誤読#7 『現代詩手帖』「新人作品」欄 柳本々々
詩の投稿欄と現代詩手帖賞
これまでは書籍化された詩を扱ってきました。それは本文へのアクセスしやすさを意識してのことです(初回はインターネット上に公開された作品でした)。その後、絶版本を扱うなど、徐々にその縛りは緩んでいくわけですが、タイトルにもある通り、今回はついに書籍化されていない詩を扱います。書き手は柳本々々です。
この企画の意図や目的などをまとめた#0は以下のリンクから。
今回扱う柳本の詩は『現代詩手帖』という雑誌の投稿欄に掲載されていました。彼はそこでの活躍が評価され、第57回現代詩手帖賞を受賞しています。同時受賞に#2で取り上げた石松佳がいます。石松はその後、詩集『針葉樹林』を上梓しましたが、柳本は2024年5月現在も詩集を出していません。
ちなみに、柳本は川柳や短歌でも活躍しています。商業出版されているのは『バームクーヘンでわたしは眠った』という書籍で、この本には柳本の日記と安福望のイラストが収録されています。
さて、ご存知ない方のために『現代詩手帖』(以下、詩手帖)の投稿欄と現代詩手帖賞について説明する必要があるでしょう。
大雑把に言えば、現代詩手帖賞は、詩手帖の投稿欄で特に評価された方に与えられる賞になります。小説の世界で言う新人賞にあたると考えてもらえれば大丈夫です。
ただし、そのシステムが一般的な小説の文学賞とは異なります。小説は短編・長編の違いはあれど、一つの作品のクオリティが評価対象になっているというが一般的かと思います。詩の投稿欄はそうではありません。
流れはだいたいこんな感じです。月刊誌である詩手帖の毎号ごとに締切があって、二人の選者が投稿作品の選考を行い、十作品前後が誌面に掲載されます(選外佳作として選ばれた作品はタイトルと作者名のみ掲載)。そして毎年五月号において、年間を通して優れた書き手に現代詩手帖賞が授与される。
雑誌によって違いはありますが、おおよそ詩の投稿欄というのはこういうシステムです。つまり、一篇の傑作を書けば受賞できるのではなく、継続的にクオリティの高いものを書き続ける必要があるわけです。ちなみに、詩の文学賞がすべてそうだというわけではなく、作品一篇を対象に与えられる賞もあります。
ちょっとここで、実際に投稿していた(今後もするかもしれない)僕の、個人的な感想を書こうと思います。
まず、僕は筆が遅いというのもあり、投稿するたびに掲載されていたようなタイプの人間ではなく、数回掲載されたことはあるものの、基本的には毎月の締切に間に合うので精一杯という感じでした。シャトルランみたいなものです。頻繁に掲載されている方々にはさらに大変なのだろうと想像します。
とはいえ、投稿欄からデビューした詩人によっては、選者の方に手紙を送るような感覚で投稿していた、という話も読んだことがある。受賞するかどうかは別にして、毎月の締切を書き続けるための外部足場にしているという方も多いのでしょう。僕も前述のように感じながらも、書き続けるための良いモチベーションだったことは間違いない。
投稿欄には独特の熱量があって、投稿をしていなくてもきっと面白く読めるはずです。なにせ、月に数百点投稿される詩群はある意味では間違いなく詩の歴史の最前線であり、それを第一線で活躍する書き手が評価するわけです。
また、少し俗っぽい読み方かもしれませんが、長く投稿欄で活躍していたけれど受賞には至らなかった方がようやく獲ったり、逆に突如現れた方がかっさらっていったりと、様々なドラマがあるのも面白いところです。もちろん、選者の方々の選評は、勉強になるだけでなく、詩を楽しむ補助線としても有効でしょう。
つい色々と語りたくなってしまうのですが、投稿欄についてはこの辺にしておきます。今回柳本の詩を取り上げるのは、もちろん彼の詩が素晴らしいというのもあるのですが、それとは別に、投稿欄という場所があるということを書いておきたかったというのがあります。
さて、これまでは本文のみをテキストとして扱ってきましたが、投稿欄には選評がついてくるため、今回は選評などの周辺のテキストも参考にしながら書いていきます。
本文を読みたい方は、詩手帖のバックナンバーや柳本のブログを見てください。ブログには、受賞が決まった号に掲載された詩「パレード」を除くすべての投稿詩が掲載されています。ちなみに、本記事の引用はすべて詩手帖からの引用となっています。
柳本の投稿欄への掲載をざっと整理してみると、初めての掲載は2015年6月号で、文月悠光に「あたたかい眼鏡」という詩が採られています。
