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【短編小説】戀う -KOU-

「やっと あえた」
 病棟の中庭にたたずむ男性を見つめて、ばあちゃんは絞り出すように言った。
「お~ん」
 そして、いきなり泣き出す。車椅子から飛び降りるかと思うくらいに前のめりになり、おんおんと泣いている。迷子の子どもが親を見つけた時のような、あけすけな号泣っぷりだ。
「やだ、ばあちゃん、どうしたの?」
 私は慌ててなだめるけれど、ばあちゃんのおんおんは中庭に大反響。散策中の患者やスタッフが、一斉にこちらを見る。
「ばあちゃん、よしよし、泣かないでぇ」
 あぁ、いたたまれない。芝生の緑が、妙に青臭さい。
「あぁ俺?」
 周囲の反応からワンテンポ遅れて、男性がぬるりと振り向く。薄緑色のエプロンを着用した、介護士の板倉さんだ。目の下のクマが濃い。半年前、この病院に配属された時はパリッとした新鮮な香りのイケメン君で患者やスタッフから大人気だったのに。今や、立ち枯れたネギ坊主みたいだ。私はばあちゃんに負けないように声を張り、出来るだけ陽気に振る舞う。
「えっと、板倉さん、ですよね。声かけてすみません。では、ばあちゃん、撤収しまぁす」
 ネギ坊主に反応はない。何だよ。私は車椅子のグリップをぐっと握りしめる。
 やっぱり来るんじゃなかった。明日も朝から、職員会議という名の吊し上げ大会だ。ターゲットは、たぶん私。二十代・独身という理由で、中二の担任、バレー部顧問、不登校と素行不良生徒の生活指導、モンスター化した保護者対応まで「全部乗せ」で押し付けられている。
「これ以上無理です」
 副校長にそう訴えたら、なぜか逆ギレされて怒鳴り散らされた。もう何日も眠れていない。ばあちゃんを見舞ったのは、たぶん私の現実逃避だ。
 力任せに車椅子を押す。ビクともしない。闇落ちのネギ坊主はボッサリ突っ立ったまんま微動だにせず。もう、何なのさ。あ、車椅子のストッパー外すの忘れてた。
「いんご」
「え? 何? ばあちゃん」
「いんご、とんらの」
「あ? あぁ、はいはい。インコが飛んだのね」
 誰か助けて。早くここから逃げたい。 
「こずえぇ」
 病棟の出入口で私の名を呼ぶ声がする。救世主? 見ると、じいちゃんが両手を振り振り左右に揺れながら近づいてくる。阿波踊り? いやいや。
「じいちゃん、走んなくていい。転ぶよ!」
 私の声は、自分でもビックリするほど刺々しい。それでもじいちゃんは、少し照れたような笑顔で、よろめきながら私の側にやって来た。
「こずえ、すまんかったなぁ。忙しいのに。医者から、ばあさんの治療なんたらっての聞かされとった。ようわからんかったが」
 息を切らし汗を光らせ、無口なじいちゃんがしゃべってる。
「お? どうしたんか?」
 じいちゃんは、しゃくり上げているばあちゃんに気付いた。
「しらん。急に泣き出した」
「ほうかね。ほれ、泣くな、泣くな」
 じいちゃんは自分の汗を拭っていたハンカチで、ばあちゃんの涙をがしゃがしゃ拭く。それだけでばあちゃんは、なぜか大人しくなる。
「戻ろ。病室」
 もう疲れた、と言いかけて私は言葉を飲み込み、車椅子のストッパーを外す。
「かっこ、いうとき、きしゃで」
 ばあちゃんが細い糸のような声を発した。口角によだれがにじむ。
「なに、ばあちゃん。医者? 汽車?」
 あぁダメだ。私、言い方がキツイ。教師のくせに。
「えきで、きしゃにのったん。そんとき、はんたいかわにいく、きしゃもとまとって。まどからみえたん。あんたは、まいんち、おんなじせきにすわとった。おぼえとる?」
 ばあちゃんは潤んだ眼で、ネギ坊主を見つめながら一途に何か伝えようとしている。
「きしゃがでる、ちょっとんまに、めぇがおうて。あいさつしたん、まいんち、まいあさ」
 ばあちゃんは、糸を紡ぐように言葉をゆっくりと手繰り寄せている。自分の話は一切しない人だったのに。この頃は、声を出すことすらなくなっていたのに。
(こずえ、あんたは大丈夫)
 元気な頃のばあちゃんの声を思い出した。いつも柔らかく笑いながら私の話をただただ聴き、最後に必ず言ってくれた。(大丈夫)だと。私はばあちゃんの(大丈夫)が欲しくて、ここに逃げて来た。そう、もう二度と(大丈夫)はもらえないのに。
(ばあちゃん、大丈夫。今度は私が聴く)
 私は溜息を吐き、耳を澄ます。空気の中に漂うかすかな言葉の気配を、ひとつも聴き逃してはならない気がして。

