。また会う日まで。

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