文月悠光と朝吹亮二が選者だったこの期に採られたのはこの作品だけでしたが、廿楽順治と日和聡子が選者を務めた次の期間に、「身体ってすごくおおごとなきがするよ」(2016年6月号、廿楽・選)が掲載されます。その後、日和からも採られながらコンスタントに掲載されるようになり、結果的にこの期に現代詩手帖賞を受賞することはありませんでしたが(この期は受賞者なし)、選考対談では両名から言及があります。
その翌期(選者は岸田将之と広瀬大志)では掲載は少なくなってしまうのですが、その次の須永紀子と松下育男の二人が選者を務めた期で柳本は詩手帖賞を受賞します。
「構え」のない文体
柳本の詩はとても散文的です。さらに、ひらがなが多く、難解な語彙もほとんど使われていない。ただ、その言葉のあり方は、〈意味伝達手段としての言葉〉とも異なっています。
〈誤読〉では、よく〈意味伝達手段としての言葉〉と〈表現としての言葉〉を対比させながら話を進めています。
前者の、伝わりやすさを志向する言葉は、できるだけ客観的であることに大きな価値がある。誰にも誤解されないように、言ってしまえば人間の主観をよりどころとしないところを目指していると言えるでしょう。もちろん、完全な意味で実現することは不可能ですが。
一方で、柳本の〈表現としての言葉〉には、主観に両足で立っているようなところがあります。「書かれている」という、完全に主観であることが不可能なあり方をしているにもかかわらず、まるでずっと内面であるような印象がある。
一般的な散文と比較したとき、柳本の詩にはそこから「余っているもの」と「欠落しているもの」があります。本質的に〈意味伝達手段としての言葉〉の性質が強い散文性をベースにして、そこに対する余剰と欠落によって表現が行われているわけです。
これはあえてここまで明記していなかった情報ですが、「柳本々々」という名前は「やぎもと・もともと」と読みます。「おはよう」(2019年3月号)という詩には「やぎもとくんに説明したいよ」という詩句があったのですが、僕はずっと「やなぎもと」だと思っていました。牽強付会だと思いつつも書かざるをえないのですが、ペンネームにすでに、「々々」という余剰と「な」がないという欠落が含まれているわけです。名は体を表すと言うとあまりにも出来すぎですが。
なんというか、柳本の詩は軽やかにだらっとしていて、しかし底知れない。そんな奇妙な質感があります。先ほど「主観に両足で立っている」と書きましたが、正確に言えば、両足は主観の領域にありながら、地に足がついていない。
柳本の詩句には、詩的なものを書こうとする「構え」がない(ように見える)。たとえば、「幽霊」という詩の書き出し。
(一応)詩の書いている人間の、個人的な感覚に過ぎないのですが、僕には完成した詩としてこの言葉を残すことができる気がしません。書いているうちに絶対に削ってしまうという確信がある。
でも、他者の言葉として読むと、確かな味わいがあるのです。それは「他者が書いていること」が内包する一種の謎に由来しているのでしょうが、柳本の詩からは特に強くその謎を感じます。
他の詩にも、日常を撮影した映像を適当なところでトリミングしたような感じがある。あまりにも素朴すぎて、気がつくと組み伏されている。抵抗する気が起きないうちにやられてしまうわけです。
「リアルな口語表現」の余剰と欠落
多くの選者が指摘している柳本の詩の魅力に、語りの妙があります。
須永は選考対談において「小説に出てくるような会話ではなく、実際に私たちが喋っている言葉そのものを引き写してきたような、よりリアルな口語表現になってい」(2019年5月号)ると指摘しています。
言文一致運動以後であっても、書き言葉と実際の話し言葉はイコールではありません。#5の『TEXT BY NO TEXT』のときにも言及しましたが、会話をしているとき、僕たちは書き言葉の文法を忠実に守っているわけではない。問いと答えが噛み合っていなかったり、主述がねじれていたりすることもざらにある。
話し言葉の場合は、その揺らぎを肉声やノンバーバルコミュニケーションといった身体性がまとめているわけです。だからこそ、『NO TEXT DUB』は公演の記録であり、『SUPREME has come』はあくまでも「話しているように書かれた」言葉なのだと対比をしました。