「きしゃがはっしゃする、あんたは、はんたいのほうへいく」
 ばあちゃんちで見た、セピアカラーの写真を思い出した。古いアルバムの中にいた、少し緊張した面持ちのおさげ髪の少女。少女が動き出し、ひなびた駅舎に駆け込む。ホームで、パパッとスカートの裾をはたきセーラー服を整える。双方向から汽車がやって来て停車する。人々が乗り降りする間を縫うようにして少女は汽車に乗り込む。いつもの窓際の席。空いてる。急いで座席に座り窓の外を見る。反対方向に向かう汽車の窓に一人の青年が見える。ネギ坊主とは似ても似つかない、凛々しい青年。本を読んでいる。少女はうつむいている青年を見つめる。毎日。毎朝。
 ある日、青年がふと目を上げる。ふたりの視線が出会う。電車が動き出すまでの数秒間、ふたりは見つめ合う。毎日。毎朝。
 そしていつしか、ふたりは微笑み、無言の挨拶を交わすようになる。
 いいね。ばあちゃん。なんか、とってもいい。
「あのひ、あんたは、きしゃのまどを、おおきゅうあけた。うちもまど、あけた。ほしたら、あんたが、いんご、りんごを」
 インコ? え? りんご? 
「りんごが、とんだ」
 りんごが、飛んだ? 青年はある朝、汽車の窓を大きく開けた。そして少女に向かって、窓を開けてと身振りで示す。少女もそれに応えて急いで窓を開ける。青年は、少女に向かってりんごを見せると小さくうなずき、投げた。りんごは宙を舞い、向かい側の汽車の窓に飛び込む。少女は胸元に届いたりんごを受け止める。抱きしめるように。汽車が走り出す。青年はホッとした笑顔になり、少女に向かって小さく手を振る。甘酸っぱい。りんごみたいに甘酸っぱいぞ、ばあちゃん。ズタボロの私の心に、りんご果汁並みの潤いが満ちる。
「ありがとう、ユキオさん」
 ユキオ? 名前、知ってるの? あれ? 私は、ユキオという名前ではないじいちゃんの顔を見た。じいちゃんは、すぐそこにいるばあちゃんを見ているはずなのに、どこか遠くの景色を見ているような目をしてる。ユキオさんって、誰?
「ユキオさん」
 ばあちゃんは、ネギ坊主に語りかける。
「うれしゅうて、うれしゅうて。りんご、たべれんかった。でも」
 ばあちゃんは黙ってしまった。少し首をかしげて目を閉じる。涙が、頬をつたって落ちた。
「それから、どうしたの」
 続きをせがむ私に、ばあちゃんの返事はない。
「渡せんかったもんは、ずっと残るで。胸ん中に」
 じいちゃんは、独り言みたいに言った。中庭の木立に風が絡む。木の葉が鳴いている。

 ふいに、ばあちゃんの手が動いた。痩せて小枝のようになった手が、静かに前へ差し出された。その手の先にいる、ネギ坊主の身体が揺れた。誰かに背中を押されでもしたかのように、ツトツトと前に歩み出ると、ひょろりと長い身体を不器用そうに折り曲げて、車椅子の前にひざまずいて言った。
「ありがとな、いくちゃん」
 ネギ坊主は、ばあちゃんの名前をちゃん付けで呼び、小枝の手を両手でそっと包んだ。
(いや、あんたじゃないから)と言おうとしたけれど、目を閉じたままのばあちゃんの顔が、ぱぁっと光を放ったように感じられた。可愛い。おさげ髪の少女の横顔とばあちゃんの横顔が重なる。
「あんな方法しか考えられんかった。恥ずかしかったけど、受け取ってくれて嬉しかったよ」
「りんごにお名前が書いてあって。もう胸が痛いくらいに鳴って、どうしようかと思うた」
「びっくりさせたね」
 な、なに、これ。ばあちゃんとネギ坊主は、手を取り合って何度もうなずき微笑み合っている。
「うち、手紙を書きました」
「ちゃんと届いたよ。いくちゃんの気持ち」
 ばあちゃんが、またうつむく。 
「うそです。だったら、なんで会えんようになったんですか? 待ちました。捜しました。うち、ずっとずっと……」
 ばあちゃんの声は、もうばあちゃんの声じゃない。十代のいくちゃんが、黙って去ったユキオさんに切々と訴えかけている。
「いくちゃん。ごめんな。僕も、ほんまは会いたかった。話したいこと、なんぼでもあった。ごめんな」
「でも良かった。ご無事で。こうして会えたもの。本当に良かった。うちは、ユキオさんのことを」
「うん。ありがとな。僕もや」
「うち、ほんまに、うれしい」
 ばあちゃんは深い呼吸をした後に、すうっと力が抜けたようになりキレイな笑顔のままで寝息を立て始めた。

