neutral002 こぶし
書き綴る内容は日本語であるところからも明らかなようにニュートラルの日本人における役割が中心であるのだが、日本人が欧米人より優っているという結論を導き出そうという意図は微塵もない。どちらも優れた人間であるし、強さも気品も市民としての意識も高い。私はどちらも好きであるし尊敬している。Youtubeで外国人観光客が高級寿司店に入り初めて本物の日本料理を食べて感嘆する姿や伏見稲荷、清水寺での初体験、その感想をレポートするコンテンツなど面白く観てしまうことが多い。本物に出逢い感動すると素の自分自身が発動し最も輝いている顔・表情を露呈してしまっている、それを観ているだけでも幸せというものが味わえる。幸せの連鎖、いいではないか。
さてニュートラルという観点から西洋の近代を一行で切り取ってしまうならそれは「ニュートラル」を拒否した、無かったことしようとした社会だったということが出来る。世界中で私1人だろうがそう思っている。他民族が犇き合い、背中合わせに大陸をジグソーパズルのように分け合っている地域ヨーロッパでは、ニュートラル(モラトリアム)の有無は死活問題であり、モラトリアムの余裕が与えられぬ緊迫した攻防が歴史的に繰り広げられてきた、という地勢学的な要素がニュートラルを押さえ付け続けて来た主たる要因だったろう。
島国日本は海の要塞に守られてニュートラル・モラトリアムは存分に活かされ、生き延び、広く文化に入り込み発展して来た。
デカルト・カント・ヘーゲルに連なる西洋近代哲学のメインストリームは「良識」「理性」「合理性」「市民意識」によってニュートラルの芽生える隙・余地を与えず、最初から(デカルト=生まれつき)無かったことにして引き継がれて来たのだと云える。それが私から観て近代西洋の最大の特徴であろうと思っている。
西洋の人間の根幹に位置するアイデンティティ・自己同一性の対になる対極の概念は意味的に「多様体」がまず浮かぶのであるが私は「多様体」を活かす媒体としての「ニュートラル」の方をあげたい。「ニュートラル」自体も「多様体」の一要素として機能していると考えられるのだから卵が先か鶏が先か、と競う差異の理由はないはずなのだが。
「ニュートラル」を拒否し、無かったことにした欧米社会を知る上で、むしろ20世紀に入ってからどのようにそれが綻び崩れていったかの軌跡を辿ることによってより理解は深まるだろう。音楽を取り上げてみよう。音楽の父バッハの平均律はご承知のとおり隙のない、休止の見られない、つまり媒体(ニュートラル)のない音楽の典型と言え、クラシック音楽はそこから始った。ニュートラルなくギアチェンジが強行されているような一曲全てが隙なく連なる、連続した旋律。
クラシック音楽はピアノ中心だと総じて「粘り」を排しているような音楽となる。バイオリンはビブラートを使えるのだが、小節(こぶし)と違って粘りというよりも繰り返しがメインで、ビブラートは記号化されスコアに記入されていたりする。日本の演歌の「小節」(こぶし)は逆に音譜にはなく歌手の裁量に任されている。何故か、それは「ニュートラル」が媒体であり、無くても曲が成立するのであるから、音譜に現れる必要がない。小節は前のフレーズの余韻とも取れるし、次のフレーズへの導入とも解釈でき、両者を繋ぐまさに媒体の役割を担っている。
20世紀を抜け、21世紀に突入しても音の「粘り」として最大の効果をもたらしているのはエレキギターとアンプの間に介在するエフェクターであろう。エリック・クラプトンの「レイラ」やイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」は小節と同様の役割を担った粘りに粘るエフェクターの効果のその音色は、民謡名人の小節とて勝ち目はないかの如くに兎に角粘り続ける。ボーカル(メロディ)の比重を低下させ、ギターの粘りをこそ聴きにゆくかの如き転倒も起こりかねぬくらいの勢いだ。ボーカルがオマケのようになってしまったロックの名曲も少なくはないだろう。記憶に残るフレーズがギターのパートだったりするのだ。
これらのエフェクターによるニュートラルの発火から、増殖、爆発はニュートラルの抑圧への反発から来たのであろうから、近代社会が如何様にニュートラルを捨て去って来たかの証明にもなっているだろう。
「ホテル・カリフォルニア」の歌詞は難解とされているが、ホテルを「ニュートラル」に置き換えて味わうとすんなりと当て嵌まってしまう気もするのだが、どうだろうか。
ニュートラルという観点からすればポストモダンとてニュートラルを正面切って解放した痕跡は見当たらず、抑圧したまま依然として近代西洋のメインストリームから抜け出てはいなかったのだと思われるのだ、残念ながら。例え音楽でジョン・ケージを絶賛していようとも(ドゥルーズ=ガタリ)人間自体の「ニュートラル」をこそ対象にしていないのならポストモダンは砂上の空論(蜃気楼)だったという疑いも消えないだろう。
蛇足として何故日本のポップスは桑田佳祐の亜流、日本語を英語のように発音するのがスタンダードになってしまったのだろうか、について書いてみよう。恐らく小節に対するコンプレックスから来ているのだと思っている。小節が使えない歌手の劣等感を埋める手軽な方法だからだ。日本語は喋りでは粘り気は殆ど認められないが(だから小節が必要)、英語は巻き舌など普通に話していても粘る。手軽に誰にでも出来、小節に対抗出来る歌唱法。魅惑的ではないか。桑田佳祐の独特の歌い回し、表現は言語の発音で粘ろうという苦肉の戦略だったと思う。
そしてニュートラルも半ばぶち壊してくれた。メロディに粘り気をくっ付けてしまったからだ……ニュートラルのパートを不明にした喧しい音楽の誕生だった。(つづく)
2024/03/21
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