つまり、書き言葉としてリアルであることと、「リアルな口語表現」は異なるということになります。たとえば、僕が過去に読んだいわゆる「小説の書き方本」には、登場人物の台詞について、説明的になりすぎず、それでいて状況や伝えたい情報がわかりやすく伝わることを意識した方が良い、といったことが書かれていました。書き言葉としてのリアルは、読者という不特定多数の人間に伝わることを前提とした「リアル」なわけです。
一方で、柳本は「リアルな口語表現」を書き言葉に落とし込んでいるわけですが、そのことによって、書き言葉としてのリアルに対して「余剰」と「欠落」が生まれる。この点が柳本の詩の大きな特徴です。
先の引用を見ると、相槌が多用されていて、また一直線的な伝達を行なっているのではなく、細かく行ったり来たりをしながら、その往還も含めて内容が伝わってくる。この「リアルな口語表現」の「余っている感じ」が、シンプルなやりとりを味わい深く響かせるのです。
また、二人のやりとりは寝癖の話から弓袋の話、そして怪我の話と、ぽんぽんと話が展開していきます。実際の話し言葉では珍しいことではないけれど、書き言葉として読むと、噛み合っていないように感じられる。ここに、何かが欠けている感覚があるわけです。
実際に唐突に場面が切り替わることもあります。はじめはそれまでとまったく別の文脈が始まったように思えるのですが、次第にそうではないことが伝わってくる。しかし、その繋がりが何なのかは掴めない、という、いわば不在としての文脈がある。
このように「リアルな口語表現」を突き詰めた表現を、あくまでも書き言葉として受容することによって、豊かな味わいが感じられたり、逆に決定的に何かが欠けているような不安を抱くことになるわけです。ここではもはや、リアルかリアルではないかという二項対立は無意味になっている。
なかには余剰が、「過剰」に踏み込んでいるような詩もあります。
この詩には、語りがコントロールを失っている場面がいくつかあります。けれど暴走というには、どこか淡々としていて、テンションの上昇が伴っていない饒舌さがあって、それが危うくも感じられる。ここにも「余剰」と「欠落」の両義性が見られます。
また、詩の展開にも「余剰」と「欠落」があるように思う。
ここをピークにして、それよりも少し弱い盛り上がりを用意したところでこの詩は終わります。ピークの箇所から冗長なほど続けて、次の展開を予感させながら、結局ぷつりと切ってしまうこともある。「幽霊」や「おはよう」がそのような終わり方をするように思います。
これらの「余剰」と「欠落」が柳本の詩に独特の味わいをもたらしていると言えるでしょう。
「リアルな口語表現」の中の書き言葉
一方で、余っているとも欠けているとも言えない、須永が指摘するような「リアルな口語表現」に当てはまらない詩句も存在するように思います。
「幽霊」という詩における、選者である須永と松下が絶賛した詩句が含まれている箇所を引用してみましょう。
松下は「この箇所の衝撃はすごい。『あらゆるもの』という日本語が表すものを、この一篇が変えたのではないか。」(2019年9月号)と、須永は「この部分を太字にしたことでインパクトが出た。会話の部分のおもしろさが際だち、シュールな映画を観ているようだ」(同)と述べています。
(ちなみに、この「あらゆるもののかす」というフレーズは、2017年3月号で選外佳作として廿楽と日和の二人に選ばれている詩のタイトルでもある。この詩句自体が柳本の中でも重要なものであったことが推測できる。)
ここで気になるのは、須永が「シュールな映画」が引き合いにしている点です。他にも「炒めるといい香りのするもの」(2017年2月号)における「地球が難解になったのは三月のこと? 四月のこと?」という詩句に対して、廿楽は「現実にはありえない」(同)形に変換が行われていて、それが魅力になっていると述べています。
こういう「リアルな口語表現」とも異なる、歪な詩句がところどころに出てくるのです。
表現の語彙は相変わらず素朴で単純なのだけれど、フレーズは奇妙に深く響く。世界を鷲掴みにするような感覚すらあります。
これらは、どちらかと言えば「リアルな口語表現」というよりは書き言葉に近い。つまり、書き言葉に「リアルな口語表現」を落とし込んでいた文体に、書き言葉的な表現を混ぜることで、逆説的に書き言葉の異質性が高まっていると言えるでしょう。
しかも、語彙の優しさは共通したまま「リアルな口語表現」のなかに溶け込ませているわけで、結果、それらは違和感がありつつも日常性から途切れることなく伝わってくる。