 中庭には、もう私たち四人しかいない。残されたユキオさんことネギ坊主は、夢から醒めきれていない表情でぼんやりと座り込んだままでいる。暮らしの道筋を忘れたことで、心の奥底に隠されていた忘れられない人がばあちゃんの世界に現れた。何も語らなかったばあちゃんの、儚くて美しい物語。

 じいちゃんは、ネギ坊主の肩を軽くポンポンと叩いた。
「すまんかったな。付き合わせてしもうて。でも、ユキオがほんまに戻って来たかと思うてたまげたわ」
「え? じいちゃん、ユキオさんて」
 私とネギ坊主は同時に息をのみ、じいちゃんを見た。
「幸雄は、わしの同級生。わし、汽車の隣の席に座っとった。りんごの手紙を提案したの、わしな」
 私はどんな反応をしていいのかわからず、言葉が出せない。
「戦況が悪化して、幸雄は出征することが決まった。淡い気持ちじゃったけどな、その最後の日に、りんご、飛ばしたわ。生涯の思い出ができたって幸雄は泣いとった。絶対に帰って来いって約束したんじゃけどな」
 じいちゃんはそう言うと、ばあちゃんの耳元に顔を寄せた。
「わしゃ、幸雄の想いとずっと一緒におるで。ずっとな。じゃけ、安心せい」
 じいちゃんは「おいしょ」と声を出し、車椅子を押して病棟へ戻って行った。小さくなるじいちゃんの背中を見送りながら、私とネギ坊主は動くきっかけがつかめない。ふたりの影が、長くなる。
「俺」
「え?」
「なんか、すみません、どうしてあんなことをしたのか」
 ネギ坊主は、申し訳なさそうにうつむいている。
「いえ、こちらこそ」
 ふいにネギ坊主は立ち上がり、初めて出会った人のように私の顔を見つめた。ネギ坊主、目の下のクマは濃いけれど、きれいな目をしている。
「いくさんの、お孫さんですか?」
「そうですけど。え? 今、ですか?」
「あ、すみません。あの…… 俺、わかったんです。急に理解出来ました」
「何を?」
「この仕事のこと。俺、人の役に立ちたいと思ってここに来たんですけど、汚いし、臭いし、患者も家族もスタッフも、文句ばっかりだし。心身ともに限界でして」
 なぜ、それを私に? 共感しかないけど。
「でも、いくさんのお陰で気付きました。人って、その人だけのお話? 何か、特別な物語みたいなものを、みんな持ってるんだなって。めちゃくちゃキレイな瞬間が、絶対、誰にでもあるんだなって。これ、凄くないですか。それを、ちゃんと聴くことが、俺の本当の仕事なんじゃないかって思って」
 ネギ坊主の言葉が、私の身体中を駆けめぐる。バラバラと音を立てて、涙がこぼれ落ちた。私は教師のくせに、子どもたちの声を、その奥に隠されている物語を聴こうとしたことなんて、一度もない。自分のことだけで精一杯。
「どうしました?」
 ネギ坊主は呪いが解けたみたいに、スッキリとした介護士・板倉さんに戻っている。
「ごめんなさい。ばあちゃんも孫も、泣いてばっかりで」
 そう言うと私は、ばあちゃんにそっくりな声でおんおんと泣き出した。中庭に私の声が反響する。
「あれ? えぇっと、どうしよう。大丈夫ですか?」
 板倉さんは、エプロンのポケットからハンカチを出したり引っ込めたりしている。ばあちゃん、私、きっと大丈夫だよね。人の心の奥底にある物語を、ちゃんと聴き取ることが出来る人になれるよね。
「あの……」
 板倉さんが話し出す。
「泣いても大丈夫です。俺、ちゃんと聴きますから」 
 
 板倉さんの声は、夜明けに降るの雨のように優しい。
 私は、そっと耳を澄ました。

(了)


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