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あの音楽が聴きたくなる短編小説6
口唇の荒れた女 -Her Chapped lips-
仕事帰りの乗客のため息で満たされた夜のバスの車内は、水槽の中にも似た青い光が沈んでいた。窓ガラスの向こうの暗闇に、電球で囲まれたガソリンスタンドの看板が小さく揺れていた。
私の隣りの席の女からは濃密な夜の匂いがした。オイルを塗ったかのように光沢のある黒い肌と黒い髪。大きな目をさらに誇張する原色のアイライン、張ったほお骨にラメのはいったチーク。ノースリーブのショッキングピンクのシャツの胸元がVの字に開き、胸の谷間があられもなく見えていた。
「よくある話なんだけどね」
窓に映った女の横顔が、誰も訊ねていないことを話し出した。
「私がまだ小さい頃、ママがね、新しいパパと結婚したの。それまでずっとママとふたり暮らしだったから、最初はやっぱりとまどったんだけど。でも、パパはすごく優しい人で、私はすぐにパパが好きになった。毎朝、私がふたりにコーヒーをいれてあげて、日曜日には3人でよく釣りに行ったわ」
バスが停車し、私たちの前の若い男女が降りる。乗り込んでくる客の姿はいない。
「私が12歳になってすぐのことよ。その日はイースターでもないのに、パパが家のあちこちに卵を隠したの。それぞれの殻にとてもすてきな装飾がしてあってね、私、そういう飾りものも宝探しも大好きだったから、玄関、リビング、階段、クローゼット、見つけるたびに飛び上がって喜んだわ。でも、最後にパパとママのベッドルームでまくらの下にあった卵を見つけたとき、私の手を、いつのまにか後ろにいたパパの手が包んだの。とても大きい、温かい手だった。私は驚いたけれど、いやじゃなかった。それが私たちの最初だった」
通路を挟んだ席の痩せた老人が首を横に振り、目をつぶったまま小さく十字を切った。
窓の外では、カーブにそって並んだ電飾の看板がゆっくりと近づき、そして過ぎ去っていく。
「それから私はママが出かける日が待ち遠しくなった。パパに愛してもらえたから。でも、ママは気がついていたのね。ある日の朝、ミルクの瓶を床に投げつけてこう言ったわ。『いったい、自分たちが何をしているのかわかってるの? あなたたちは親子で! 男同士なのよ!』」
その頃にはもう、それがどういうことなのかはわかっていたわ。ええ、わかっていたけど、だからって、どうしろっていうの?
結局、ママはパパと別れて、私たちは遠くに引っ越したわ。それからママは一人で私を育てるために、昼も夜も働いた。毎日毎日、同じ服を着て出かけ、しわだらけの疲れた顔で戻ってくるの。病気がちで、いつも口唇がひび割れてたわ。お金がなくて、まともな食事がとれなかったの。私が家を出るまで、ずっとそうだった。……でもね……でも、私は」
降りるバス停に着き、私はトランクを抱えて席を立った。
視線の端に見えた彼女は、両手で顔を覆っていた。
「………………私は」
真っ暗な家に辿り着くと、私は居間へ続く廊下の灯りをつけ、帽子と上着を脱いで壁のフックにかけた。洗面所に行き、顔を洗って口をゆすいだ。階段を昇り、自分の部屋に行く前に隣の部屋をのぞいた。
母は眠っていた。抜けた白髪だらけのまくらに青い顔の半分を沈め、何かがひっかかったような不規則な呼吸をしている。部屋に染み込んだ、汗と病いと埃のにおい。私は中に入り、ベッドの脇の椅子に座った。額に手をあてると、その熱が伝わってくる。眠っているときでさえ、母は苦痛に顔を歪めていた。彼女の、口唇のしわにそって固まった細い血の線を、指でなぞった。
自室に戻って、私はドアを閉めた。持っていたトランクを開け、中から油紙の包みを取り出す。持ったことのない重みで、手に汗がにじむ。
長年の病いに母は疲れきっていた。私もそうだった。未来のための蓄えを全てはたいて手に入れたこの道具が、私たちをこの苦しみから解放してくれるはずだった。
だが、今日はその日ではなかった。明日はどうだかわからないが、今日はその日ではなかったのだ。
包みを机の引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。カーテンの向こうから風がガラスを叩く音が聞こえた。私は机にノートを広げてペンを握り、何を書くわけでもなく、次第に強まっていくその音にずっと耳を傾けていた。
口唇の荒れた女 -Her Chapped lips-
Thanks For Inspiration,
BRIAN BLADE & THE FELLOWSHIP BAND『Season Of Change』(2008)
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