その、いわゆるパンチラインは、高い浸透度を持って読者に迫ってくるわけですが、それは柳本の文体のなかで、「余剰」や「欠落」とは異なる歪さ、いわば「ストレートな歪さ」とでも言えるような性質を持っていると言えるでしょう。
だからこそ、パンチラインと言いつつも、それ一行だけを抜き出すと魅力が半減してしまう。あくまでも作品の全体性の中で響くように書かれているのでしょう。
柳本詩の読み味
これまでは柳本の表現についてばかり書いていきたので、このあたりでどんな内容が書かれているのかについて言及しようと思います。
登場人物たちはどこか存在感が希薄です。嗅覚を初めてとして細かな身体感覚に関する描写がよく出てくるのだけれど、それもどこか余っている(あるいは何かが欠けている)。
複数の作品において非日常的な出来事が起きるのだけれど、登場人物はそれらを当たり前のように受け入れています。存在の曖昧さゆえに、死者ですら生とは異なるあり方で、しかし生者と同じ位相に存在し続けているように感じられる。
また、松下は柳本の投稿について「この場を借りて連作詩を発表しているような気もしてくる。」(2018年11月号)と語っていて、須永も同意を示しています。須永も「今までの作品に伏線が張られているとしたら、それが回収されていくような展開になっていると思う」(2019年3月号)や「きっと次号で完結すると予想しているのだが」(2019年4月号)と述べています。
しかし、個人的にはストーリー性みたいなものをほとんど意識せずに読んでいました。僕は、柳本の詩の内容よりも、全体の質感、その読み味を楽しんでいました。
まず、文体や展開における「余剰」と「欠落」によって、なんてことない詩句にもどこか不穏なところを感じます。それは素手でこの世の本質に触れているような感覚に由来しているように思います。そんな触れ方があったのか、そんな触れ方ができるのかと、その手つきにぞくぞくするわけです。虜になっていく。
同時に、常にどこかずれたまま読んでいるような感覚もあります。作品の文脈がずれていくというよりは、読むほどに読者である自分の方がどんどんと離れていってしまう。
作品全体の深みに嵌っているのに、どこか疎外されているようでもある。
この矛盾した読み味は、誰かと共有したいという欲望に繋がります。要は、誰かに話したくなる。今回僕がこれを書いている動機の一つはまさにそれで、僕は柳本の詩の魅力の不思議さに耐えられなくなったようなところがある。柳本の詩に抱いた感覚を一人では抱えきれず、どうにか他者と共有可能な形で言葉にしないと、その不安定さにあてられてしまうと思った。
ぜひ柳本の詩を読んで、同じ感覚に魅せられてほしいです。
さいごに
ここまで書いて思う(いや、うっすらずっと思っていた)のですが、柳本自身は自らの詩をどこまで自覚的に書いているのでしょうか。天然でこれをやっているのか、あるいはすべてを計算してやっているのか。愚問だとわかっていても考えてしまう。
僕なんかは捻くれているので、素でこんな詩を書ける人なんていないはずだと思ってしまう(願ってしまう)ので、非常に高い技術をコントロールしているに違いないと思っています。オーブントースターで短い時間加熱するとき、一度つまみを大きく回してから指定の時間のところに合わせると思いますが、なんというか、そういう精緻な力加減で書かれた言葉であるような感じがします。
(そもそも、掲載されるかわからない投稿欄でこのような詩作をし、そして実際に掲載され続け、賞をもらっている時点で畏怖すら感じるわけですが。)
ちなみに、日和は選評において「言葉の表記やずれなどに工夫しつつ、適切なゆるみをもたせて奇妙な趣が醸し出されている。それによって本作そのおもしろさが表されているわけだが、こうした趣向や手付きが見えるところが、かえって作品の本質的なおもしろみを幾らかずつ削ぐことにもなりもったいないと思われた」(2017年1月号)と述べている。
僕は、個人的にそういう手つきが見えたとしても、全然減点にならないというか、むしろ、技術でこんなふうに書けてしまうなら脱帽です、という気持ちになる。
そんなことを思いながら、そろそろどう終わるかを意識しないと、と思いつつ、今回集めた資料の一つ、松下と柳本の対談を読み返していたら、松下が柳本を評して、以下のように述べていた。
最後にその箇所をを引用して本記事を終わろうと思う。
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