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仕事とは、奉仕? 自我が剥き出しだと辛くなる

私の考えですが、仕事とは奉仕そのものだと思っています。奉仕と聞くと、多くの人は「誰かを助ける人」「ボランティアをすること」「博愛的な意識」などを連想する人もいるのではないでしょうか。それらが不正解ではないけれど、私が伝えたいことはそれではありません。やるべき当たり前のことを遂行することです。これこそが仕事における奉仕です。


人や会社に仕えている人

昔の私は、経営者や投資家など、誰が見ても成功しているような人が「すごい人」だと思っていました。しかし、今は違います。この人たちは「エリート」か「恐ろしい運の持ち主」か「自我100%で生きてきた人」だと思っています。この理由をお伝えする前に、今の私が本当にすごい人だと思っている人を紹介します。

愛がなければできない

それは、人のために働く人です。自分のためではなく、家族のため。そして、従事している上司や会社組織のために。お金という対価はいただきますが、それは働きとして当たり前の概念。そこが目的ではなく、お金ではなく、人のために働いている人です。愛がなければできませんよね。

奉仕の精神がなければ続かない

奉仕の精神がなくても仕事はできます。しかし、奉仕の精神があれば「辛い」という思いはないのです。もしかすると「喜び」が芽生えるかもしれません。少なくとも、辛い感情にはならないかと。どういうことかといいますと、奉仕とは対局に位置する「自我」が関係します。ここが剥き出しであればあるほど、奉仕はできないものです。なぜなら、二つは両立しないから。

私が仕事を通してわかった2つの感情

私は今、ライター職です。興味がないものでも淡々と書けます。なぜなら、仕事だから。やりたい・やりたくない、という感情で選んだりするのではなく、仕事がきたら、ただただ遂行するのみなのです。ここに自我はなく、仕事をこなしていくのみ。この状態は奉仕です。誰かに仕えているのですから。

自我が入れば、感情はブレる

ライターとして、感情が大きく動く時があります。それは、セールスライティング。これは私の流儀でもあるのですが、相手の心を動かすには、まずは自分が動かなければなりません。自分の感情の幅が動かなくして、一体どう購入してもらうのかと思っているくらい重要視しています。心へアプローチしているんですよね。

そうなると、どうしても自我が入ります。熱が入ります。一見素晴らしく聞こえますが、ここには落とし穴があります。強みが弱みにもなるからです。つまり、自我が出るからこそ感情が揺れ動き、訴求が強まり売上が立つことがあります。しかし、自我が入ったまま結果が悪ければ、心にダメージを受けます。不安や焦り、怒り、泣き言、さまざまです。やがてやりがいは消え、一気に辛い仕事へと成り代わるのです。

奉仕の仕事には、辛いが基本的にない

辛い感情がないというのは、いうなればシンプルだから。仕事はただただ、こなしていくものだからです。しかし、辛いと感じる時があります。それはいつだって、自我が剥き出しになっている時。無私な状態にはなれないゆえに、感情的になるのです。反応しまくり。多くの場合は反発した気持ちになるため、それはやがて辛さになります。いいことが基本的にありません。

だから、サラリーマンや公務員ってすごいと思う

私がすごいなと思う人は、人に従事している人です。家族の中の役割ではなく(父親としてなど)、会社や行政という組織に従事できる人です。奉仕の精神がなくてもやっていけますが、奉仕の精神がないと生き残ってはいけません。奉仕は、誰かに強要されたところで見せかけです。完全に自分発の行動なのが奉仕なため、それが仕事でできるというのは、実は物凄いことです。

冒頭でもお伝えしましたが、世間では経営者や投資家がすごいとか言われますが、この人たちの奉仕精神ははたしてどうでしょうか。見せかけではなく、心はどうでしょう。本当に奉仕精神ある経営者もいるでしょうけれど、この人がトップな時点で人に仕えているわけではありません。お客様こそ人でしょうけれど。やはり、サラリーマンや公務員はすごいです。目の前の人に奉仕していくのですから。

仕事と奉仕のたとえ

私はよく聖書を読みます。現代にも生きている、私に深みを与えてくれる一冊だからです。そんな聖書では、仕事と奉仕について語られています。

あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕(しもべ)があるとする。その僕(しもべ)が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
僕(しもべ)が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

引用元:聖書 ルカによる福音書 17:7~10

就職などで契約を結んでいる以上、やるべきことは決まっていますよね。それらはすべきことです。すべきことを遂行しただけの話なのです。これが仕事であり、奉仕。僕がいれば、主人がいます。主従関係でもあります。会社組織でもそうですよね。上司や役員、代表がいて、自分がいる。自分が管理職であろうと、平社員であろうと、どうであれ、基本的にはトップダウンのように先輩という存在がいるはずです。そういうものがあるだけ。

クリエイティブは自我が出やすい?

私はライティングというクリエイティブを通して、自我に悩まされることもあれば、勇気をいただくこともあります。いずれも自分自身という自我によって。やることをやっていればそれでいいのに、私には自我が出てしまい、事を複雑にしがちです。例えば、フィードバックを欲しがること。なぜなら、評価がないと、これからどう方向づけしたらいいかわからないからです。

クリエイティブな分野は、感情のままに形にしていくこともあります。それはわがままというよりも、エネルギーになるからです。しかし、しかしです。​​クリエイティブは自分の中から生まれたものでもあります。すると、固執することもあり。自我はどうしても出やすい環境です。

いかに奉仕的に働けるか

では、奉仕的に仕事をすることが良いことなのか?と言われたら、そこは何ともいえません。いえ、無私であるので、幸せかどうかと言われたら私は微妙ですね。しかし、仕事に幸せを求めていますか? 私はものすごく求めがちだから、奉仕精神が低いのです。それだけ。いかに奉仕的に働けるかで、誰かのために役立っていると考えても良いでしょう。

だからこそ、私はサラリーマンや公務員など、どこか・誰かに従事した働き方をしている人ってすごいなと思います。もちろん、すべての人とは限らないけれど、従事した中、やるべきことをきちんと遂行しているのであれば、何度も言ってしまいますが、やはりすごいですよ。尊敬します。これこそ、出来る人なのでしょう。


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